2016年11月23日水曜日

「裸でゴルフ」再考察

前回紹介しました、野々村一男のレリーフ。
この「裸でゴルフ」には、根深い問題があるのではないかと考え、再考察します。

まず、ゴルフというスポーツには、ドレスコードがあるわけです。
それは、ゴルフが貴族のスポーツであったこと、帝国主義時代に広まったことといった歴史によって発生したものです。
スポーツは、無国籍化される傾向にありますが、テニスや柔道などのように、ドレスコードとして「歴史」を背負っているわけです。

さて、では野々村一男は何故「裸でゴルフ」に至ったのか?
思うに、彼はそのスポーツの歴史を遡り、根源として古代ギリシャでのスポーツに至ったのではないでしょうか?
古代ギリシャでは裸でレスリング、競走、ボクシング、やり投げ、円盤投が行われます。
ディスコボロスの像が有名ですね。


その、根源の姿を作家は描きたかったのではないでしょうか?

では、何故「根源」を描かなくてはならないのか。
それは、ロダンがそうであったように、古代の彫刻をリスペクトし、自身の彫刻観とする当時の彫刻家の意識があったからではないかと思います。

ロダンや萩原守衛は、エジプト彫刻を高く評価しました。
自身の彫刻と古代の彫刻とを繋げて考えたのですね。

それは、橋本平八が円空を見つけたように、円空仏が「仏像」であるこという、元々持っていた意味以上のものを彫刻家が見出したことを意味します。
つまり、彫刻家は古代をリスペクトしながらも、それは当時のありかたそのものを評価したわけではないのですね。

彫刻家の「古代と自身とをつなげる。」「古代のあり方を自身の必要に応じて加工する。」といった姿勢から、近代的な「ゴルフ」というスポーツを古代ギリシャの姿に加工してしまったのだと思います。

近代彫刻家(ロダン)の呪縛とでも言うのでしょうか。

しかし、他文化を「自身の必要に応じて加工する。」つまり勘違いを表現するということは、新しい文化生成のための様式なわけです。
日本と言う東の果てでは、仏教も儒教も、音楽も「自身の必要に応じて加工する。」ことによって文化を生み出してきました。
ですからね、そんな「裸でゴルフ」という姿を、私は高く評価したいと思うのです。

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