2012年12月23日日曜日

日本の表現主義彫刻

今回は、絵葉書でもメダルでもありません。
僕の研究している日本の表現主義受容について、ちょっと面白い本を見つけたので紹介です。

明治以降の日本の彫刻界では、ロダンの影響を大きく受け、新しい彫塑作家たちが生まれました。
では、独自の歴史を持っていた木彫はどうであったかと言えば、ロダン風の木彫を行なってみたりしつつも、特に日本美術院系の木彫作家たちが、所謂置物彫刻、床の間彫刻、民芸的で風俗的な彫刻の中に近代性を見出し、研究を始めます。
例えば木村五郎が民芸の中にある純粋美術を彫刻化し、橋本平八が円空を発見します。

その時、彼らの思想的な根拠の一つとなったのが、欧州においてロダン以降の新しい彫刻として生まれた表現主義彫刻ではなかったか。
これについては当時の彫刻家たちの言があまりなく、よくわかっていません。
ただ、1925年(大正14年)には『建築写真類聚』として「表現主義の彫刻」という作品集が発行されています。
また、今回手に入れたが写真の一氏義良著「西洋美術の知識」で、この同じく大正14年発行の本にも、ドイツ表現主義の彫刻家であるエルンスト・バルラハが紹介されていました。
 さらに、この「あふむき」という、彫り跡を残す印象的な作品は、内藤伸の「山上」に良く似ています。
ただし、「山上」が大正3年作なので、この本のおよそ10年前に作成されたということになり、直接的な影響はなかったろうとは思います。
では、その10年前に内藤伸はどんな情報を持っていたのか、まだまだ研究が必要のようです。

2012年12月17日月曜日

震災と銅像(その2)

前回と同じく、関東大震災後の万世橋駅前です。
駅前に立つのは広瀬中佐杉野曹長の銅像。
こちらが地震前の画像です。
原型は朝倉文夫の実兄である渡辺長男。
この銅像は震災を乗り越え、米軍の空襲を乗り越え戦後を迎えたのだが、最後は日本人自身の手で取り壊されます。
実はこれら取り壊しの判断に戦後の彫刻家たちの意見が取り入れられています。
 その一団の中に、朝倉文夫がおり、そんな裏事情を描いたこんな本もあります...
たしかに、明治以降の日本では、多く銅像が乱立した。そこには美とは言えないものもあったろう。しかし、それを断じることは傲慢ではないか。
戦争をしたということ、敗戦したということ、この銅像の下で生きてきた人々までも否定してしまうのは傲慢ではないか。
戦後の日本の彫刻史はここから始まったと言えるでしょう。

2012年12月13日木曜日

震災と銅像(その1)


あの東日本大震災から2年近く経とうとしていますが、まだその傷口は開かれたままだと言えるのではないでしょうか。
その歴史を背負って、日本の美術はどうあるべきか、そんなことを最近聞きます。

日本は震災の国です。災害の中で文化を育んできました。
90年程前、1923年(大正12年)には、マグニチュード7.9の首都を直撃した大地震を経験しています。関東大震災です。
この絵葉書は、その直後に上野にあった西郷隆盛像を写したものです。
わかりますでしょうか?西郷さんにベタベタと紙が貼られています。
実はこれらは、尋ね人のチラシです。
震災によって怪我をし搬送された人、火災などから逃げのびた人、そうした家族や友人を探すチラシです。
西郷像という当時の東京のシンボルに、多くの人が寄り集まってきたのです。

こういった用途に用いられる彫刻は、本来の意味で芸術ではないでしょう。
ですが、 これほどまでに愛される、必要とされる美術作品が以降の日本にあったでしょうか?

2012年12月11日火曜日

絵葉書問題続き


結局、小倉右一郎の彫刻寫眞領布會が解散することで、このドタバタに膜を下ろすこととなるが、しかし、問題はこの両者の争いだけに留まらなかった。

1925年12月発行の「アトリエ 2巻2号」には、美術批評家落合忠直が「帝展の彫刻部の暗闘に同情す」題してこの問題を論じている。
「エハガキ屋が二軒対立して、それが作家から一々承諾を得た物を売ることになると、一方の写真屋のみ許した男は朝倉派と見做され、一方の方へ承認した者は旧曠原社派と見做され、ちゃんと党派の色別が出来てしまふのである。」「党派の色別けが出来るとなると、自然それによって党派心から審査の手心が起きて来るのは、人情として止むを得ぬ事なのである。それで朝倉派に写真を承諾しようか、曠原社派へ承諾しようかと云ふことは、入選するかせぬかの分かれ目になり、作家の心の中に恐ろしい不安な影を投げたので、他所から見ると、若い人達の迷ひは気の毒なものであつた。」
つまり、朝倉文夫の設立した美術寫眞はん布會と小倉右一郎のそれのどちらに写真の承認を与えるかによって、どちらの派閥に属するのかといった振り分けが行われるのではいか、帝展への入選が決まるのではないかと、若い彫刻家たちが右往左往することとになったのだ。帝展への入選はまさに人生を変えるものであり、成功の道であり、それが絵葉書によって左右されるような話になってしまった。

落合忠直は、「僕も朝倉君の人格を非難しようと云ふのではなく、その親分肌の親切気には感心してゐるのだから、批評家としての立場から、もう少し考へて事をしたらどうかと云ふ事を、若い人の苦衷になり代わつてお願ひをして置くのである。」と朝倉文夫に気を使いながらも苦言する。そして、こんなことになったのは何よりも彫刻家が貧乏だからだとしているのが面白い。彫刻家をして「呪われている人達をよと、しみじみ同情を寄せられるのである。」とまとめている。

さらに、この絵葉書写真問題は、彫刻家らのこれまで溜まった帝展への不満が吐き出す契機となる。若手の実力派で帝展彫刻部の委員でもあった齋藤素巌は帝展への出品予定の作品の出品を拒否する。大正14年10月12日の東京朝日新聞にて「彫刻界のごたごたに業を煮やした斉藤氏 一年がかりの苦心の大作「石彫り」の出品を拒否す」「帝展彫刻委員会で押しも押されぬ堅実な地歩を進む齋藤素巌氏は例の東台彫そ会解散後一般彫刻界に引続き起こつたごたごたに對して潔癖一片の性格で忌々しげに眺めてゐたが、遂に最近におけるヱハガキ寫眞問題から続く鑑別会の内情に業をにやし、『そんな雪陰のもひとしい場所へ神聖な作品を並べるに堪へない』とて一年がゝりの苦心製作の大群像『石彫り』を出品せざることに決心するに至つた。」「今後独りで勉強を続ける 近く適当な方法で発表 當の斉藤素巌氏語る」としている。

絵葉書は、楠木正成公の銅像原型で、齋藤素巌によるものです。銅像は、神戸市の湊川公園に設置されています。