2023年4月23日日曜日

直土會 第一回展覧会 建畠大夢 作「陸奥宗光」絵葉書


直土會は、1940(昭和15)年に建畠大夢によって組織された彫刻の会です。
彼は当時、東京美術学校の教授で、この直土會でも多くの後進を導いていたそうです。
しかし、その2年後、1942(昭和17)年に建畠大夢は亡くなります。

この直土會第一回展覧会では、「睦奥宗光」の他、建畠大夢による「井原氏の体」「井原氏の顔」が展示されます。
直土會の実像って、この当時のいくつかの会派と同様、よくわからないところが多くて、こういった絵葉書は貴重ですね~。

さて、この像は、よく見る陸奥宗光の横顔をモデルにされたと思われます。
それほど大きな作品ではないようです。
髭がきっちり鬢付けで固められていますね。
バッファローの角の様な口髭、それと顎鬚なんか、こうはならんだろって形で整えられています。
理想化なんでしょうか?

睦奥宗光は明治30年に亡くなっていますから、建畠大夢の人生と重なる部分はあったでしょう。
ただ、この大事な第一回展覧会で、彼の像を造ったと言うのは何か意味があるように感じますね。
1937(昭和12)には国会議事堂に朝倉文夫作「大隈重信」像、北村西望作「板垣退助」像、建畠大夢作「伊藤博文」像が設置されます。
http://prewar-sculptors.blogspot.com/2013/03/blog-post_9.html
そこで抜けた英雄「睦奥宗光」を造ったのでしょうか?
陸奥宗光って、私にとっては漫画『お〜い!竜馬』の才気あふれる若者ってのイメージなんです。
第一回展覧会という最初の展覧会で、明治を生みだした英雄の像、その中でも先走る才能と変革を生みだした「睦奥宗光」を選んだのかも。
この時代、彼はどんなイメージを与えられていたのでしょうね。

2023年4月17日月曜日

日本家屋と「ロダンの考へる人」絵葉書


日本家屋内にある「ロダンの考へる人」絵葉書です。
この絵葉書からは、いつの頃の何の展示でこの「考へる人」が展示されているかわかりません。
わかるのは、これが戦前の絵葉書で、中サイズ程度の「考へる人」と、壁面にも額に入った作品が展示されているってことですね。

ロダンの「考へる人」が日本で初めて展示されたのは、1920(大正9)年に開催された再興第7回の院展だそうです。
その展示では、彫刻4点と素描66点が展示されたと聞きます。

もし、この絵葉書の展覧会がその頃の院展であるならば、竹之台陳列館で行われたということになりりそうですが、この絵葉書とは違う様な.....
座敷ですものね。
ただ、周りの額縁は、ロダンの素描の様な気もします。
ガラスケースに入った小品も見えますね。

さてさて、真相はなんでしょう?

2023年4月9日日曜日

彫刻家菊池一雄筆「彫刻家高村光太郎」原稿



彫刻家菊池一雄による高村光太郎論、直筆原稿です。

『彫刻の伝統の中に生まれた宿命的な著者(※高村光太郎)にとっては、日常生活もそしてその詩も、すべてが彫刻の世界である。』
『高村氏はまことに寡作の彫刻家である。或は人の目にふれる彫刻作品は、その詩よりも少ないかもしれない。しかし、それは彫刻に対する情熱の不足を示すものではない。むしろあり余る情熱に彫刻が溺れるのを怖れるのであり、その詩は彫刻を病熱から護る役目を背負っている。』

彫刻家による高村光太郎論によくある、高村光太郎って凄いんだぜ!論ですね~
高村光太郎の文章に薫陶を受けた彫刻家って皆、こういった語りの印象を受けません?
具体的に光太郎の重要性や個々の作品を語るのではなく、俺が凄いと思っているからそうなんだって文章。

この原稿では文字数少ないし、しかたがないのかもしれませんけどね。
(ちなみに世にある岡本太郎論も同じ印象)

高村光太郎の最後の作、十和田湖の「乙女の像」には、その建設委員に土方定一や草野心平の他、菊地一雄も加わっています。
彼らの推薦と協力が合って、あの腰の重い光太郎による「乙女の像」が1953(昭和28)年に建立されます。
この像は、向かい合う2体の裸婦像です。

また、菊池一雄の代表作に、1951(昭和26)年に日本電報通信社創立50周年記念事業碑として東京都千代田区隼町の三宅坂小公園内に設置された「平和の群像」があります。
「愛情」「理性」「意欲」をテーマとして原型を制作した3体の裸婦像です。

それぞれ2体と3体の裸婦群像。
年代としては、「平和の群像」が早いのですが、意識し合うことはなかったのかな?

2023年4月2日日曜日

改号紀念 渡南會作品目録 及び 趣旨會則


「改号紀念 渡南會作品目録 及び 趣旨會則」






「渡南」と改号した彫刻家による作品目録になります。
彼の実名は「長愛之」。
東京美術学校を明治32年に卒業した彫刻家です。
彼の作品と言えば、芸大にある昭和2年作「竹内久一先生」像。
同じく芸大には「島津義久」石膏像等が残ってますね。

この目録では、彼が1904(明治37)年に行われたセントルイス万国博覧会に出品した事、1903(明治36)年第五回内国博覧会において農商務省委託で庭前大噴水像を製作とあります。
これかしら?

この作家を研究されてる研究者さんっていますかね~
その方に届け!