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2024年7月7日日曜日

畑正吉 作「國民精神作興ニ関スル詔書」レリーフ




 『国民精神作興ニ関スル詔書(國民精󠄀神󠄀作興ニ關スル詔書)は、1923(大正12)年11月10日に大正天皇の名で摂政宮(皇太子裕仁、後の昭和天皇)が渙発した詔書』です・
https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317939.htm
これを記念し、造幣局から出された畑正吉によるレリーフです。
左下に「畑正吉謹作」とありますね。

作成日の記載はありませんが、同じく大正12年頃だと思われます。
揮毫は書家山口彦總(山口半峰)。彼は、1914(大正3)年に宮内省に入り貴重文書の浄書を行っていました。

このレリーフ、結構大きくて幅が50㎝程あります。
中心上に菊花紋章。詔書の周りに神々が描かれています。
岩の裂け目から漏れる光や鶏、踊る女神等々から、天岩戸の場面の様に思えます。
天照が現れる様子と国民に与えられた詔書とを重ねた表現になっているのですね。
それよりもこの作品を見て思うのは、旧約聖書のモーセの十戒のイメージです。
映画「十戒」は1923年製ですから、畑正吉が参考にしたはずないのですけどね。
神話のイメージというのは、古今東西変わらないものなのかもしれません。
ただ、大正12年は、畑正吉が欧州留学から帰って来た翌年。
右端の狭い範囲でありながら多様に見せる群衆の描き方の見事さなど、欧州で学んだ知識が生かされていることは確かでしょう。
単身の人物像の多い畑の作品ですが、こういった物語性のあるものは貴重ですね。

2024年4月29日月曜日

乃木将軍銅像と大日本国防婦人会



割烹着姿に白襷、1932年に結成された「大日本国防婦人会」の写真です。
大阪で生まれたこの会ですが、全国に展開します。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%98%B2%E5%A9%A6%E4%BA%BA%E4%BC%9A

真ん中に立つ像は、その姿から乃木希典の銅像と思われます。
当時存在した乃木将軍の銅像は、山口県の長谷川栄作による像、香川県の田中雄一による像、愛知県西尾の像、そして江の島の片瀬海岸の像。
この像の姿に似ているのは愛知県西尾の像なのですが、戦時中にコンクリートに変えられ、現在は西尾市の熊野神社に建っています。
https://ameblo.jp/pont-neuf0603/entry-12470632973.html
ただ、この姿の乃木将軍像というのは、二宮金次郎像と並んで量産され全国に建てられていますから、本当に西尾の像なのか。

どちらにせよ、乃木将軍の像の前に並ぶ大日本国防婦人会のご婦人たちというこの写真は、当時の世相を描いてますね。

2024年2月25日日曜日

大正14年 平野吉兵衛原型「桑田正三翁壽像 石井吉之助胸像」絵葉書

1925(大正14)年に建てられた「桑田正三翁壽像 石井吉之助胸像」の除幕式記念絵葉書です。







桑田正三は、1855(安政2)年生まれ1933(昭和8)年没、明治期の大阪を代表する写真材料店「桑田商会」を営んだ人物で、石井吉之助はその甥にあたります。
彼らは、1904年現在もより現在も続く浪華写真倶楽部の創立者です。
絵葉書には記念碑の全体写真、各人肖像の碑文の写真が載っていますが、倶楽部の写真家たちが撮ったものなのでしょうね。

葉書にある工事概要です。
設計 京都市技師 寺岡謙造氏
様式 近世式ワグネル型
起工 大正14年9月3日
施工 大正14年12月8日
鋳造 青銅製 楕円形 高さ三尺一寸幅二尺四寸
   原型鋳造士 京都 平野吉兵衛氏
碑額 高さ一尺八寸 幅五尺八寸
   鋳工 京都 平野吉兵衛氏
   碑文及び揮毫 大阪 池幸吉氏
鋳造台 花崗石 幅四尺 高さ六尺五寸 厚さ二尺
用材 全部 備中国北木島産 花崗石
施工者 京都 平野吉兵衛氏
外見 幅奥行十三尺 高さ地上十六尺
基礎工事 耐震鉄筋コンクリート 幅四十八尺 奥行二十四尺 深さ十尺
於 大阪市西成区西入船町桑田工場敷地内

設置された場所は、大阪市西成区西入船町桑田工場敷地内。
今では存在しない記念碑ですから、戦時に回収されたのかもしれません。

また、ここにある原型鋳造士平野吉兵衛とは、京都の工芸家です。京都商工会工芸部長であった人物です。関西における鋳造の大家ですね。
東京の彫刻家を使わず、こうした地元の人物を選ぶところに、関西写真家たちのこだわりを感じさせます。石も備中国(岡山あたり)ですし。

「耐震鉄筋コンクリート」ってあたりが関東大震災後って感じがします。
このころから使われた言葉なんですね。

様式にある「近世式ワグネル型」とはゴットフリード・ワグネルの紹介した型式でしょうか?
ワグネルも京都に関わる人物です。
確かに、1924(大正13)年に京都市で開催された東宮殿下御成婚奉祝万国博覧会参加五十年記念博覧会に際し建立された「ワグネル博士顕彰碑」は、この「桑田正三翁壽像 石井吉之助胸像」記念碑と同型です。
https://4travel.jp/dm_shisetsu/11583107
最新の洒落た造形だったのでしょうね。
「ワグネル博士顕彰碑」のレリーフの作家が調べてもわからなかったのですが、もしかしたら平野吉兵衛なのかも?

2024年2月4日日曜日

植民地の銅像

1928(昭和3)年、朝鮮の釜山商業会議所に建てられた「大池忠助翁銅像」の銅像です。
作者は上田直次。
明治13年広島生まれ、木彫を山崎朝雲に、塑像を朝倉文夫に学いびます。
昭和11年にはドイツ人フォン・ウエグマンに認められ、独仏に紹介されたりした。晩年は広島県美術展の彫刻部発展に尽力されました。
文化遺産オンライン
広島県立美術館には、上田直次作「杉本五郎像」(1938年)が所蔵されています。

銅像となった「大池忠助」は、安政3年生まれ。明治8年朝鮮釜山にいき、海運・製塩・水産・旅館業などの事業を起こします。
1915年の第12回衆議院議員総選挙で長崎県対馬選挙区から無所属で出馬し当選したが、当選無効訴訟事件の確定に伴い議員を退職しています。
彼は、植民地期の全時期を通じて釜山府協議会協議員、釜山商業会議所会頭、釜山繁栄会会長、官選慶尚南道議員等を務める重鎮であり、その功績を称え、亡くなる2年目の昭和3年に釜山商業会議所前に銅像が建つこととなったのでしょう。

上田直次としては、亡くなる、前になんとか…といった思いがあったかもしれません。
絵葉書には、そんな「大池忠助翁銅像」の除幕式、お披露目の瞬間を撮影されています。
釜山商業会議所が紅白の垂れ幕で飾られ、大勢の人が集まっています。

朝鮮等の植民地に建てられた銅像というのは、やはり民族意識を刺激されるものです。
ですので、当時から同じように残っているものはありません。
この上田直次の作品も、すでに失われているようですね。

そんな植民地の銅像をもう一つ紹介します。

「Rhodes statue, Botanic Gardens, Cape Town 」と題されたこの絵葉書には、南アフリカの鉱物採掘で巨富を得て植民地首相となり、占領地に自分の名(ローデシア)を冠したギリス帝国の植民地政治家「セシル・ジョン・ローズ(Cecil John Rhodes)」の銅像が写されています。
彼は、「神は世界地図がより多くイギリス領に塗られることを望んでおられる。できることなら私は夜空に浮かぶ星さえも併合したい」と著書の中で豪語した人物ですね。

銅像は、1908年にケープタウンのカンパニーズ・ガーデンに建てられました。
現在も、見ることができます。

近年になってローズの人種差別主義への反発の声が南アフリカ及び祖国イギリスで高まり、2015年にはオックスフォード大学にあるローズを顕彰する銘板を校舎の壁から撤去することを決め、銅像についても撤去する意向を明らかにしました。
これに影響を受け、南アフリカ各地にあるローズの銅像や記念碑を撤去しようという動きが広がりつつあるそうです。

何かを公的に顕彰する、記念するという行為そのものが、私たちには難しくなっているのでしょう。
それは良いことだと私は思いますが、公の中でしか生きられないのも私たちであり、混乱はしばらく続くだろうと思います。
撤去工事終わる 群馬・高崎市の朝鮮人追悼碑めぐり県が行政代執行

2024年1月28日日曜日

安永良徳 作「ダナエ」レリーフ再制作?



安永良徳については数回前に書きましたね。
彼のレリーフ作品です。
この作品の素材は石膏。額と作家名が左から記されていることから、戦後の作だと思われます。
ただし、この作品に似た立体を安永良徳は作っています。
それは、1937(昭和12)年に行われた第拾回構造社展覧会において「ダナエ」と題された立体です。

「ダナエ」はギリシャ神話に出てくる女性で、ゼウスとの間に英雄ペルセウスを生みます。
彼女の父アルゴス王アクリシオスに恐れられ、母子ともに箱に閉じ込められて海に流されますが、無事に漂着します。

この作品は、その場面を描いたものでしょうね。つまり、傍らに寄り添う子がペルセウスなのでしょう。
戦前の構造社で好まれた母子像として、この題材を選び、作品としたのだと考えられます。

その造形は、母子の姿を抽象化し、キャラクターの様になっています。
くの字にまがった体に、あり得ない方に伸びていた腕、「構造社」の名前の通り新しい構造を表現することこそを主題とした作品なのでしょう。
それは、当時の最先端表現でありました。

そのような「ダナエ」を戦後にレリーフ化したのでしょうか?
気になるのは、戦前の「ダナエ」と比べると、このレリーフは鏡像のように反転されている事ですね。
どうしてなのでしょう?
反転した作品を参考にレリーフ化したのでしょうか?
謎です。

2023年11月19日日曜日

R.COCHET 作 池田大作 メダル


R.COCHETとは、フランスのメダル作家、彫刻家のロベール・コシェ(Robert Cochet) (1903 - 1988) と思われます。
コシェは、1954 年から 1958 年にかけてフランスのモネ・ド・パリ造幣局とボーモン・ル・ロジェ造幣局で鋳造されたコイン等々、多くのメダル、コインののデザインをしています。
コシェは、1954 年にマドリードで開催された万国博覧会で賞状とメダルを授与されました。彼はサロン・デ・アルティスト・フランセの会員に選ばれ、彼のメダルは大英博物館、クライスラー博物館、ハーバード美術館のコレクションで見ることができます。
近現代メダル会の巨匠なんですね。

そんな彼が手掛けた、メダルの一つがこの 「池田大作」をモデルとした創価学会のメダルです。
ベール・コシェは、フランスだけでなく、ラオス、ベトナム、サルジャ、イエメン、コモロ、中央アフリカ諸国、西アフリカ、ボリビア、ギリシャなどで彼の署名入りコインが制作されています。その中で彼が手掛けた日本人像は、どのくらいあるのでしょう?

裏には「TAISEKIJI」と富士をバックにした大石寺の姿が彫られています。
つまり、このメダルは、日蓮正宗から創価学会が離れた1991(平成3)年以前のものなのでしょう。
コシェの亡くなった年が1988年であることからも、彼の晩年の作であろうと想像します。

そんな池田大作氏が15日に亡くなりました。
まさに巨星墜つ。
現在、昭和の新興宗教の信徒数が右肩下がりとなっています。
そんな中、創価学会は池田大作氏を日蓮上人と並ぶカリスマとして神格化していくのか。
または、ジャニーズや宝塚のように昭和のカリスマが解体されていく昨今、次の信仰を模索していくのか……
興味あるところです。

足利公園内 「明治二十八年・三十八年戦役記念碑」水彩画


現在も栃木県足利市の足利公園に建っています「明治二十八年・三十八年戦役記念碑」を水彩で描いたものです。
場所はこちら
サインは「T.HOTTA」そして「1936」と描かれています。
1936(昭和11)年に描かれた作品だと思われます。

現在のこの碑に水彩画で描かれていたような周りの格子はありません。
ただ、台座は当時のままのようです。
また、左下に球状の彫刻がありますが、こちらも現在は無いようです。

コレ何でしょう?
船のブイみたいですから、戦艦の慰霊碑しょうか?

頂上には、球状の上に立つ鳥が。
ヤタガラスでしょう。
そして、「明治二十八年・三十八年戦役記念碑」とあります。
明治28年は日清戦争の終結、下関条約を結んだ年です。
明治38年は日露講和条約が結ばれた年ですね。
この年を記念し、建てられた碑だとわかります。

この記念碑がいつ建てられた物かはわかりませんが、こうして水彩道具を外に持ちだし、写生を行った人物がいたのですね。
西洋で発展したチューブ入りの絵具は、印象派など新しい様式を生み出します。
日本においても、明治期に水彩による戸外制作がブームとなります。
この記念碑は昭和に入ってから描かれたものですが、しっかりと描かれた姿は、明治の戦争を記念するだけでなく、日本水彩画の歴史をも記念した作品になっていると思います。

2023年10月1日日曜日

武石弘三郎ー人物と作品

2か月ぶりです!
今日から再開します。
これからも小さなコレクションの紹介していきます。

ですが今回は、ゆいぽーとで行われている「二葉アーツスクール2023 めだかの学校」のレポートです。『武石弘三郎ー人物と作品』と題し、新潟出身の彫刻家武石弘三郎について、新潟県立近代美術館の学芸員、伊澤朋美さんによる講義がなされました。
ここ「ゆいぽーと」は、妻の出身校である旧二葉中学校が前身で、そこには武石弘三郎による1942(昭和17)年制作の「竹内式部像」が現在も設置してあります。

この像の見学も行いました。





戦前の金属回収も敗戦時の銅像回収も免れ、隠すために土に埋められる等もされたこの像ですが、今はこの暗い木々合間に凛と座られています。
1メートル程しかない小さなサイズですが、威厳を感じまさせますね。

左手には日本書紀。
天皇に「尊王攘夷」を説いた人物であることを、昭和の戦時下で評するための銅像であり、つまりこういうカタチでの「戦争彫刻」と言えます。

その横には「紀元二千六百年 武石弘三郎作」と刻されています。
全国各地で行われた神武天皇即位紀元(皇紀)2600年の祝い行儀の一つとして、この銅像建立があったのだとわかります。

紀元二千六百年は昭和15年。
この像の建立が昭和17年ですから、企画が15年だったのか、それとも必要な物資がなくて延期されたのか、どちらでしょうね?
それと、金属提出を免れるために土に埋めたというエピソードがあるのですが、それも変な話で、敗戦まで埋められていたというの事なのでしょうか?
像の正面に2か所、ボルトで留められているのですが、これは取り外した跡?
色々気になりますね!

あと、私の持つ小さな銅像ですが、やっぱり武石弘三郎じゃないかも!
https://prewar-sculptors.blogspot.com/2021/03/1918-kt.html

2023年7月23日日曜日

斎藤素巌 安永良徳 作 2600年「第十六回日本レントゲン学会長 岩井孝義君」為記念楯





1938(昭和13)年に第十六回日本レントゲン学会長となった岩井孝義を記念して、皇紀2600年、1940(昭和15)年に制作された楯ですね。

岩井孝義は、1894(明治27)年生まれ。
京都帝国大学を卒業し、大正12年京都帝国大学助教授となり、レントゲン部勤務。
レントゲン医学研究のため昭和2〜5年ドイツ、フランス、アメリカに留学。
その後、京大教授となります。

真ん中のヴィルヘルム・レントゲンを描いたのは斎藤素巌。
Soganと銘があります。
「2600」とその隣に「Yasunaga」とあります。
これは安永良徳でしょう。
彼は全体の構成とデザインを担当したのでしょうね。
つまり、このレリーフは構造社の作家による合作です。
構造社の作家はこういった合作を頻繁に行いました。

安永良徳のこの構成ですが、X線の放射の様でもあり、構成主義的でもありイイですね。
斎藤素巌の肖像も流石です。
ただ、この二つの方向がちょっと合わない様な気がしますけどね!

2023年7月10日月曜日

戦前サイパン「群島開拓の功労 松江春次氏銅像」絵葉書







松江春次は、大正11年サイパンに南洋興発を設立。13年には砂糖生産量を74500トンとし、パラオ、トラック両島からフィリピン、ニューギニアにわたる地域に関連会社20社をもつ大コンツェルンに成長させた人物です。
そんな彼は、「砂糖王(シュガーキング)」と呼ばれます。

また彼は、サイパン島や他の島々に、工員のための映画館・理髪店・演劇場・酒場など様々な娯楽施設を建設したそうです。
これらの絵葉書に移された写真は、そういった町の姿です。

 1934(昭和9)年8月に、社長在籍中に銅像が建立されます。
場所は彩帆(サイパン)神社前。
それが、この絵葉書にある銅像ですね。
この像は、戦後まで残り、現在も砂糖王公園のシンボルとして建っています。
現状の姿をネットで検索すると、前身に弾痕が残っているようです。
そうした歴史を背負う姿こそが、パブリックな「彫刻」のあるべき姿ではないか......などと考えてしまいます。

銅像の作者はわかりませんでした。
日本から運んだのでしょうか?

それと、この「近代的文化整然たるサイパン島の本通り」絵葉書には、道脇に像が建っています。

サイパンの人をモデルとした像でしょうか? 
『近代的文化整然たる』街のありようとして、西洋の様なパブリックアートを必要とし、このように建てられたのかもしれません。
この像も作者は誰でしょう?
気になります!

2023年7月3日月曜日

独逸の彫刻家 Paul Scheurle(ポール・シューエル)「ガイア」絵葉書



1941年、ドイツで開催された「大ドイツ芸術展」。
そこに展示された作品で、彫刻家「Paul Scheurle」による「ガイア」です。
ナチスお抱えの彫刻家、アルノ・ブレーカーは巨大男性像で有名ですが、「Paul Scheurle(ポール・シューエル)」は女性像を多く制作していたようです。

この像のように、ヒットラー好みに理想化されたアーリア人「女性」は、産む性として大地や農作地のイメージと結び付けられます。
その均整とれたスタイルは、ナチスの「正しさ」の象徴するものであったのでしょう。

大地の神、豊穣の女神を想像したとき、例えばオーストリアで発見された土偶「ヴィレンドルフのヴィーナス」のような豊満な女性を想像するのではないでしょうか?
日本人なら、「まんが日本昔ばなし」で椀にペタペタとご飯をよそうお母ちゃんのような。
この「ガイヤ」に見られる女性像ではないでしょう。

ヒットラーの愛したアドルフ・ツィーグラー の「四大元素」の女性像も、筋肉質な労働者、近代的な女性像です。
この女性像が豊穣と結びつくのですね。

この豊穣は近代的な農業生産、または工業生産、大量生産を意味しているのかもしれません。
つまり、豊穣=近代的な生産→近代的な女性像 となるのでしょう。
その結果、「ヴィレンドルフのヴィーナス」が、ポール・シューエルの「ガイア」になるわけですね。

良い悪いは別として、近代化によって肥大化した戦争は、働き生産する女性を生みだしました。
これはドイツだけでなく、アメリカや日本もそうです。
日本では「銃後」と言われますね。

戦争が生みだした近代的な女性像は、それまであった男性に従属し、裸体を魅せる女性の彫刻とは異なるベクトルを生みだした、と私は思っています。
例えば、朝倉文夫や藤井浩祐の女性像と、日名子や清水多嘉示とは、その視線、ベクトルが異なる。
そして、佐藤忠良らに繋がるわけですね。
多様化、多様化と叫ばれる昨今、ここから日本の彫刻はどこに向かったと言えるのでしょうか?



2023年6月19日月曜日

新海竹太郎作 前愛知醫専校・院長熊谷幸之輔氏壽像 銅像除幕式絵葉書





熊谷幸之輔( 1857-1923)は、1881(明治14)年に、愛知医学校の後藤新平校長から一等教諭として名古屋に呼ばれ、その後、愛知医学校や愛知県立医学専門学校などの校長を33年間にわたって務めた人物です。

この銅像除幕式は、1918(大正7)年。
熊谷幸之輔は60才。彼の業績を称え、愛知県立医学専門学校に建立されます。
(本人自身が写っている写真がありますね)
現在は、その胸像のみ、名古屋大学の医学部に安置されています。
それにしても、自分自身の銅像の建立ってどういった気持になるのでしょうね!

作者は新海竹太郎です。
東京文化財研究所には、彼の残した熊谷幸之輔像のガラス乾板があります。
https://www.tobunken.go.jp/materials/sinkai/27991.html
材質はブロンズ、高さは5尺(1.5M)。
銅像に合わせて作られた台座が、かなりお洒落ですね~
これが残っていないのは、本当にモッタイナイ。

2023年5月22日月曜日

東京美術学校角力部記念賞 盃



東京美術学校角力部記念賞です。
わかり辛いですが、盃の底には「烏兎(うと)」が描かれています。
太陽の中に烏(からす)、月の中に兎(うさぎ)がいるという中国の伝説があり、「金烏玉兎(きんうぎょくと)」と言います。
これを略して「烏兎」です。
中心には「大正泰平」とあります。

側面には、「東京美術学校角力部記念賞」と、よく見えないのですが「1916年」と刻まれています。

東京美術学校の百年史には、1914(大正3)年に相撲部が発足したとあるので、その2年後の賞のようです。
他にも『石井鶴三の学生時代(明治38~43年)に相撲が非常に強くて、美校が学生相撲の雄となった。学生相撲大会の会場は両国の国技館で、応援団の奇想天外の有名な応援がなされた』とあります。
この歌と言うのが『相撲にゃ負けてもケガさえなけりゃ、晩に私が負けてやる』と踊りながら唄うのだそうで、『あんな歌を唄っちゃいかんと大村西崖生徒監から相撲部の応援部が大目玉』を食らったとか。

この牌、ものすごく手作り感のある作りで、学生たちが自身のために制作したのかもしれませんね。
若々しく蒼い魅力があります。

2023年4月23日日曜日

直土會 第一回展覧会 建畠大夢 作「陸奥宗光」絵葉書


直土會は、1940(昭和15)年に建畠大夢によって組織された彫刻の会です。
彼は当時、東京美術学校の教授で、この直土會でも多くの後進を導いていたそうです。
しかし、その2年後、1942(昭和17)年に建畠大夢は亡くなります。

この直土會第一回展覧会では、「睦奥宗光」の他、建畠大夢による「井原氏の体」「井原氏の顔」が展示されます。
直土會の実像って、この当時のいくつかの会派と同様、よくわからないところが多くて、こういった絵葉書は貴重ですね~。

さて、この像は、よく見る陸奥宗光の横顔をモデルにされたと思われます。
それほど大きな作品ではないようです。
髭がきっちり鬢付けで固められていますね。
バッファローの角の様な口髭、それと顎鬚なんか、こうはならんだろって形で整えられています。
理想化なんでしょうか?

睦奥宗光は明治30年に亡くなっていますから、建畠大夢の人生と重なる部分はあったでしょう。
ただ、この大事な第一回展覧会で、彼の像を造ったと言うのは何か意味があるように感じますね。
1937(昭和12)には国会議事堂に朝倉文夫作「大隈重信」像、北村西望作「板垣退助」像、建畠大夢作「伊藤博文」像が設置されます。
http://prewar-sculptors.blogspot.com/2013/03/blog-post_9.html
そこで抜けた英雄「睦奥宗光」を造ったのでしょうか?
陸奥宗光って、私にとっては漫画『お〜い!竜馬』の才気あふれる若者ってのイメージなんです。
第一回展覧会という最初の展覧会で、明治を生みだした英雄の像、その中でも先走る才能と変革を生みだした「睦奥宗光」を選んだのかも。
この時代、彼はどんなイメージを与えられていたのでしょうね。

2023年4月9日日曜日

彫刻家菊池一雄筆「彫刻家高村光太郎」原稿



彫刻家菊池一雄による高村光太郎論、直筆原稿です。

『彫刻の伝統の中に生まれた宿命的な著者(※高村光太郎)にとっては、日常生活もそしてその詩も、すべてが彫刻の世界である。』
『高村氏はまことに寡作の彫刻家である。或は人の目にふれる彫刻作品は、その詩よりも少ないかもしれない。しかし、それは彫刻に対する情熱の不足を示すものではない。むしろあり余る情熱に彫刻が溺れるのを怖れるのであり、その詩は彫刻を病熱から護る役目を背負っている。』

彫刻家による高村光太郎論によくある、高村光太郎って凄いんだぜ!論ですね~
高村光太郎の文章に薫陶を受けた彫刻家って皆、こういった語りの印象を受けません?
具体的に光太郎の重要性や個々の作品を語るのではなく、俺が凄いと思っているからそうなんだって文章。

この原稿では文字数少ないし、しかたがないのかもしれませんけどね。
(ちなみに世にある岡本太郎論も同じ印象)

高村光太郎の最後の作、十和田湖の「乙女の像」には、その建設委員に土方定一や草野心平の他、菊地一雄も加わっています。
彼らの推薦と協力が合って、あの腰の重い光太郎による「乙女の像」が1953(昭和28)年に建立されます。
この像は、向かい合う2体の裸婦像です。

また、菊池一雄の代表作に、1951(昭和26)年に日本電報通信社創立50周年記念事業碑として東京都千代田区隼町の三宅坂小公園内に設置された「平和の群像」があります。
「愛情」「理性」「意欲」をテーマとして原型を制作した3体の裸婦像です。

それぞれ2体と3体の裸婦群像。
年代としては、「平和の群像」が早いのですが、意識し合うことはなかったのかな?

2023年1月2日月曜日

光照法主御除隊記念







光照法主御除隊記念、龍の記念碑です。
作者は銘に「TATU」とありますが、思い当たる彫刻家はありません。

光照法主は、浄土真宗本願寺派第23世宗主、大谷光照。
母親の姉が大正天皇皇后で、昭和天皇の従兄弟にあたる方です。
彼が昭和12年1月に除隊となった記念の品がこの作品であったようです。

wikiには
『青年法主光照は、昭和の戦時下の教団(浄土真宗本願寺派)を指導した。1933年(昭和8年)には声明集の改定に取り組むなどする一方で、1941年(昭和16年)に宗制を改定、従来神祇不拝を旨としていた宗風を放棄し、「王法為本ノ宗風ヲ顕揚ス是レ立教開宗ノ本源ナリ」と宣言。国家神道と結びついた「戦時教学」を推進した。

特に、親鸞の著作に皇室不敬の箇所があるとして該当部分を削除するよう命じたり(聖典削除問題)、門信徒に戦争協力を促す消息(声明)を発して戦時体制を後押しした。戦時中に発布された消息(聖典とされている宗祖親鸞の撰述に準じるとされていた)では、天皇のため命を捧げよと説いている。』
とあります。

戦時日本仏教界の具体的な戦争協力については、こちらに詳しい
https://news.yahoo.co.jp/byline/ukaihidenori/20220720-00304333


思想史的な流れは、かなり難しく、暁烏敏とか考えれば考えるほど沼にはまっていく......


2022年11月28日月曜日

昭和10年 全鮮工業者大会記念 釜山大橋(影島大橋)文鎮





昭和10年11月17~18に於金山(?)にて行われた全鮮工業者大会記念の記念品です。
モチーフは前年に完成した釜山大橋(影島大橋)と思われます。
釜山大橋は船を通すために跳ね上がる当時の朝鮮唯一の跳開橋であり、「釜山名物」と称されたそうです。
当時の大事業だったのでしょう。そのために、この橋をモチーフにしたと考えられます。
戦後は老朽化の為、橋の撤去も考えられますが、2006年に釜山広域市指定文化財第56号に指定され、2013年に復元工事を終えています。
大切にされているのですね。

建築物をモチーフとしたこうした記念品は、その目的が建築物の建立やオープンの記念であればよくあるものです。
ですが、建築のような人工物を模したものは、モデルであって彫刻とはみなされません。
例えば、法隆寺やサグラダ・ファミリアを絵で描けば作品とみなされますが、そのままミニサイズの彫刻にしても作品ではないのですよね。
そういうバイアスがあるわけです。
ある意味、二次創作とみなすからでしょうか。
ジェフ・クーンズのバルーンの作品みたいにアイロニーを被せれば作品になるのでしょうが。
そうは言っても、二次創作であっても、それを造った作家がある以上、彫刻ではないと切り捨てるのはもったいないと思うのです。
このブログではそういった作品も少しづつ紹介できればと思っています。