2018年7月18日水曜日

ロダンと親鸞とナショナリズム

「煩悶青年のテロと彫刻家」にて、当時テロを起こした煩悶青年の思想と彫刻家たちとの間に似たものが流れていたのではないかと書きました。
http://prewar-sculptors.blogspot.com/2018/06/blog-post_30.html

そんな煩悶青年だった人物、「原理日本」を創刊し、左派や識者に対し強烈な批判を行った国家主義者で詩人の三井甲之は、1913年に「人生と表現」誌で発表した「歎異抄」においてこのように述べています。
宗教とは人生の全展開に随順して拡大無辺の内的生活に没入することである。(中略)阿弥陀経などは此の心境を説明したものであるが、それはむしろ直接的芸術的創作を以て代ふべきもので、阿弥陀経に代ふべきものはロダンの芸術の如きである

三井甲之は、自身の煩悶を乗り越える為に、正岡子規の俳句と親鸞の思想に傾倒します。
正岡子規のあるがままを写す「写生」という概念は、ヨーロッパの自然主義からの影響もありますが、何より松尾芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」のような我や個性を超越した境地、観察者の視点さえ無くなった自然のあるがままを詩文で表すことを目指したものです。

この「あるがまま」を肯定する思想として、三井甲之は親鸞の「自然法爾」を理解します。
「自然法爾」とは、自己のはからいを打捨てて、阿弥陀如来の誓いにすべてを生ききることを言います。

また、彼にとってロダンの芸術とは、まさに自然主義であり、人間身体をあるがままを描いたものだと考えます。
自己の我や個性を超えて、自己のはからいを打捨てて、ただ「芸術」にすべてを生ききる、それが彼の芸術観であり、阿弥陀経によって述べられた心境と同じものだと言います。
そうして、彼はロダンと親鸞の思想とを結び付けます。

彼のようなロダニズムは、特殊なものではありません。
例えば朝倉文夫は、自身の出世作「墓守」についてこう述べます。
『従来の制作は自分の主題のものばかりだったから非常に苦しんだ。ところが自然を見ると自分が考えているより自然の方がどうもよく見える。(中略)「墓守」を作ったとき、私は純客観の立場にいた。(中略)純客観は正岡子規が論じていたが、私はこれでなくてはいけないことに気がついた。そしてその後私は主観と決別して客観に徹する態度に一変した。』
ここでも正岡子規が登場しますが、朝倉文夫は正岡子規に弟子入りしようとするほど傾倒していました。
ですから、自身の彫刻観に正岡子規の「写生」を取入れたのですね。
三井甲之のロダニズムも朝倉文夫の彫刻観も同様に、純客観を重視し、自己のはからいを討捨て、あるがままの自然に美を見出したわけです。

親鸞とロダンを結びつけた三井甲之は、その後親鸞の思想によって国家主義を肯定していきます。
彼の親鸞信仰にある「あるがまま」を受け入れる思想は、この世界を肯定することであり、『祖国日本』つまり天皇の統治する故国日本を肯定することへと繋がっていきます。
そして、左派や識者は、この阿弥陀の誓いによって救われるべき世界を知識や思想による社会改革、つまり自己のはからい、自力によって変えようとする者たちであり、何よりも否定すべきだと考え、思想攻撃をしたわけです。

それはつまり、自然をあるがままに映し出すロダンの美しい彫刻を、人智によって歪ませる輩があり、それを強く非難したわけですね。
その姿は、抽象彫刻を非難する後年の朝倉文夫や石井鶴三に重なります。

朝倉文夫は、戦時下の著書「美の成果」や「民族の美」では強烈なナショナリズムを展開しますが、戦時下の彫刻作品にはそれほど戦時を感じさせる作品は少ないようです。
それは、彼が戦時下の作品を生み出せなかったのではなく、もしかしたら彼の裸婦のような「あるがまま」を描いた作品そのものが、三井甲之と同じ強烈なナショナリズムを内包したものなのかもしれません。

0 件のコメント:

コメントを投稿