2016年11月27日日曜日

銅像(再)受難の現代? 岩田洗心館へ行く

今日は、犬山市にあります岩田洗心館へ行き、大嶽恵子さんの彫刻(銅像)論を拝聴いたしました。
論旨は、公共の場所における裸婦像における、ジェンダー的視点からの違和感について...とまとめられると思います。

銅像ではないですが、最近ですと、「東京メトロ「駅乃みちか」スケスケスカート問題」とか、「三重県志摩市の海女さん「碧志摩(青島)メグ」」問題」なども同じ様な問題意識だと思います。

その内、私としてはまず、「公共の場とは何か」を、ここで考えてみます。
「公共の場」のあり方を考えてみると、以下のようになるでしょう。

1.特定の者の意思によってコントロールされた場
 美術館などの建築家によって設計された場所なんかがそうですね。
 マクドナルドの店舗だってそうです。
 哲学者 中島義道にとっての公共放送みたいなもので、
 それが気に入らない人には悪意の場になります

2.異なった他者同士の意思が、すべて存在しうる場
 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地であるエルサレムなんかがそれだと言えます。
 ですが、現実争いは耐えないわけです。

3.誰の意思も介入しない場
 靖国神社の代わりに考えられている「国立戦歿者追悼施設」論がそうです。
 しかし、それは1の「.特定の者の意思によってコントロールされた場」と同義でしかありません。

4.見たい人が見たいものを見る、見たくない人は見ることの無いフィルタ機能のある場
 レンタルビデオ屋の18禁部屋なんかがそうですね。

4.が、理想だと思います。
しかし、銅像などには、TVやネットのように、フィルタをかけるということが物理的に難しい。
だからと言って、1.2.3.にしても良いかと言えば、それはそれでデメリットがあるわけです。

次に「美術(彫刻)」としての問題を考えます
美術は歴史を背負います。
歴史を知らない人にとっては無意味、無駄なものでしかありません。
そして、知っていることと、知っていないこととは、等価値でもあります。

その上で、「美術(彫刻)」史を見ると、近代において彫刻とは「像ヲ作ル術」であり、人体特に女性像を作ること=(イコール)彫刻でありました。
さらに、野外展示、またはそれに準じた場所での展示が欧州的な正当だと考えられています。
室内展示では、わざわざ草木を配置したりするんですね。

つまり、公共の場所で裸の女がドヤっと立っているのが正統的な美術形態だと考えられたわけです。
だからこそ、戦前から裸婦像問題があるわけですね。
そして、先に書いたように、そんなことは知らない人には知ったことではありません。

最後の問題は男性視点についてです。
大嶽恵子さんがおしゃっていましたが、芸大にて女性を物として見る様に訓練されることが、苦だったとか。
日本の彫刻史は、男性美術史と言っても過言ではありません。
ほぼ男。
私の知っている限りでは、戦前の官展に出品した女性はほんの数人だったのではないかと。
http://prewar-sculptors.blogspot.jp/2013/05/blog-post_18.html

佐藤忠良が描く自立した女。母でも少女でもない女を描いていますが、それだって男が描いたモノでしかないわけです。
それを苦と感じる人だっているでしょう。

こういった3点の足かせを得てある、現在の銅像なわけです。
受難の時代だなと思いますよね。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

一つの解決策として、無理だと思いながらも言います。
女性は、男性が描く「女」の性を自身のものと客体化してしまうわけです。
それを止めたらどうでしょう?
男は、どれだけ女性がBL的な漫画を描いても、そこに描かれているモノを男だとは認識しません。
客体化して、自身の性のあり方に影響を与えないのです。
つまり、東京メトロの「駅乃みちか」も、「三重県志摩市の「碧志摩(青島)メグ」も、女だと見るから問題なのです。
あれは、ああいう生物で、女とは別物と考えたらどうでしょう?

銅像に描かれた、男が作る「女」みたいなモノは、実際の女では無いのです!!
どちらかと言えば、ルネサンスの天使みたいなものなんです!!

2016年11月23日水曜日

「裸でゴルフ」再考察

前回紹介しました、野々村一男のレリーフ。
この「裸でゴルフ」には、根深い問題があるのではないかと考え、再考察します。

まず、ゴルフというスポーツには、ドレスコードがあるわけです。
それは、ゴルフが貴族のスポーツであったこと、帝国主義時代に広まったことといった歴史によって発生したものです。
スポーツは、無国籍化される傾向にありますが、テニスや柔道などのように、ドレスコードとして「歴史」を背負っているわけです。

さて、では野々村一男は何故「裸でゴルフ」に至ったのか?
思うに、彼はそのスポーツの歴史を遡り、根源として古代ギリシャでのスポーツに至ったのではないでしょうか?
古代ギリシャでは裸でレスリング、競走、ボクシング、やり投げ、円盤投が行われます。
ディスコボロスの像が有名ですね。


その、根源の姿を作家は描きたかったのではないでしょうか?

では、何故「根源」を描かなくてはならないのか。
それは、ロダンがそうであったように、古代の彫刻をリスペクトし、自身の彫刻観とする当時の彫刻家の意識があったからではないかと思います。

ロダンや萩原守衛は、エジプト彫刻を高く評価しました。
自身の彫刻と古代の彫刻とを繋げて考えたのですね。

それは、橋本平八が円空を見つけたように、円空仏が「仏像」であるこという、元々持っていた意味以上のものを彫刻家が見出したことを意味します。
つまり、彫刻家は古代をリスペクトしながらも、それは当時のありかたそのものを評価したわけではないのですね。

彫刻家の「古代と自身とをつなげる。」「古代のあり方を自身の必要に応じて加工する。」といった姿勢から、近代的な「ゴルフ」というスポーツを古代ギリシャの姿に加工してしまったのだと思います。

近代彫刻家(ロダン)の呪縛とでも言うのでしょうか。

しかし、他文化を「自身の必要に応じて加工する。」つまり勘違いを表現するということは、新しい文化生成のための様式なわけです。
日本と言う東の果てでは、仏教も儒教も、音楽も「自身の必要に応じて加工する。」ことによって文化を生み出してきました。
ですからね、そんな「裸でゴルフ」という姿を、私は高く評価したいと思うのです。

2016年11月21日月曜日

野々村一男? 作 第十二回朝日ゴルフ大会レリーフ

以前別のサイトで紹介して、「なんで裸でゴルフ!」とつっこんでいたレリーフでしたが、どうやらこれが野々村一男の作らしい。



このレリーフは、大須の骨董市で手に入れたのですが、それが野々村一男作だとは、なんだかできすぎですね。
名古屋市出身の野々村の銅像作品は、名古屋のあちこににあって、まさに愛知を代表する近代彫刻家であると言えます。

野々村 一男は、明治39(1906)年生まれ、終戦の年には30代後半で、彫刻家として、油の乗り切った時代でした。
同世代の中村直人や、中川為延、中野四郎、清水多嘉示、古賀忠雄らと共に軍需生産美術推進隊に参加します。
今でも当時の炭鉱で制作されたセメント彫刻が残っています。
彼らは、戦前において彫刻の最先端にあり、戦後において時代遅れの長老となった世代。
そこに何があり、彼らは何を思ったか。
戦時中の事をあまり語りたがらない世代ですが、できれば後世に伝えて欲しかった...

さてさて、それにしてもこのレリーフ、何故にフルチンでゴルフなんだ?

★中国の宋家二代 「呉竜府(ご りゅうふ) 」が編み出した 「纒がい狙振弾」 とは...
民明書房刊「スポーツ起源異聞」より
『棍法術最強の流派として名高いチャク家流に伝わる最大奥義。
この技の創始者 宗家二代 呉 竜府(ご・りゅうふ)は 正確無比の打球で敵をことごとく倒したという。
この現代でいうゴルフスイングにも酷似した 運動力学的観点からいっても 球の飛距離・威力・正確さを得る為に もっとも効果的であることが証明されている。
ちなみに ゴルフは英国発祥というのが定説であったが 最近では前出の創始者がその起源であるという説が支配的である。』

きっと、こっちの「呉竜府」(ご りゅうふ)」 の像なんだな!!違いない!


2016年11月10日木曜日

佐藤朝山「八咫烏」の謎にせまる!

彫刻界三大ミステリーの一つ!(嘘)
佐藤朝山の「八咫烏」の色はどんなだったか?

空襲により焼失した佐藤朝山の「八咫烏」ですが、色彩鮮やかな木彫だったと言われています。
現在、作品のモノクロ写真しか残っておらず、その色は謎となっています。


このたび、「colorization」のWEBサービスが始まり、モノクロ写真をカラーに置き換えることが手軽に行えるようになりました。
早速、上記の「八咫烏」の画像を変換してました。

結果はこちら!!


 残念!単なるツートンカラーになってしまいました!
写真が粗いんでしょうね。
もっとクオリティーの高い写真で次は試してみます。

2016年11月6日日曜日

日本の木彫

前回書いた「プロダクトとアート」ですが、今回はその中でも木彫について語りたいと思います。

「彫刻」によって信教と切り離された木彫は、モデルでは「平櫛田中」が表すように、プロダクトでもアートでも無く、またはプロダクトでもあり、アートでもあり、さらに新たな信仰でもあるような「モノ」となります。

その中には、橋本平八らが示すような、仏教以前の自然崇拝と結びつけや、抽象彫刻などのただ単に「彫刻」の素材として扱う場合、または戦後となって木が「モノ」であることを表す「もの派」もその流れの一部だと言えるでしょう。

日本の木彫は、系譜がひねくりまわってて、一言では表せ辛いですね。

そういった日本の木彫の一つの姿として、次の作品を紹介します。
畑正吉による能をモチーフにした木彫の浮彫です。


畑正吉の出自は木彫です。
畑は彫塑ではなく、仏像のような「プロダクトとしての彫刻」を学びます。
農商務省海外実業練習生として、パリに行った時も木彫の勉強の為です。

上記の作品は、能に惹かれていた晩年の物かと思われます。
面白いのは、メダルなどの彫塑技法による浮彫で木彫がなされている点です。
以前、私のブログで寺の浮彫の木彫を紹介しましたが、それとは技法が違います。
http://prewar-sculptors.blogspot.jp/2016/07/blog-post_21.html
また、能という伝統芸能には、能面という木彫を用いますが、その技法とも異なります。
つまり、西洋的「プロダクトとしての彫刻」の技法で、東洋的信仰対象である「能」を表した作品であるわけです。

それに、畑正吉という作家が、わざわざ木彫を選んだことから、これは作家の意思「アートとしての木彫」でもあると思います。
こんがらがっているな~

今回も図でまとめてみました。


「伝統的能面技法」の近くありながら離れ、、「アートとしての木彫」「信仰対象」「プロダクトとしての彫刻」の中心にあるのが、畑正吉の木彫です。

始めてこの作品を見たとき違和感があったのですが、それは日本木彫の抱える違和感だったのでしょう。
ちなみに、現代作家で代表的な木彫家、舟越桂の場合、「信仰対象」が西洋的なこと、伝統技法(仏像等の)から遠く離れていることから、その違和感を感じ無いのではないかと思います。
ただ戸谷成雄の場合は、違和感ありますね。
...江口週にはなく、植木茂にはある...感覚的なものかもしれませんけどね。

2016年11月4日金曜日

プロダクトとアート

近代日本彫刻におけるプロダクト(応用美術)とアート(純粋美術)との関係を私なりにモデル化してみました。



もともと日本には、所謂「工芸(応用美術)」という分野しかありませんでしたが、明治維新後、西洋美術の輸入により、工芸が分化され、人体の像を形作る「彫刻」が産声を上げます。
ただし、それは西洋文化及び技術の獲得が目的であり、目的を持った美術「プロダクトとしての彫刻」でありました。
この時代の代表作家が東京美術学校の高村光雲や石川光明ですね。

次にロダンの影響によって、「彫刻」による自己表現、思想、感情、衝動の表現を求める「アートとしての彫刻」が高村光太郎らによって謳われます。

それが両翼の片方だとしたら、もう片方、「プロダクトとしての彫刻」として純化したのが畑正吉らの仕事で、銅像などのモニュメント、そしてメダル等を手がけます。

その中間、「アートとしての彫刻」であり「プロダクトとしての彫刻」でもあり、且つ「アートとしての彫刻」でもなく、「プロダクトとしての彫刻」でもない、そして西洋のように宗教的な裏づけも無いといった鵺のような、根無し草のようなあり方をしたのが朝倉文夫や平櫛田中ら、官展、院展の作家たちだと思います。
それはそれで、ドメスティックな日本オリジナルの文化でもあります。

そんな「アートとしての彫刻」、「プロダクトとしての彫刻」の最も濃い部分を併せ持つ「アートでもありプロダクトでもある彫刻」を成そうとしたのが、これまで何度も語ってきました「構造社」です。
そして、その流れは社会全体が「戦争」という目的を持つに至った「戦時下」において重要度を増していきます。

このモデルを一番体現しているのが「畑正吉」です。
パリ時代に同居していた高村光太郎と畑正吉ですが、ロダンの受容によって二人の生き方は決定的に異なります。
その二人が、官展等の主流になれない中で、「戦時下」において畑の章メダルや光太郎の詩や軍需生産美術挺身隊などの国粋的活動において再び交わるわけです。