2024年7月15日月曜日

復興記念合同彫塑展覧会 絵葉書






1923(大正13)年5月3日から18日まで上野で行われた「復興記念合同彫塑展覧会」の絵葉書です。

前年の9月1日に起きた関東大震災への慰撫を目的に行われた、彫刻の展覧会ですね。
その年に官展が行われなかったことで、彫刻家の大きな収入源も閉ざされたために行ったという面もあるでしょう。
生活が大変な時に芸術なんて後回しになるものですからね~

安藤照「芽」
陽咸二「日高川」
松平栄之助「婉」
長谷川栄作「懐胎」
朝倉文夫「容羞」
この中で、私が紹介したことのない作家は松平栄之助です。
彼は、松平家の分家の人間のようですね。

さて、これらを見て思うのは、いつもの官展の作と変わらない裸婦の像たちってことですね。復興をテーマにしているわけではない。
もちろん、現在のARTのように何かしらのテーマを設けて展覧会をする時代ではないんですよね。
それを行ってくるのは、もう少し後の戦時下での展覧会。いわゆる戦争画の時代。
逆に言えば、戦時下になってこそ「テーマを持った合同展覧会」が生まれるわけです。
言わば「復興記念合同彫塑展覧会 」は、その間を繋げた展覧会であり、社会が戦争の時代へと向かうことを示す展覧会であったと思います。

2024年7月7日日曜日

畑正吉 作「國民精神作興ニ関スル詔書」レリーフ




 『国民精神作興ニ関スル詔書(國民精󠄀神󠄀作興ニ關スル詔書)は、1923(大正12)年11月10日に大正天皇の名で摂政宮(皇太子裕仁、後の昭和天皇)が渙発した詔書』です・
https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317939.htm
これを記念し、造幣局から出された畑正吉によるレリーフです。
左下に「畑正吉謹作」とありますね。

作成日の記載はありませんが、同じく大正12年頃だと思われます。
揮毫は書家山口彦總(山口半峰)。彼は、1914(大正3)年に宮内省に入り貴重文書の浄書を行っていました。

このレリーフ、結構大きくて幅が50㎝程あります。
中心上に菊花紋章。詔書の周りに神々が描かれています。
岩の裂け目から漏れる光や鶏、踊る女神等々から、天岩戸の場面の様に思えます。
天照が現れる様子と国民に与えられた詔書とを重ねた表現になっているのですね。
それよりもこの作品を見て思うのは、旧約聖書のモーセの十戒のイメージです。
映画「十戒」は1923年製ですから、畑正吉が参考にしたはずないのですけどね。
神話のイメージというのは、古今東西変わらないものなのかもしれません。
ただ、大正12年は、畑正吉が欧州留学から帰って来た翌年。
右端の狭い範囲でありながら多様に見せる群衆の描き方の見事さなど、欧州で学んだ知識が生かされていることは確かでしょう。
単身の人物像の多い畑の作品ですが、こういった物語性のあるものは貴重ですね。

2024年6月23日日曜日

沼田雅一書簡 竹内久一宛




久しぶりに、がんばってヤフオクで落としました!
竹内久一宛の沼田雅一書簡です。
沼田雅一の父、沼田一珍の書簡に一緒に送られたもののようです。
一珍は元福井藩士。維新後大阪に移って商業を試みて失敗、京都に移り美術商池田清助に陶土を分けて貰って拮りものを作って生計をたてていたそう。

竹内久一は、沼田雅一の彫刻の師であり、正木直彦著『回顧七十年』では、一珍の下で働いていた雅一を、通りがかった竹内久一が見つけ、その才を認めて東京に連れてきたそうです。
ただ、京都に来た海野美盛が見つけたという説もあり、もしかしたらこの書簡でその謎が解けるかも……
https://gacma.geidai.ac.jp/archives/100yh_fas02_084.pdf

とは思ったのですが、この私にゃ古文書はよめません!
解読ソフト使ってみましたが、
「高趣難有相続付心百梅面之気段ニ而雨降絵御同事ニ困却之至ニ御座候益御請通被為在奉恐賀毎事病人御案労之段御懇篤不残不参奉待弥之本日唯今部役為替御手形判金三両之名正難有入掌仕候御懇配之御取扱忝奉存類仕五事追々上有之方ニ候……」と何がなにやら。
真ん中の「本日唯今郵便為替御手形即金三両」云々あたりかな、読めるのは。

郵便の日付からみると明治25年。略歴的には沼田雅一が上京した翌年なんですよ。
そのころに、大阪の実家から奈良の竹内久一に向けて手紙を出してるのですよね。
時系列的にどうなってるの?

2024年6月16日日曜日

昭和16年 東京芝浦電気 特許メダル



東京芝浦電気による陶製のメダルになります。
明治神宮のメダルが。和15年頃からメダルが陶製が出てきますので、このメダルも時節に合わせて作られたのでしょう。

特許への賞牌として作られたこのメダルの裏には「特許 第一四〇五一三号 辻重己 昭和十六年六月」とあります。
この特許について調べると、純度の低いアルミニウムの表面に酸化被膜を施し、反射鏡を作るもののようです。昭和13年に出願され15年に特許をとってます。

表には、神話の女神が描かれてます。
桃を手に取る姿から意富加牟豆美命(おおかむづみのみこと)ではないかと思います。
永遠の命、邪気を払うその力への想いをメダルに込めたのでしょう。
作者銘はありませんが、美しくデザインされた女神像です。
立った女神の垂直性と、水平に伸びる手、円形のメダルとそれに沿った桃の木。
彫刻というよりデザイン力の高い作品です。
いいですよね~

2024年6月2日日曜日

世界美術月報 広報誌

以前、佐藤忠良によるメダルで紹介しました下中弥三郎。
https://prewar-sculptors.blogspot.com/2018/06/blog-post.html
今回紹介するのは、戦前に彼によって創刊された「世界美術月報」の広報誌になります。
冊子とはいっても、当時の著名な美術評論家による記事から美術用語の説明までと、濃厚なつくりになってます。

彫刻関連では、第7号に小原生による「ロダンのデッサン」。
第22号には田邊孝次による「アトリエに於けるブルデル、ベルナール、マイヨールとデスピオの印象」。
第33号に神原泰の「ブランクシイと日本」等の文章が載っています。

その中で面白かったのが、第三十四号(昭和5年)の冊子に記載された小原銀之助による「彫塑のできるまで」です。

小原銀之助とは、戦後に時計の研究を始め、小・中学校や国立科学博物館をはじめ、アメリカ、中国など4ヶ国に計400個を製作、小原式日時計といわれ国際的に評価された人物です。
彼が戦前、この世界美術月報の編集に関わっており、そのういったことでこの文章を載せることになったのでしょう。

その内容ですが、当時の若い無名彫刻家の日常が書かれています。
『×月×日 ×展が三ヶ月後に迫って来た今年は先生のアトリエ(門下生用)で皆と一緒にやる事とした。午後は4人が使っているので午後にした。Kは8尺の男の裸を作っている。女はモデル達が嫌がるので朝の6時から皆の来るまでやっている。』
女性のモデルと男性との時間が重ならないように、彫刻家側が気を使って製作しているのですね。
モデルの話は他にもあって、
『×月×日 日曜の午前だ。宮崎(東京に唯一のモデル屋)に行く。傾いた古屋の暗い部屋に例の如く大勢の女がぎっしりすし詰めになって座っている。雀のお宿の様にお喋りがやかましい。髪の長い洋画の連中が怖い顔をして黙々と盡し乍ら物色している。』『おやじが「ホイお照さん。××さんのアトリエ。午後だよ」等わめき乍ら紙切れを渡している』『開かれているからそれほどには思はないもののまるで女人市だ』
大正あたりのモデル不足から考えれば、時代が変わった感ありますね。
女人市みたいではあるものの、しっかりとしたビジネスになっているようです。
モデル代は一週間で7円50銭。昭和初期の1円は現在の4000円ほどと言われているので、一週間で3万円と言うところでしょうか。

7週間ほどで粘土付けが完了、石こう屋に持ち込んで石膏像にします。
このあたりの工程を丁寧に説明しています。
そして、できた石膏像に着色
『先ず全体漆を塗りその上に銅紛をかける。アンモニア水でそれを腐食する。即ち青銅色の彫像が出来上がった。』
そして、最後に彫刻家の嘆きで〆てます。
『×月×日 出来上がった色に不満はあるが日もないので搬入する。―いつになったら此の石膏像が鋳物屋の手に渡ってブロンズになる事やら。恐らく永久にブロンズにはなるまい。等身大で安くて千円だから。ーそれ所か落選の憂き目を見るかも知れないぞ』
しんどい!

2024年4月29日月曜日

乃木将軍銅像と大日本国防婦人会



割烹着姿に白襷、1932年に結成された「大日本国防婦人会」の写真です。
大阪で生まれたこの会ですが、全国に展開します。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%98%B2%E5%A9%A6%E4%BA%BA%E4%BC%9A

真ん中に立つ像は、その姿から乃木希典の銅像と思われます。
当時存在した乃木将軍の銅像は、山口県の長谷川栄作による像、香川県の田中雄一による像、愛知県西尾の像、そして江の島の片瀬海岸の像。
この像の姿に似ているのは愛知県西尾の像なのですが、戦時中にコンクリートに変えられ、現在は西尾市の熊野神社に建っています。
https://ameblo.jp/pont-neuf0603/entry-12470632973.html
ただ、この姿の乃木将軍像というのは、二宮金次郎像と並んで量産され全国に建てられていますから、本当に西尾の像なのか。

どちらにせよ、乃木将軍の像の前に並ぶ大日本国防婦人会のご婦人たちというこの写真は、当時の世相を描いてますね。

2024年4月27日土曜日

牧雅雄 画「開運だるま」




彫刻家 牧雅雄によ目達磨図です。
彼の画はこれ二幅めになります。
1幅めを買ったのが2015年ですから、もう10年経つのですね~
https://prewar-sculptors.blogspot.com/2015/04/blog-post.html
彼の作品では、軍鶏の木彫を所持しています。
なのでこれで3点目、私が死ぬまでにあとどれだけ集めれるかな?

牧雅雄をコレクションしている理由は、彼が昭和10年に亡くなった作家だからです。
この昭和10年ですが、先の記事にも書いてあるように堀江尚志や藤川勇造、陽咸二、日本美術院では木村五郎、橋本平八が亡くなっています。
ものすごい損失、彼らが戦後まで残っていたら、いったいどんな美術史となったか。
そんな思いを持って、少しづつですが集めているわけです。

同期の木村五郎と橋本平八の作品は、一発で彼らの作品とわかる個性を持っています。
緑色の太陽に薫陶を受けた世代の作品たちなんですよね。
けど、牧雅雄の作品はそう言えるだけの個性を語れない。
ただそれは、まだ研究が進んでないからだとも言えます。
ぜひ、この作家の研究を進めていただきたいものです。

2024年4月14日日曜日

朝日新聞社MOTO作 メダル


戦前に作成された朝日新聞社の記念メダルになります。
鹿にまたがる天使、天使の腕には松明。
鹿の周りには、花(梅?)が咲き乱れています。

作者はメダル内に「MOTO」とあります。
この銘に該当する彫刻家と言えば、泉二勝磨(もとじ かつま)ですが、どうでしょう?

今まで紹介しました朝日新聞社のメダルを制作した彫刻家といえば、北村西望、日名子実三、陽咸二らと特にこだわってこの作家というものでもないようです。
ただ、大阪朝日と東京朝日で作家の選別に若干と違いはある感じを受けます。
しかし、泉二勝磨作のメダルはコレクションしているメダルの中には無いのですよね。

泉二勝磨については、絵葉書で紹介したことがあります。
泉二勝磨 作「「東郷大将バルチック艦隊を睨む」 絵葉書
この若くして亡くなった作家のメダルであれば、とても貴重でありがたいのですが、いかんせん情報が少ない。
あるとしたら、代々木公園内にある、泉二勝磨が彫刻した「日本航空発始之地記念碑」が朝日新聞社によるもので、ここで朝日新聞との繋がりがあることがわかる程度でしょうか。

次にメダルの図からわかることを探ってみます。
先に書いたように、咲く梅の中で鹿にまたがる天使図です。
鹿に天使というモチーフで思い当たる物語はないんですよね。
あるとしたら、春日大社の建御雷之男神(タケミカヅチ)でしょうか。
でも、これは天使のような子供の姿ではありませんね。

作風としては、レリーフではありますが、立体感は薄いです。
切絵に厚みがあるかんじ。
もし、このメダルが泉二勝磨の作だとしたら、師であるジャン・デュナン(Jean Dunand)の影響かもしれませんね。
彼は漆芸家でこういった薄いレリーフを作ってますから。

あとは材質でしょうか。
このメダルは、アルミ製です。
アルミでできたメダルは 1942年(昭和17)とその翌年の明治神宮国民練成大会に用いられています。
明治神宮競技大会のメダル
1941(昭和16)年に公布された金属類回収令のあたりの年に、こういった素材のメダルが作られています。
このメダルもそのあたりの作なのでしょう。
泉二勝磨が亡くなったのは昭和19年ですから、時代的は合ってるのかも……

どれも決定打に欠けますね。
もう少し、調べてみます。

2024年3月31日日曜日

舟越桂 死去

9日、舟越桂氏が亡くなりました。72歳でした。https://www.yomiuri.co.jp/culture/20240330-OYT1T50036/

私個人としては、2008年に東京都庭園美術館で開催された「舟越桂 夏の邸宅 アール・デコ空間と彫刻、ドローイング、版画」展が思い出深いですね。場所の美しさも相まって、すてきな時間でした。

彼の作品は、「内省的で静謐な」「精神性」を表現しているとされます。ただ日本を代表する木彫作家でありながら、これを時代的な文脈で語る言葉ってあまり見かけないんですよね。

その理由の一つは、彼の作品に言われる私的な「精神性」にあるのではないでしょうか?私的で閉じあまり公的に開かれてみえないところが、同時代的な作家の戸谷成雄や遠藤利克と異なり、語られ辛さになっているよいうに思います。そんな作品の初期モチーフは白シャツの似合う、ハイソな空気の人物。甲田益也子とか草刈民代みたいなお顔。今の言葉で言えば、上級国民なのでしょうか。酒飲んでゲロ吐いて、それが足にかかる様な人物は選ばない。「ナニワ金融道」的世界とはかけ離れたところにあるわけです。でも、それが彼の作品なのでしょうか?

氏の作品は2000年頃から「スフィンクス」という人間を加工、化けさせる作風に変わるのですよね。もともと半身像というのが、人間をぶつ切りにしているわけで、人間を加工する志向ってあったんでしょうけど、それがハイソな空気でだまされていた。それに「スフィンクス」なんて言っているから御綺麗な作品に見えるのであって、あれって不具ですよ。彼の作品は、元来いびつでグロテスクな美であったのですね。

彼の父、舟越保武の「ダミアン神父像」は醜さを神聖として表現しました。その血は、スフィンクスという化け物として再びあらわれたわけですね。「ナニワ金融道」の青木雄二が左派的な思想のもとで漫画を描いたように、舟越保武の「ダミアン神父像」もそういった志向で描かれました。青木雄二はソープで毛を拾う女性を、ある意味美しいと感じていたのではないでしょうか。同じように、「ダミアン神父像」も描かれ、「スフィンクス」もまた同様。つまり、舟越桂氏の作品は「ナニワ金融道」であった!というのが私の感想です。そこに「精神性」なんて無く、青木雄二の公的性と等しいものだと理解したわけです。

そうやって彼の初期の作品を見ると、彼の『人間ってグロいな、そして美しいな』という囁きが聞こえてきます。舟越桂氏にとっては、ハイソに見えるモデルたちも、ソープで毛を拾う女性と同じく見ていたのでしょう。

ここまで考察して、やっと私は、彼の作品が戦前から連なる左派的な彫刻、世俗をそのまま描こうとした彫刻群に連なるものだと理解します。ただし、それを60年代安保的なわかりやすさで表現するのではなく、人間にある「内省的」な「精神性」、それがどこまでもグロく汚いものであっても、それを表現する。ただし、80年代にオウム真理教に焦がれた若者たちは、その「内省的」な「精神性」によってグロく汚いものを否定しましたが、舟越桂氏はそれを肯定する。これが彼の「時代性」なのだと思います。

2024年3月24日日曜日

大正12年発行 東京東京美術学校「交友会月報」第弐拾弐巻



東京東京美術学校「交友会月報」です。
大正12年発行された第弐拾弐巻は、同1923(大正12)年9月1日11時58に起きた関東大震災の影響を受けた内容となっています。

「会告」とし「今般の大震災大火災に羅災せられたる、本会特別会員併に、正会員諸君に対する吊慰方法に就き、本校は交友会委員会を開催し、左の議案を満場一致を以て解決し、夫々贈呈を了せり、右報告す。」とし死亡者、その家族に見舞金を送ることを決めています。

羅災特別会員として、亡くなった生徒に「日本画科 星川清雄」「金工科 神谷仁一郎」の名前が名が挙がっています。若いこれからの作家だったろうに、残念です。
彫刻科の羅災者には「清水三重三」「花里金央」「木内五郎」「川邊繁蔵」「大村安治郎」「田中二三郎」「荒居徳亮」「清水彦太郎」「小野田嘉助」の名前が。

また、遭難実記として竹内三男による当時の様子が書かれています。
『……異様な風が吹き始めてきたので、一同を促し先頭に立ち、中央めがけてきた人と荷でうずくまる中を、脱出しようと決心した。しかしその目的の中途まで行かない中に、激風はその行く手を阻み地に伏して僅かに身を支えるのみ、その時火は全く包囲して、最早如何とする術もない、物凄い火遁の渦。トタンの飛ぶうなり、人の叫聲!既に現実とは隔離されてしまった。嗚呼僅かに私の耳に響くのは、人間の断末魔の救いの叫び人の子も親も……』

ジブリの「風立ちぬ」では冷静に対処していたような当時の人々ですが、やはりそうはいかないようです。


また後記には、実業家大倉喜八郎の大倉集古館が焼け落ち、展示品が失われた事、個人所有の銘品が多く被害にあったことが記されています。
彫刻関連では『●新美術品の蒐集家としてしられた、中澤彦吉氏はロダンの「考ふる人」をはじめ、ルノアールの大作も、波斯の陶器も一切焼いてしまわれたらしい』
『●昨年デルスニス氏から買われた、横浜の左右田氏のロダンの大作「影」と「考へふる人」は、あの大火に焼け残った。「影」の方は片腕が折れたが「考へふる人」の方は内部に故障が出来た位で大したことはない。共に目下高村氏のアトリエで修繕中であるから、遠からず又原型に接する事が出来ると思う』
『●ロダンの出世作で最も有名な「青銅時代」の石膏像は、デルスニス氏から本校へ預けたもので、文庫の廊下に安置してあったのが、倒動して、頭、手、足等に大破損をきたし、一時修繕も困難か思ったくらいであったが、朝倉教授は余震の止まない、9月6日頃から、三日間、弟子両三名を引率して毎日出張して、遂々原型通りに完全に修繕をされた。修繕の箇所は記念のために特に着色せずに置いた位よく出来た』とあります。

中澤彦吉は実業家ですね。『ルノワールの亡くなる1919年に、ルノワール本人に会い、その年に描いた作品を買って戻って来たほどの収集家であった。』そうですが、その作品が失われたということでしょう。これはもったいない。
横浜の左右田氏とは経済学者の左右田喜一郎でしょうか。
高村氏とは高村光雲でしょう。光太郎の手記にこの話があったかどうか?
そして、朝倉教授とは朝倉文夫、この話は有名ですね。

最後に裏表紙もある「文房堂」の宣伝を載せます。

今もある上野の文房堂ですが、復興する人の力を感じさせる宣伝文になってますね。

2024年3月17日日曜日

彫刻家「石井鶴三先生 講演筆記」




石井鶴三は、彫刻家でもあり挿絵画家でもありました。
さらに、山本鼎が始めた自由画運にも関わりを持っていました。
特に長野の教育には深く関わり、上田市には彼の資料室があります。

この資料は、そんな石井鶴三が学校から子供たちの絵の評価を頼まれ、総評を講演した内容を記したものです。
図画委員会編集とあるのみで、いつの時代のどこの学校かはわかりません。
時代を測れそうな箇所は、文章中にある『最初の時の刷物(昭和六年度作品短評後記)』とあることから、1931(昭和6)年以降であることがわかります。
また、評する子供たちが「尋一」から「尋六」、「高一」「高一」であることから、1941(昭和16)年の国民学校令発布前なのでしょう。
つまり、昭和初期の頃の石井鶴三の芸術観、そしてその時代の児童画について知ることのできる資料なんですね。

石井鶴三については、筆まめであった彼のおかげもあって、多くの資料が残されており、文集、書簡集、日記等々がまとめられています。
この講演筆記が、もしかしたらどこかに記されているかもしれませんし、そうではないかもしれません。

その内容ですが、まずは彼の芸術観を語り、その後学年別の総評をしていきます。
そんな彼の「芸術観」をまとめてみます。

まず、「素描(デッサン)は絵画の生命」だと言います。
色彩よりなによりデッサンだと。
その素描の要素は「線の動き即ち動性(ムーブマンMouvement)」そして「量感(ボリューム Volume)即ち量の持っている美感である」と言います。
このあたりは彫刻家の美観そのものですが、これが子供の絵にも必要だと言うのですね。
その素描を用いて「どこまでも感情の上に立って、美しいと感じたものを正しく描写」することが絵画や彫刻であり、そのためには「外形的な科学的正確にのみとらわれて居てはいけない」と言います。

つまり美を感じた箇所を感情に合わせ表現しつつ、その描写は動性と量感がなければならない…といったところでしょうか。
セザンヌ主義的なものが児童画に影響を与えたことがわかります。
また、それが彼の彫刻観でもあるのですね。

石井鶴三の作品に、同じく長野の農民たちに教えた農民美術的な作品や、奈良人形のように、カタチを簡易化した量感のみのような作品郡があります。
そういった作品の理論的な裏付けが上記の彼の発言から理解できますね。

そういった理論の流れが、橋本平八や木村五郎等々の彼の後進に影響を与えたことは、とても重要だと思っています。
また、現在の児童画にも影響を与えているとも言えるでしょう。
ただ、この講演筆記では、子供たちの作品の中でダメなものを上げて評論を行っています。
さすがにそれは、現代ではできなさそうですね~

2024年2月25日日曜日

大正14年 平野吉兵衛原型「桑田正三翁壽像 石井吉之助胸像」絵葉書

1925(大正14)年に建てられた「桑田正三翁壽像 石井吉之助胸像」の除幕式記念絵葉書です。







桑田正三は、1855(安政2)年生まれ1933(昭和8)年没、明治期の大阪を代表する写真材料店「桑田商会」を営んだ人物で、石井吉之助はその甥にあたります。
彼らは、1904年現在もより現在も続く浪華写真倶楽部の創立者です。
絵葉書には記念碑の全体写真、各人肖像の碑文の写真が載っていますが、倶楽部の写真家たちが撮ったものなのでしょうね。

葉書にある工事概要です。
設計 京都市技師 寺岡謙造氏
様式 近世式ワグネル型
起工 大正14年9月3日
施工 大正14年12月8日
鋳造 青銅製 楕円形 高さ三尺一寸幅二尺四寸
   原型鋳造士 京都 平野吉兵衛氏
碑額 高さ一尺八寸 幅五尺八寸
   鋳工 京都 平野吉兵衛氏
   碑文及び揮毫 大阪 池幸吉氏
鋳造台 花崗石 幅四尺 高さ六尺五寸 厚さ二尺
用材 全部 備中国北木島産 花崗石
施工者 京都 平野吉兵衛氏
外見 幅奥行十三尺 高さ地上十六尺
基礎工事 耐震鉄筋コンクリート 幅四十八尺 奥行二十四尺 深さ十尺
於 大阪市西成区西入船町桑田工場敷地内

設置された場所は、大阪市西成区西入船町桑田工場敷地内。
今では存在しない記念碑ですから、戦時に回収されたのかもしれません。

また、ここにある原型鋳造士平野吉兵衛とは、京都の工芸家です。京都商工会工芸部長であった人物です。関西における鋳造の大家ですね。
東京の彫刻家を使わず、こうした地元の人物を選ぶところに、関西写真家たちのこだわりを感じさせます。石も備中国(岡山あたり)ですし。

「耐震鉄筋コンクリート」ってあたりが関東大震災後って感じがします。
このころから使われた言葉なんですね。

様式にある「近世式ワグネル型」とはゴットフリード・ワグネルの紹介した型式でしょうか?
ワグネルも京都に関わる人物です。
確かに、1924(大正13)年に京都市で開催された東宮殿下御成婚奉祝万国博覧会参加五十年記念博覧会に際し建立された「ワグネル博士顕彰碑」は、この「桑田正三翁壽像 石井吉之助胸像」記念碑と同型です。
https://4travel.jp/dm_shisetsu/11583107
最新の洒落た造形だったのでしょうね。
「ワグネル博士顕彰碑」のレリーフの作家が調べてもわからなかったのですが、もしかしたら平野吉兵衛なのかも?

2024年2月18日日曜日

河野真太郎著『正義はどこへ行くのか 映画・アニメで読み解く「ヒーロー」』を読む

 昨年の12月に出版された河野真太郎著『正義はどこへ行くのか 映画・アニメで読み解く「ヒーロー」』を読みました。

「アイアンマン」や「スパイダーマン」、「X-MEN」だけでなく、「ザ・ボーイ―ズ」まで網羅し、そこから見える現在の世界を語った本です。

私の興味ある分野でもあり、とても面白く読みました。
けれど、その後にザ・ボーイズのスピンオフ「GEN V」や「ザ・フラッシュ」、問題作「マーベルズ」等や、ある意味ヒーロー物である「ゴジラー1.0」がアメリカで受け入れたりと時代が進んでいます。
さらに世界は、ウクライナ戦争とガザ侵攻と大きく動いています。
著者には、この激動する世界を同じく語って頂き、それを是非読んでみたいと思いました。

本書では、元来あったヒーロー像「白人異性愛健常者男性」の理想が、現在「多様性の正義」のためアップデートを求められているとします。
そういった表現をMCU映画らが行っていおり、人種・性・障害の有無などにおいて典型的でないキャラクターを生み出し続けていると言います。

それは、ARTにも言えることなのだと思います。
ARTとは、「白人異性愛健常者男性」の理想の下にある文化です。
早いうちから人種・性・障害に関わる作品を生み出し、「多様性の正義」を組み込んでいるのでわかりづらいのですが、根源にはそれがある。
村上隆氏や会田誠氏のような現代作家は、それに自覚的なんでしょう。

著者はそういった時代要請の結果、ヒーローに「困難」を生み出したと言います。
彼は『多様性とは、言い換えれば多文化主義であり、そこには否応もなく「価値の相対化」がついてまわる。その相対化を突き詰めると、「正義」は見失われてしまうかもしれない』と言います。
この「正義」を「美」に言い換えれば、現在のARTの「困難」とまったく同じだと言えませんか?

さらに著者は『「正義」を求めていたはずの多文化主義が相対化主義へと反転し、排他主義的で差別的な「価値観」同士の戦いへと落ち込んでしまう』とし、そうして生まれたトランプ元大統領の姿は『「価値の相対化」を突き詰めたニヒリズム』だと言います。

これをARTで言えば、村上隆氏に嫌悪観を持つ人もそういったニヒリズムの姿と言えるでしょうし、「鑑賞者それぞれに感じ取ってください」価値観と「ARTは学ばなければわからない」価値観の対立も同じ構造だと言えますね。
ただ、ARTの「白人異性愛健常者男性」主義はまだまだ大きく、仮想敵として機能しているからこそ、あり続けているわけですけどね。
私もまた「大文字のART」があるからこそ、こうした彫刻の狭間のコレクションをするという面白味もあるわけで。

そういったニヒリズムをどう克服するのか…

著者は「仮面ライダー龍騎」の「ケアの倫理」と「チェーンソーマン」の欲望の肯定と「愛」に希望を見出していますが、本当に期待して良いのでしょうか?
「チェーンソーマン」と同じく欲望を肯定しながら「愛」の逆の「憎しみ」で生き、その結果「ヒーロー」にならずに済んでいる「ザ・ボーイ―ズ」のビリー・ブッチャーがシーズン4でどうなるのか、「チェーンソーマン」で欲望を満たしたデンジがナユタへの「愛」と世界をどうするのか、その続きを楽しみにしたいと思います。

2024年2月12日月曜日

小倉一利 塑像領布会 会員芳名録 安藤照推薦文

彫刻家小倉一利の塑像領布会会員芳名録になります。
10年前、私がコレクションを始めたころに手に入れ、以来とても大切にしているものです。
その頃のブログでも紹介しましたが、今回再度皆さんにお目にかけたく、引っ張り出してきました。

この芳名録は、昭和7年に書かれたようですね。
彫刻家安藤照による趣旨、次に賛助員、小倉一利の言葉と履歴、そして彼の作品絵葉書が貼ってあります。


それによると、小倉一利は昭和2年に東京美術学校彫塑科卒、朝倉塾生を経て塊人社で研究を重ね、昭和2年第八回帝展に入選、その後も入選を続ける新進気鋭の彫刻家であったようです。
彼についての情報はネット上にはほとんどなく、国会図書館でも茨城出身というくらいしか見つかりません。
また、小倉政二というのがどうやら本名のようですね。
調べて分かるのはここまででした。



小倉一利の履歴で面白いのは、塊人社に参加したことですね。
塊人社は反朝倉文夫派で、安藤照や堀江尚志、松田尚之らが参加しています。
ただ、その後は官展を中心に出品しているので、塊人社からは離れたようですけど。
昭和19年までの消息は追いかけられたのですが、以後はわかりませんでした。
終戦まで生き延びられたのでしょうか?

そして、この芳名録には昭和20年5月、東京大空襲で亡くなった安藤照の直筆文が記されています。


この文章は当時の世相に合わせたものなのでしょうが、興味深いのは「仏教彫刻」という言葉で、日本には西洋に対抗しうる芸術があるという認識。そうしたバックボーンを持ったうえで「彫塑芸術」は黎明の域を脱した新興芸術としてあって、その主流を担おうという希望が書かれている事ですね。
その望みが叶えられず、残念です。


2024年2月4日日曜日

植民地の銅像

1928(昭和3)年、朝鮮の釜山商業会議所に建てられた「大池忠助翁銅像」の銅像です。
作者は上田直次。
明治13年広島生まれ、木彫を山崎朝雲に、塑像を朝倉文夫に学いびます。
昭和11年にはドイツ人フォン・ウエグマンに認められ、独仏に紹介されたりした。晩年は広島県美術展の彫刻部発展に尽力されました。
文化遺産オンライン
広島県立美術館には、上田直次作「杉本五郎像」(1938年)が所蔵されています。

銅像となった「大池忠助」は、安政3年生まれ。明治8年朝鮮釜山にいき、海運・製塩・水産・旅館業などの事業を起こします。
1915年の第12回衆議院議員総選挙で長崎県対馬選挙区から無所属で出馬し当選したが、当選無効訴訟事件の確定に伴い議員を退職しています。
彼は、植民地期の全時期を通じて釜山府協議会協議員、釜山商業会議所会頭、釜山繁栄会会長、官選慶尚南道議員等を務める重鎮であり、その功績を称え、亡くなる2年目の昭和3年に釜山商業会議所前に銅像が建つこととなったのでしょう。

上田直次としては、亡くなる、前になんとか…といった思いがあったかもしれません。
絵葉書には、そんな「大池忠助翁銅像」の除幕式、お披露目の瞬間を撮影されています。
釜山商業会議所が紅白の垂れ幕で飾られ、大勢の人が集まっています。

朝鮮等の植民地に建てられた銅像というのは、やはり民族意識を刺激されるものです。
ですので、当時から同じように残っているものはありません。
この上田直次の作品も、すでに失われているようですね。

そんな植民地の銅像をもう一つ紹介します。

「Rhodes statue, Botanic Gardens, Cape Town 」と題されたこの絵葉書には、南アフリカの鉱物採掘で巨富を得て植民地首相となり、占領地に自分の名(ローデシア)を冠したギリス帝国の植民地政治家「セシル・ジョン・ローズ(Cecil John Rhodes)」の銅像が写されています。
彼は、「神は世界地図がより多くイギリス領に塗られることを望んでおられる。できることなら私は夜空に浮かぶ星さえも併合したい」と著書の中で豪語した人物ですね。

銅像は、1908年にケープタウンのカンパニーズ・ガーデンに建てられました。
現在も、見ることができます。

近年になってローズの人種差別主義への反発の声が南アフリカ及び祖国イギリスで高まり、2015年にはオックスフォード大学にあるローズを顕彰する銘板を校舎の壁から撤去することを決め、銅像についても撤去する意向を明らかにしました。
これに影響を受け、南アフリカ各地にあるローズの銅像や記念碑を撤去しようという動きが広がりつつあるそうです。

何かを公的に顕彰する、記念するという行為そのものが、私たちには難しくなっているのでしょう。
それは良いことだと私は思いますが、公の中でしか生きられないのも私たちであり、混乱はしばらく続くだろうと思います。
撤去工事終わる 群馬・高崎市の朝鮮人追悼碑めぐり県が行政代執行

2024年1月28日日曜日

安永良徳 作「ダナエ」レリーフ再制作?



安永良徳については数回前に書きましたね。
彼のレリーフ作品です。
この作品の素材は石膏。額と作家名が左から記されていることから、戦後の作だと思われます。
ただし、この作品に似た立体を安永良徳は作っています。
それは、1937(昭和12)年に行われた第拾回構造社展覧会において「ダナエ」と題された立体です。

「ダナエ」はギリシャ神話に出てくる女性で、ゼウスとの間に英雄ペルセウスを生みます。
彼女の父アルゴス王アクリシオスに恐れられ、母子ともに箱に閉じ込められて海に流されますが、無事に漂着します。

この作品は、その場面を描いたものでしょうね。つまり、傍らに寄り添う子がペルセウスなのでしょう。
戦前の構造社で好まれた母子像として、この題材を選び、作品としたのだと考えられます。

その造形は、母子の姿を抽象化し、キャラクターの様になっています。
くの字にまがった体に、あり得ない方に伸びていた腕、「構造社」の名前の通り新しい構造を表現することこそを主題とした作品なのでしょう。
それは、当時の最先端表現でありました。

そのような「ダナエ」を戦後にレリーフ化したのでしょうか?
気になるのは、戦前の「ダナエ」と比べると、このレリーフは鏡像のように反転されている事ですね。
どうしてなのでしょう?
反転した作品を参考にレリーフ化したのでしょうか?
謎です。

2024年1月21日日曜日

美術史家「野間清六」原稿


美術史家とか美術評論家って、彫刻家や画家以上に同時代的で消費されて忘れられていくのですよね~
そこが好きで、チョコチョコとそういった方々の原稿や葉書をコレクションしています。
大正12年 森口多里の年賀状

今回は 美術史家「野間清六」の肉筆原稿です。
野間清六は、戦前の帝国博物館東京から東京国立博物館まで長年勤められた、古代~前近代彫刻の研究者です。その分野の著作を多く出しています。

その著作をネットで拾い上げても、
・日本古楽面(昭和10年)
・日本美術大系-彫刻(16年)
・日本彫刻の美(18年)
・日本仮面史(18年)
・古仏の微笑(21年)
・美を慕う者へ(22年)
・日本の名画(26年)
・御物金銅仏(27年)
・日本美術辞典(27年共著)
・日本の面(28年)
・日本の絵画(28年)
・土の芸術(29年)
・墨の芸術(30年)
・飛鳥、白鳳、天平の美術(33年)
・日本美術(33年)
・日本美再発見(38年)、
・続日本美再発見(39年)
そ金銅仏(39年)
・小袖と能衣裳(39年)
・装身具(41年)
・インターナショナル日本美術(41年)
と、本当に多作。
私もこれらのうち、何冊か持っています。

この原稿は、野間清六が東京国立博物館普及課長時代のものですね。
伎楽面について書かれています。
昭和10年の彼の著作が「日本古楽面」であったことからも、彼のメインワークだったのでしょう。
それほど重くない内容ですから、エッセイのお仕事だったのかもしれません。
こうした仕事を通して、野間清六は日本美術史を作り上げてきました。
岡倉岡倉天心が見つけ、和辻哲郎の「古寺巡礼」で一般化した古仏の美ですが、これを美術史として体系化していったのは野間清六と言えるでしょう。

歴史学というものは、実証を重ねて「これだろう」というコンセンサスを作り出していくわけですよね。
ですから「実証」もなく「コンセンサス」得られない邪馬台国はどこにあるのかはわからないし、坂本龍馬の評価は定まらない。

けれどそれが歴史学という学問です。
けれど美術史はそれと異なり、力のある美術史家の美意識が正史になってしまうことがあります。ざっくり言えば「実証」と「コンセンサス」が不要なんですよね。

新潟市美術館で行われている(本日まで)『発掘された珠玉の名品少女たち― 夢と希望・そのはざまで 星野画廊コレクションより』展にて、藤井素彦氏による「モガとモ画ー歴史的考察ー」講義が行われました。
かなり刺激の強いお話でしたが、その中で美術史家、学芸員、評論家といえども、「見たいモノしか見ない」故に目の前にある作品の評価を捻じ曲げるという内容をお話しされていました。
つまり美術史というものは、「見たいモノしか見ない」目によって選ばれたモノが、政治とパワーバランスで選別されてできているとも言えるわけですよ。
私たちの学んだ美術史とは、まぁそんなものなんですよね。

嘘くさくてグレーな美術史…だからこそ面白い。

2024年1月8日月曜日

中国によるチベット問題プロパガンダ彫刻「塑像群 《農奴の怒り》」







この 「塑像群 《農奴の怒り》」は、1977年に中華人民共和国にて発行された彫刻作品のカタログです。日本語で表記されています。
つまり、中国によるアートを用いた日本向けのプロパガンダ本なんですね。

複数人の共同制作作品で、中央五・七芸術大学美術学院教師及び潘陽魯迅学院の教師、そしてチベットの芸術家たちによるものと記されています。
等身大の人物像が106点、動物像6点、舞台のような構成がなされています。
赤茶色の像であるからテラコッタなのでしょう。

この作品は、抑圧されたチベットの民が中国人民解放軍とともに領主らに反乱、共産主義の道を歩んでいった姿を彫刻としたものです。
第一部に封建領主と、彼らによって牛馬にも劣る生活を強いられたチベット民を、第二部ではその現状を肯定し、それに反する民を苦しめぬくチベット寺院を、第三部では支配機構「ガシャ」を描いた構成となっています。最後の四部で農奴たちの反乱及び共産党への強い支持が描かれます。

彫刻として描かれた人々は、とにかく舞台映えする演出がなされ、あえて言えばカッコいい!
戦前は西洋美術を日本から西洋美術を学んだ中国ですが、この塑像群は日本的な表現というよりロシアプロパガンダ的な表現に見えます。
そんな表現をアジア人に用いて大成させた作品だと言えるでしょう。
ここまでアジア人を情熱的に、演技的なリアリズムで描いた作品、ここ日本では未だかつて無いと思います。
もしかしたら、今の北朝鮮にも無いのかもしれません。
プロパガンダであること、今のチベットで苦しんでいる人がいることを抜きにして語れば、とても奇妙でエネルギッシュで、魅力的な作品です。

私はここで戦前中のメダル等を紹介していますが、この作品たちの一部はプロパガンダであり、今回紹介した「塑像群 《農奴の怒り》」と同じものなんですよ。
ですからあえて「魅力的」と言います。
けれど、どこかの誰かを傷つけた、傷つけているモノであることを忘れないようにしたいですね。