近代日本彫刻におけるプロダクト(応用美術)とアート(純粋美術)との関係を私なりにモデル化してみました。
もともと日本には、所謂「工芸(応用美術)」という分野しかありませんでしたが、明治維新後、西洋美術の輸入により、工芸が分化され、人体の像を形作る「彫刻」が産声を上げます。
ただし、それは西洋文化及び技術の獲得が目的であり、目的を持った美術「プロダクトとしての彫刻」でありました。
この時代の代表作家が東京美術学校の高村光雲や石川光明ですね。
次にロダンの影響によって、「彫刻」による自己表現、思想、感情、衝動の表現を求める「アートとしての彫刻」が高村光太郎らによって謳われます。
それが両翼の片方だとしたら、もう片方、「プロダクトとしての彫刻」として純化したのが畑正吉らの仕事で、銅像などのモニュメント、そしてメダル等を手がけます。
その中間、「アートとしての彫刻」であり「プロダクトとしての彫刻」でもあり、且つ「アートとしての彫刻」でもなく、「プロダクトとしての彫刻」でもない、そして西洋のように宗教的な裏づけも無いといった鵺のような、根無し草のようなあり方をしたのが朝倉文夫や平櫛田中ら、官展、院展の作家たちだと思います。
それはそれで、ドメスティックな日本オリジナルの文化でもあります。
そんな「アートとしての彫刻」、「プロダクトとしての彫刻」の最も濃い部分を併せ持つ「アートでもありプロダクトでもある彫刻」を成そうとしたのが、これまで何度も語ってきました「構造社」です。
そして、その流れは社会全体が「戦争」という目的を持つに至った「戦時下」において重要度を増していきます。
このモデルを一番体現しているのが「畑正吉」です。
パリ時代に同居していた高村光太郎と畑正吉ですが、ロダンの受容によって二人の生き方は決定的に異なります。
その二人が、官展等の主流になれない中で、「戦時下」において畑の章メダルや光太郎の詩や軍需生産美術挺身隊などの国粋的活動において再び交わるわけです。
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