2016年6月26日日曜日

日名子実三 作 日本商工倶楽部三周年記念 大黒天 メダル

本日は、娘とともに多治見市モザイクタイルミュージアムと、多治見の骨董市に行ってきました。
http://www.mosaictile-museum.jp/
新しく出来たモザイクタイルミュージアムですが、さすがにセンスの良い施設で、「好き」な人がデザインしたんだと思わせる素敵な場所でした。
下手な美術館よりクオリティー高し。

それで、骨董市ですが、すでに撤収間際だったのですが、こいつを見つけました。
日名子実三作「日本商工倶楽部三周年記念」メダルです。


現在の日本商工倶楽部のサイトには「昭和8年9月結城豊太郎氏(大蔵大臣、日本銀行総裁、日本興業銀行総裁等を歴任)の提唱により、中堅・中小企業の振興、発展を図る目的で任意団体として発足」とあります。
その三周年記念に商売の神である大黒天のメダルを制作したのでしょう。

「地肥茄子大」(ちこえてなすだいなり)は、『肥えた農地のナスは大きくなるように、優れた師匠の下で修行した弟子は立派な人(禅僧)になる。また、充分な修行を積めば素晴しい悟りが得られることを教える際にも使われる。』のだそうで、禅で用いられる言葉なんでしょうね。

日名子の大黒天のメダルはもう一つありまして、これは展覧会でも出品した「星埜氏記念」のメダルです。


同じモデルを前から横からと見たような造形が面白いですね。
実際、モデルはいたのかなぁ~どうでしょう?
そして、私の知る限り、日名子の大黒天像はこれだけなので、コンプリートしたことになるかと思われます。ヤッタネ!

さて、このあまりに肉感的でリアリズム的な大黒天ですが、こうした神々を肉感をもって描くというものは、明治以降の洋画受容の歴史を重なる部分があると、私は思っています。
どこかでまとめて書きたいと思っております。

2016年6月25日土曜日

畑正吉 作 板垣退助銅像 追加情報



以前も紹介いたしました、岐阜城下に設置された旧板垣退助銅像の追加情報です。
以前の記事

この銅像ですが、今回の私の展覧会でも多くの作品を紹介させていただいた「畑正吉」の作なんですね。
この銅像と関連付けて説明ができていれば、もっと皆さんに興味を持っていただけたのではないかと...自分の知識不足を悔やみます~

設置は大正7(1918)年4月21日。
岐阜の医師で政治家の山田永俊らによって、「板垣退助伯遭難記念銅像」の除幕式が行われ、これには板垣夫妻も出席したそうです。
『作春以来県下有志者の尽力に成れる岐阜公園板垣遭難記念銅像は愈々今二十一日を以て老伯夫妻令息等親しく臨場の上盛大なる除幕式を挙行せらる。会場前には大緑門を設へ付近一帯渓流に沿へる茶亭まで電灯を増点し国旗を連串し且つ会場の周辺には紅白だんだらの垂幕を張繞らす等...」岐阜日日新聞より
また、花火大会、六番踊り等各種催し、青年学生相撲大会までもが行われます。

銅像の高さは8尺(2.4メートル)と人体より若干大きく、台座に乗って見上げる姿は、その頭が小さく見えてしまったことで、畑正吉が制作後悔やんだとか。

板垣退助は翌年の大正8年になくなっているわけで、除幕式当時82歳。
板垣退助の殺人未遂事件が起きたのは、明治15(1882)年。当時45歳。
ちょっと面白いと思うのは、この銅像は80歳台の板垣退助の像であるってことなんです。
つまり、事件を記念していながら、その当時の場景(演壇に立った姿)を模した像ではない。
(殺人未遂現場を記念するってことも変な話ですけどね)

これが、例えば織田信長像であれば、一番パブリックなイメージの像を作るはずなんです。
制作当時に、板垣伯がご存命であったってことが、その当時の姿を作る理由だったのでしょう。
これを、現在の私たちから見ると、ちょっと変な印象を受けるのですよね。

ということは、畑正吉は、板垣退助をモデルに立たせて制作を行ったということでしょうか。
ただし、82歳のご老体が、この銅像にみられるようにここまで背筋を伸ばせることは難しいでしょうから、座ってモデルにし、立ち姿は想像なのかもしれません。

そして、この銅像、昭和18年の金属回収にて姿を消します...
現在は、昭和25年に柴田佳石作として再建された像が建っているわけです。


2016年6月22日水曜日

陽咸二 作 「鷺娘」 絵葉書

陽咸二による東台彫塑会展出品作「鷺娘」の絵葉書です。


東台彫塑会展ですが、第何回と書かれていないことから、一回目だと推測します。
第一回東台彫塑会展は、大正10年に行われています。

大正10年当時、陽咸二は24歳。小倉右一郎門下で、文展に入選した新進気鋭作家として名が出だした頃でしょうか。
東台彫塑会も、小倉右一郎が結成した会であり、その縁での出品でしょう。

作品は「鷺娘」。歌舞伎の演目の一つなのだそうです。
鷺が人間の女となり、踊るのだそうで、『冬景色の舞台面に鷺の精が現れる。その格好は白無垢の振袖に黒の帯、頭には綿帽子を被り傘をさし、鳥の所作などを見せる。』のだとか。

このメーテルみたいな帽子は、綿帽子なのですね。
この像は、石膏でできているのだと思われます。
その石膏の白色を、雪に見立てているわけですね。
お洒落~~~

こういった所謂床の間彫刻は、当時批判の対象でもありました。
しかし、陽咸二の持つ先進性の根っこにはこういった作品があるのだとわかります。
彼は、先進性と古典を彼独自のありかたで調和していたのだと思います。

この作品、現在もどこかに残っているのでしょうか?





2016年6月20日月曜日

「 メダル・コレクション ~戦前・戦中の彫刻家たち~ 」 終了!

岐阜県博物館にて1ヶ月の間行われました「 メダル・コレクション ~戦前・戦中の彫刻家たち~ 」が無事終了致しました。

最初はこんなマニアックな展示に人が来るだろうかと心配していましたが、びっくりするほど多くの鑑賞者に恵まれました。
皆さんのお陰です。ありがとうございます。

特に、東京、九州からと、遠方よりわざわざお越し頂いた方々には感謝の言葉がありません。
ほぼ隠居のような生活、中島よしみっちゃん的に言うところの「人生を半分降りる」ような生活をしていた中で、至らぬご対応を致したこと、恥ずかしい限りです。

それにしても、6年程前から始めたメダル・コレクションとこのブログですが、今回それらの展示ができたことは、本当に良いタイミングでした。
こうした近代の隠れた彫刻史に、研究者の方々を含め、興味をもたれる方が増えてきているのだなぁと感じました。
歴史の教科書ではわからない、人間の匂いのするような多彩な「歴史」が掘り起こされていく姿は、エキサイティングです。
それに、私も少しは貢献できればと、そう思いました。

今回の展示を糧に、さらにコレクションの充実と研究を続けていきます。
次にそれをお見せできる機会は未定ですが、その時はこのブログで報告いたします。

最後に、岐阜県博物館の皆様、特にマイミュージム担当者様
本当にありがとうございました。

中野克俊


2016年6月12日日曜日

東山動植物園の恐竜! その2

戦前、子供たちが触れることのできた恐竜のイメージとは、きっと児童小説だったろうと思います。
であるならば、やっぱりコナン・ドイルの「ロスト・ワールド」ではないかと。

こちらに詳しい情報を書かれた方がいました。

現在の中日新聞の前身にあたる「新愛知」新聞に、「亡くなった世界」と題して大正4年7月~9月まで連載されたそうだ。

当時子供たちが、どれだけ新聞というメディアに触れることができたかはわかりませんが、新聞の普及率が上昇し、100万部超えが現れてたこの時代の新聞連載が、東山動植物園の恐竜像設立の前章になったのかもしれません。

昭和4年には大戸喜一郎訳による編『前世界物語 ロストワールド』が子供向け小説として発売されます。

ただし、聞いたところによると、戦中に入り、子供たちに進化論を教えるととが躊躇されたとか、神々の子孫である我々が猿の進化系?
進化論がわからないと「ロスト・ワールド」も読めませんし、恐竜も語れません。

けど、山本七平のこういう話もあります。
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2005/10/post_bcc0.html

ここのところは実際どうだったかわかりませんが、事実として昭和13年に恐竜像が造られているのです。
ある意味で英断だったのかもしれませんね。

現在では、恐竜は大人気ですし、私のお世話になった岐阜県博物館でも恐竜目当てで子供たちが多く訪れています。
7月8日から9月4日までは、特別展「新・恐竜学 ~鳥になった恐竜の脳科学~」が行われるようです。
鳥は現在に残った恐竜という解釈は、もう普通のことになったんだな~~感慨。

まるでここまでの話が、お世話になった岐阜県博物館の次回展示への前振りみたいになってしまいましたが、「べっ、別にあんたのためじゃないんだからねっ!!!」

後は、「アカンバロの恐竜土偶」の謎さえわかれば、恐竜史はさらに発展しますな!!

2016年6月10日金曜日

東山動植物園の恐竜!

東山動植物園に展示されている恐竜ですが、戦前の作だって知っていました?
http://www.higashiyama.city.nagoya.jp/04_zoo/04_02shokai/04_02_01/04_02_01-09.html

造れれたのは昭和13年だそうです。

そこにいるのは「イグアノドン」「トリケラトプス」「ブロントサウルス」など、かつての恐竜of THE恐竜たちですね!
http://www.asahi.com/articles/ASH7T65GNH7TOIPE01F.html

この恐竜像ですが、独・ハーゲンベック動物園に倣って制作されます。
ここにも恐竜の像があるようです。
http://www.alamy.com/stock-photo-dinosaur-statue-in-hagenbeck-zoological-garden-13704148.html

直立不動のイグアノドンっていうのは、哀愁がありますね。
現在はこんな姿ですよ。
http://www.kyouryu.info/iguanodon.php

日本の恐竜史というのは、1934年(昭和9年)に、樺太豊栄郡川上村でハドロサウルス科の恐竜「ニッポノサウルス」が発見されたことが、最初期の出来事のようです。

当時の子供たちがどれだけ恐竜を知っていたかわかりませんが、私の手元にある大正6年の教科書、飯塚啓著「動物学新教科書」には、爬虫類の欄に「爬虫類は太古に於いて繁栄せしものにして、当時は種類に富み、また大形のもの多かりしが、その大形なるもの今は殆ど絶滅し、まれに化石によりてその当時を追想せしむるのみとなり」とあります。
また「めがろざうるすノ如キハ大形爬虫類ノ一例ニシテ体長約二十五尺アリ」と注釈が記載されてます。
二十五尺は約7.5メートルですね。
メガロザウルスは、イグアノドンと並び、恐竜研究史の最初期(1818年)に発見された獣脚類で、「大きな龍(トカゲ)」を意味します。

『発見は最初期にもかかわらず、現在も詳しい生態が不明のままである。「メガロサウルスの化石の多くが断片的であること」「恐竜の研究が未発達だった時代に、肉食恐竜と思しき化石の多くを『メガロサウルス』として分類してしまった結果、メガロサウルスという種が、本来ならば全く別個であるはずの雑多な恐竜が含まれた“ゴミ箱”のような状況になってしまったこと」などが主な理由である。』だそうです。
悲しい...

さて、東山動植物園の恐竜像の製作者は、船津繁。左官職人で彫刻家だそうです。
京大動物学教室や東京科学博物館から資料を得、60cmの模型を制作、それを図面に起こします。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/coj/48/1/48_1_1_128/_pdf

愛知のセメント彫刻といえば浅野祥雲が有名ですが、ほぼ同時期ですね。
以前、彫刻家のセメント彫刻について、このブログにも書きましたが、これも同時期です。

物資不足の中で、最良のものをと考えて造られたのが、こういったセメント彫刻だったのでしょう。
市民に愛されて、こうやって彫刻が残る姿は、これこそ最良のものって思いますね。





2016年6月7日火曜日

Intermission 美少年と女性画家の戦争画

「戦ふ少年兵美術展絵葉書」です。
1943年(昭和18年)に結成された、女性画家のみによる「女流美術家奉公隊」は、少年兵をモチーフにした展覧会「戦ふ少年兵美術展」を行います。
参加した画家は、洋画家長谷川春子、藤川栄子、三岸節子、桂ゆき(子)、谷口富美枝ら50名。






この展覧会の準備のために、奉公隊はいくつかの少年兵学校を訪問、スケッチを行ったようです。

戦争画(戦争記録画)というものは、国威発揚などの目的を持って、兵隊や戦闘機などが描かれたわけですが、描かれたその根底には、それらモチーフがただ単に「カッコイイ」からだと、思えてなりません。
現代でも、戦車や戦闘機、ガンダムなんかのフィギュアを並べて「グフフ...グフフ...」と悦に入っている大人もいますが、それと似たようなものだと思うのです。


それは、女性画家であっても同じだと思います。
つまり、少年兵が「カッコイイ」または「カワイイ」から描いたのだと。

女性画家たちは、モデルを前に「あの子カワイイ~~~」だとか言って、キャッキャウフフしながらスケッチしたに違いない(断言)

特にこの「少年兵の室」ですが、並んだベットに、キチンと畳まれた衣服、まるで少年愛を描いた漫画で言う「ギムナジウムもの」のようです。

吉良智子著「戦争と女性画家 もうひとつの近代「美術」」では、女性画家は女性を主題として銃後というジャンルに囲い込まれたと書かれていますが、私はモチーフの選択幅の狭さは表現の幅の狭さにはならないと思うのです。
現に、この「少年兵の室」のような絵は、男には描けません。



この絵もアブナイですね~~何を握っているのやら。

また、「戦争と女性画家」では、奉公隊が描いた働く女性のモンタージュ絵画「皆働之図」が男性中心の「国家」への逆らいのように書かれていますが、それ以上に大きな意味は、この絵を描きたくて描いたという女性作家たちの想いなのでは。

この絵は、まるでヘンリー・ダーガーの「非現実の王国」のように、男のいないユートピアを描いたものだと、私には見えます。
そこには、ローラ・ナイトの絵画のような現実性を感じないからです。

奉公隊の画家たちは、戦争状態という混沌化した秩序の中で、大文字の「美術」から離れ、少年愛や、男にいないユートピアなど、まるで現代のBLも含めた女性作家たちのように、自身の欲望を描き得たのではないか....そんなふううに妄想してしまいます。



2016年6月5日日曜日

「 メダル・コレクション ~戦前・戦中の彫刻家たち~ 」 メディア関連

岐阜県博物館で行われています「 メダル・コレクション ~戦前・戦中の彫刻家たち~ 」ですが、昨日の岐阜新聞にて掲載されました。
・・・私の顔写真入りです!ぎゃ。
http://www.gifu-np.co.jp/hot/20160604/201606041144_10420.shtml

また、岐阜のケーブルテレビCCNでは、
明日の6月6日(月)
6:45~、7:45~、8:45~、11:45~、12:45~、20:45~のエリアトピックス(10分番組)
の中で放送予定です。

2016年6月1日水曜日

アルノ・ブレーカーと佐藤朝山

ナチス・ドイツのご用達彫刻家「アルノ・ブレーカー」。
以前、この作家の映像をまとめました。
http://prewar-sculptors.blogspot.jp/2013/02/blog-post_24.html

戦中の日本での、この作家の評価は低く、それがなぜなのかと考えています。
今回は、その為のメモです。

「アルノ・ブレーカー」には、顔が鳥(鷲?)の作品があります。
http://sergey64.tumblr.com/post/130690348304/arno-breker

時代はわかりませんが、ナチス・ドイツの国章であった鷲をモチーフにしたのかもしれません。
で、この彫刻ですが、似たものを知っています。

佐藤朝山の木彫「八咫烏」 1936年作
http://prewar-sculptors.blogspot.jp/2013/09/blog-post.html

鳥頭で直立し、首を真横に振っています。
まぁ、似ているといえるのはそれだけなのですが。

朝山は1922年(大正11年)にフランスへ行き、ブールデルに師事します。
そして、1924年に帰国。

アルノ・ブレーカーは、1924年にフランスに行き、当時コンスタンティン・ブランクーシに師事していたイサム・ノグチら芸術家たちと幅広い交流を持ちます。

朝山との接点があったかかどうかわかりません。また、互いのどちらかが作品、またはその写真を見たのかも不明。
互いに国威発揚を求めた結果の、意味ある偶然かもしれませんし、単なる私の妄想かもしれません。

というわけで、はっきりとしたことがわかるまで、ここにメモとしての残します。