謹賀新年!2018。
今年は明治150年!
ということで、今年最初の絵葉書は、明治の年賀状です。
彫刻家、菊地鋳太郎の明治42年の年賀状「石膏模型ニ據リ画ヲ学フ図」
菊地鋳太郎は、明治9年工部美術学校の彫刻学科に入学し、ラグーザに学んだ第一世代の彫刻家です。
この世代の作家達がそうであるように、彼もまた美術の枠組みを作ることを仕事とし、美術教育の質向上のためにデッサンの勉強に用いる石膏模型の販売を行います。
この図画手工用石膏製作所は、そういった石膏の販売や石膏像制作を受け負った菊地の会社だと思われます。
菊地は買い付けに海外に行くことも多かったようで、その頃の写真がこちら
http://www.tobunken.go.jp/materials/hatapict/242716.html
年賀状が出された翌年の43年の写真です。
巴里にて、畑正吉や新納忠之介らと共に撮影されています。
若かりし畑正吉らにとって頼れる先輩だったのではないでしょうか?
また、菊地は明治29年の白馬会の立ち上げに尽力し、さらに美術を学ぶ場として設立された白馬会研究所は、一年間彼の自宅が提供されました。
この「石膏模型ニ據リ画ヲ学フ図」の描かれている場所はその白馬会研究所ではないかと思われます。
明治42年当時、岸田劉生や岡本帰一らがそこで学んでおり、もしかしたら彼らの姿が描かれているのかもしれません。
ただ、少し疑問に思うのは、彼ら学生の姿が皆学ランを着ていることです。
私塾であった白馬会研究所には制服はなかったでしょうし、当時の制服のある美術学校と言えば、東京美術学校になりますね。
東京美術学校では、天心のコスプレのような制服から、明治40年に学ランに変更されています。
当時の東京美術学校では藤田嗣治や岡本一平らが在籍していました。
もしかしたら、この「石膏模型ニ據リ画ヲ学フ図」は東京美術学校の姿なのでしょうか?
私の知識ではどちらかわかりません...
そんな学生達は、中央のラオコーンの半身像を中心に思い思いにデッサンしています。
他にも石膏像がありますが、ラオコーン以外は何でしょうか?
それにしても、こういう学生が集まってデッサンする熱い空気は、明治も現在も変りませんね。