2012年11月5日月曜日

戦前のモニュメントについて

 明治維新後、欧米の文化に倣い、日本に「銅像」が建てられます。しかし、それは銅で作られた佛像のようなもので、特定の人物などを拝することを目的とし、所謂モニュメント、記念碑的なものではありませんでした。

そこで、建築物と彫刻との融合としての「モニュメント」を研究したのが、齋藤素巌や日名子実三率いる「構造社」でした。
日名子は、「帝都復興審議会」の復興計画の一つである1934年(大正13年)に開催された「帝都復興草案展」の「大震災火災記念営造物草案懸賞規定」という懸賞競技に「死の塔」と「文化炎上碑」を出品します。それらは人体(裸婦像)と建築物とが有機的に組み合わさった構造体で、「構造社」の標榜する「彫刻の実際化」を示すモニュメントでした。
斉藤素巌は『日本の彫刻家達は、構成や総合が嫌ひなのか、その技術に堪へ得ないのか、少しもモニュメンタルな方面へ動かうとしない。今年の試みが成功であるか、失敗であるかしらないが、こうした研究を等閑に附してゐた方が間違っていることは確かである。』と「モニュメント」の時代であることを宣言します。

「構造社」だけでなく、日名子実三が移った「国風彫塑会」において日名子は「八紘之基柱」に「航空表忠魂」「上海陸戦隊表忠塔」を発表、同じ構造社であった濱田三郎は「詩人の碑」、池田優八は「軍用動物記念塔」を発表します。
森大造、中野四郎、村井辰夫、長沼孝三らの「九元社」や、「新制作派協会彫刻部」が新設された「国画会彫刻部」もまた共同制作によるモニュメントの研究し、発表を行います。
本郷新は「彫刻家の課題」と題し、建築と彫刻は『不可分の構造的総和として一元化しなければ』ならないと言い、彫刻の建築的役割の有用性を説きます。若い彫刻家たちにとって「モニュメント」とは、新時代の彫刻として情熱を傾けることのできる表現媒体であったのでしょう。

 社会においては、昭和初期、同盟国独逸ではヒットラーの司令の下に、ベルリンの街に巨大なモニュメントが建ち並びます。日本もまた「役立つ美術」「目的を持つ美術」といったプロパガンダに用いられる戦時下の美術として、「モニュメント」と言う彫刻家の新しい仕事に注目が集められるのでした。

陸軍美術展(昭和19年3/8~4/5) パンフレットより

 圓鍔勝二(会員)    大東亜建設碑(香港)縮尺1/500

笠置季男(会員)    ブキ・テマ戦跡記念碑(部分)縮尺1/10

古賀忠雄(会員)    ジャカルタ(大東亜建設記念碑)

中川爲延    大東亜建設碑(新京)(縮尺1/100)

 長沼孝三(会員)    聖戦記念碑(ラバウル)(縮尺1/40)

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