2017年1月30日月曜日

「戦争美術館 分館」構想

1977年9月号の美術手帳は、「戦争と美術」を特集しています。

アメリカ軍によって接収されていた日本の戦争画は、1970年に「永久貸与」として返還されます。
1977年には、その内50点近くが東京国立近代美術館にて展示される予定でしたが、突如それが中止となります。
このBTでの特集は、その件を受けて組まれたものです。

そこで、美術評論家 針生一郎は、こういった官のやり方に反対し、民間による戦争画展示施設「戦争美術館」を提言します。

この針生一郎という評論家が戦争画に対してどのような意見を持っているのか。
私の知っている限りでは、あまりはっきりと態度を表明していないように思えます。
たしかに、できが良くないとか、戦時中の軍の太鼓もち作家への批判とか、そういのはありますが、「戦争画」というジャンルにたいしては、どうも歯切れが悪い。

その理由の一つは、「戦争画」をしっかり観る機会がなかったからでしょう。
さらに、これは私の想像ですが、若い頃に観た聖戦美術展の印象を、彼がうまく処理できていないのではないでしょうか。

だからこそ、戦争画を一同に集めた「戦争美術館」を構想したのでしょう。

この「戦争美術館」構想に私も参加したい。
だからといって民間であればイデオロギーから自由になれるとは思いませんが。

イデオロギーから自由にはなることはできませんが、リベラル的に様々なイデオロギーを雑多に混合した企画はできるかと思います。
そこで私が提案するのは、「戦争美術館 分館」構想です!

それは、個々人が「戦争美術館 分館」を名乗り、自身のコレクションを展示します。
いつでも、どこでも、誰でも、どんなイデオロギーでも良く、その繋がらない点を総して「戦争美術館」とします。
多くの人が参加すればするほど良い。大事なことは、それぞれのイデオロギーを否定しないこと...

まずは、私からこの「戦争美術館 分館」を行いたい。
作品はありますので、後は場所...
どなたか賛同していただける方はいらっしゃいませんか??

★★★★★★★★★★★★

さて、今日紹介する戦争画は、神田周三による油彩で即興的描かれた病室です。
描かれた年は、昭和16年。
場所は、広島陸軍病院大野分院。




神田周三は、明治27年 広島 生まれ 。
中村不折、石井柏亭 に師事し、広島を中心に活躍した画家です。
広島県立美術館には「被爆後風景」など、原爆の悲劇を描いた作品が収蔵されています。

この病室の絵は、どういった経緯で描かれたのか不明です。
広島陸軍病院大野分院は、広島県大野村(現廿日市市)にあった陸軍病院のようです。
これが描かれた4年後の昭和20年、大野分院は多くの被爆者を収容したと言います。

人が描いた作品は、写真と違った意味で生々しいく感じますね。
吐く息や布団の擦れる音、そんなものまで聞こえてきそうです。

2017年1月22日日曜日

スポーツと美術 常陸山による寺崎広業画の年賀状 

今回は、ちょっと毛色の違う絵葉書を紹介します。
絵葉書に描かれているのは、日本画家「寺崎広業」による山脈と日輪。


そして、この絵葉書の差出人は、「市毛谷右衛門」。
これは明治の大横綱「常陸山(ひたちやま)」の本名です。
常陸山は、19代横綱。幕内通算150勝15敗24分預。
明治40年に米国へ渡り、ルーズベルト大統領に会見、ホワイトハウスで土俵入りを披露したとか。



出された日付は大正8年1月3日。
これは、常陸山の亡くなる3年前にあたります。

常陸山として引退した後、郷里水戸へ、本名を用いて送ったのだと思われます。
その時、寺崎広業画の絵葉書を年賀状に選んだのですね。
彼を選んだのは、明治39年の岡倉天心排斥運動おり、寺崎広業が大観らと共に茨城県五浦に移り住んだことから、茨城に所縁のある作家としてなのかもしれません。

この時(大正8年1月3日)の寺崎広業は病に伏せていたと思われます。
美術学校の日本画主任であり、帝室技芸員となって画壇の地位を上り詰めた寺崎広業は、大正8年の2月に54歳で亡くなります。

そうして見ると、この絵葉書は、太陽が山脈の向こう側へと沈んでいくように思えますね。

追記
沈む太陽があれば、登る太陽もがあります。
常陸山と同郷の力士、稀勢の里優勝おめでとう!

2017年1月10日火曜日

RIZAL MONUMENT MANILA -30 絵葉書


現在もフィルピン、マニラに建つ「ホセ・リサール」の銅像です。
「-30」とありますが、1930年に写された写真を絵葉書にしたものでしょうか?

ホセ・リサールは、フィリピンの英雄です。
彼は、スペイン統治下のフィリピンにて独立運動に取り組み、1896年に35歳で銃殺されます。
その地に建ったのが、この銅像なんですね。

彼らの運動の弾圧後、フィリピンでは米比戦争が起き、米国統治となります。
「ホセ・リサール」の銅像は、その米国主導で1913年に設置されます。
ここがよくわかっていないのですが、米国はスペイン統治からの独立運動を評価していたということなのでしょうか。
米国は、スペインからの独立を評価しつつ、統治するといったダブル・バインドであったということなのでしょう。

その結果、このフィリピンの英雄の像は、スイスの彫刻家リチャード・キスリングによって制作されます。
日本で言えば、西郷隆盛像を、よくわからない外国人が作って上野に置く様なものでしょうか?

そして現在、この英雄の像はフィリピン国民に愛され、フィリピン海兵隊によって24時間警護されています。

う~ん。複雑だ。

この写真には、フィリピン人と欧米人(たぶん米国人)、そして星条旗が掲げられているように見えます。
1930年代は、フィリピンの米国からの独立が将来的に約束されます。
この時期の何かのイベントで撮られた写真なのかもしれません。

そして、1940年には日本軍が上陸してくるわけです...

2017年1月3日火曜日

戦争画 1938年 南京下関

このブログでは、基本的に昭和20年以前の彫刻と、時々戦中の児童画について書いています。
今年は、それに加えて、戦争記録画、もう少し幅を持たせて、戦時下に描かれた戦争をモチーフとした絵画、戦争画のコレクションと、それについて書いていこうと思っています。
前回のスケッチもそういった戦争画の一枚です。

では、今日の一枚...

 


作家は水原房次郎。
題名は「破壊の跡」
1938年に、彼が出兵していた南京下関にて描いた作品です。
板に下書きのような油彩がなされ、その時、この場所で描かれたことを生々しいく示しています。

この時代の南京と聞いてお分かりの方もあるかと思います。
描かれた前年、1937年(昭和12)年に南京事件(所謂、南京大虐殺)が起きます。
これは、それによって破壊された町、多くの死体が運ばれたという下関を描いた絵画です。

歴史は恣意的なものであり、「正しい歴史」は無いと私は考えていますので、ここで事件のあれこれを述べることはしません。
ただ、この板きれに描かれた絵は、多くの人の死を背負っていることは確かだと思います。

さて、作家の水原房次郎ですが、彼は戦後に独立展系の作家として活躍します。
戦時は従軍記者として、かの地で制作活動を続け、聖戦美術展や大東亜戦争美術展に出品しています。
ちなみに福岡県立美術館に水原の「夏の夜 戦果をききいる少年達」という作品が収蔵されていまして、サイトを見ると聖戦美術展出品作となっています。
http://jmapps.ne.jp/fma/det.html?data_id=10072

私の調べたところですと、題名は「大本営発表二ユースに聴き入る少年達」。聖戦美術展ではなく、1942年の大東亜戦争美術展に出品されています。



ここまででしたら、戦時の多くの作家と違いはありません。
実は、水原房次郎は戦後、中国にある南京大虐殺記念館に「南京破壊の跡」という大作を寄贈しています。
http://j.people.com.cn/n/2014/1205/c94473-8818385.html

作家にどういう意図があったのか伺い知ることはできません。
ただ、十分に政治的な作品である「破壊の跡」は、南京に同名の作が寄贈されていることで、さらに政治性を高められているのではないかと思います。

この作品をどこかに展示して、紹介したいのですが、ここまで政治的だと難しいかな?
どなたか興味ある方、いらっしゃいませんか?

2017年1月1日日曜日

謹賀新年 2017

本年もよろしくお願い致します。
今年も、このブログと共に、私の小さなコレクションを充実させていきたいですね。

今年最初は、まずこの絵から。
1928(昭和3)年に描かれたスケッチです。
幾つか描かれたスケッチの内の1枚で、作者は不明。

この記念碑がどこにあった物なのか、それを調べることから、本年の冒険を始めたいと思います。
続く...