2016年7月31日日曜日

報道ステーションと日曜美術館

夕方の「報道ステーション SUNDAY」では、1940年に行われる予定だった幻のオリンピックの特集でした。
その中で、当時の水泳選手だった方が紹介され、一瞬だけ獲得されたのだろうメダルが映されました。
ほんとに一瞬だったので、全部は確認できませんでしたが、その中に昭和11年に行われた日米中等学校選手権水上競技選手権大会のメダル、日名子実三原型の河童メダルがありました。


残りのメダルが気になります...すごく。
録画しときゃよかった...

それと、今日の日曜美術館では、現在国立民族博物館で行われている「よみがえれ!シーボルトの日本博物館」が紹介されていました。
シーボルトのコレクションいついては、以前このブログでも紹介しましたね。
http://prewar-sculptors.blogspot.jp/2016/07/blog-post.html

ブログで書きました勾玉や埴輪が展示されているのかわかりませんが、どうなんでしょう?
日本の民間信仰には興味があったようで、「蛇身弁財天像」が展示されているようです。
私も、こういった日本の蛇神像には以前から興味があります!

「あんとく様! お許しを!!」


2016年7月22日金曜日

仏印現代美術展覧会 覚書

1943(昭和18)年に行われた仏印現代美術展覧会。
当時、日本占領下のフランス領インドシナ。現在のベトナム、ラオス、カンボジアあたりですね。

この展覧会にあたっての新聞記事を読んだので、そのメモです。

この展覧会の一昨年に「仏印巡回現代日本画展覧会」が、「大東亜情報局」が後援、フランス大使館協賛、国際文化復興会主催で開かれています。
この「仏印現代美術展覧会」は、どういった後ろ盾があったのかは、この新聞記事ではわかりませんでしたが、仏印作家の絵画、彫刻、工芸が120点あまり日本で展示されます。

記事には、この地域の作家にはフランス系と支那系があり、その交流によって文化が成り立っているとあります。

展示作家には、「アングベルティ」、「フアン・タイ」、「ルオン・スアン・ニー」、「グエン・ヴァン・ホアイ」、「ト・ゴツク・ワン」、「チャン・ヴァン・ハ」、「グエン・ワン・チュオツク」、「グエン・ヴァン・テイ」、「グエン・ワン・ヒニユ」、「ヂェップ・エム・チャウ」等。

フランス系と支那系文化の混合作品として、「ヂェップ・エム・チャウ」の「少女」、「ナムソン」の「安南の少女」、「グエン・ヴァン・サン」の「トンキンのお針女」、「グエン・ヴァンシェン」の「浜辺の魚商」を上げています。

彫刻では、フランス系の「ジョン・シエール」の「ラオス人」、「パリック」の「鹿」、後はビエンホア美術学校の生徒の作品が良かったとか。


★以下、調べたもの-------------------------------------------------------------★

ビエンホア(Bien Hoa)美術学校は、現在もベトナムにあるようです。

ビエンホアという町は陶器生産で知られます。
この地に、1903年にはビエンホア職業教育学校設立され、1913年にビエンホア美術工芸学校となります。

美術学校の作品を検索するとこの二つが
http://www.sothebys.com/en/auctions/ecatalogue/lot.271.html/2015/modern-contemporary-southeast-asian-art-hk0565
http://www.jansantiques.com/Lot/jac2110.php

確かに面白い。
海外作品は、文脈がわからないので興味が沸きます。
中国の古代彫刻と西洋美術が混ざったような作風ですね。

画家はベトナム系が多いです。
それには、1925(大正14)年にハノイで設立されたインドシナ美術学校の影響があるようです。

昭和18年という戦火の下、たしかに軍部の影響があり、プロパガンダとして利用されたのでしょうが、こういったアジアの国々との交流展が戦時になって初めてなされているわけです。
この昭和18年には、ルオン・スアン・ニーら3人が日本に訪れています。
こうして、他のアジアの現代美術作家との交流が始まったのですね。

2016年7月21日木曜日

女優「川上貞奴」縁の貞照寺に残る胸像

川上貞奴は、明治時代の女優です。
その貞奴が私財で建立した寺院、「貞照寺(てい しょうじ)」が岐阜県各務原市にあります。
今日はこちらに行ってみました。

寺の周りには、貞奴の生涯を描いた浮彫がはめ込まれています。
彫刻師は、金子光清。




その中でも良かったのが、志州島にて怪獣「海驢(あしか)」に襲われるの図。
確かに海獣(かいじゅう)だけどね。








 このお不動さんの両側に立つが、貞奴と福澤桃介でしょう。


彫刻師「金子光清」は何代目なのかまではわかりませんでしたが、本堂は1933(昭和8)年に建てられたとのことですので、その時期の人だと思われます。
東京の柴又帝釈天にも、同じ「金子光清」の作品があります。
「金子光清」は東京の人なので、わざわざ頼んだのでしょうね。

また、この池の前に立つ観音像は、地元の作家浅野祥雲の作と言われているものです。

貞奴の霊廟前にも立派な観音様が立たれていたのですが、そちらはなんだか畏れ多くて写真が撮れませんでした。
百済観音に似たお姿の観音様で、たぶん戦前の物だと思われます。

普通、墓は日当たりを良くするためだとか言う理由で、南を向いています。
しかし、この貞奴の霊廟は鬼門である北東を向いているのです。
それは、貞奴と福澤桃介が尽力を注いで行った事業である大井ダムを臨んでいるからなのだそうです。
今でも、気にかけているのですね。
そういう理由の為なのか、なんだか気後れしてしまいました。

貞奴は、1900(明治33)年、パリで行われていた万国博覧会を訪れ、それを観たロダンが彼女の彫刻を作りたいと申し出たが、断わったそうです。
それで、ロダンは1906(明治39)年に花子をモデルに作品を作ります。
ですが、貞奴の像は、他のフランスの彫刻家に制作されます。
それが、この貞照寺に残る「音二郎像」と「貞奴像」です。
今回の目的は、この像を見ることでした。(写真は不許可でした。残念)

1900(明治33)年に制作されたこの像の作者は、レオポルド・ベルンスタン
ニコライ2世、エミール・ゾラなどヨーロッパの各界名士の肖像彫刻を多く制作したベルンスタンは、パリ・グレヴァン美術館の専属彫刻家として蝋人形の原型づくりに携わり、この貞奴の像も蝋人形の原型からブロンズにしたものだそうです。
この作品のモデルのために、貞奴は時間が取れなかったのか、またはモデルに懲りたのかしたので、ロダンの依頼を断ったのでしょう。

その蝋人形が、現存しているのかわかりません。
あれば見てみたいですね。
日本の美術館で展示したら面白いと思うのですけどね。
安本亀八の作品と並べてみたりとか。

ベルンスタンを調べてみたら、こんな作品がありました。
これはまさに貞奴!?

2016年7月20日水曜日

Intermission 横山潤之助 奈良さんセレクトで展示中

これまでも紹介してきました横山潤之助の追加情報です。

横山潤之助の代表作「裸婦」が、国立近代美術館で行われています。「近代風景~人と景色、そのまにまに~ 奈良美智がえらぶMOMATコレクション」展で展示されているそうです。

奈良さんの「裸婦」へのコメントがサイトに記載されています。
http://www.momat.go.jp/am/exhibition/nara_selection2016/#section1-2

この大正15年に描かれた「裸婦」は、横山潤之助が惚れて口説いて、後に結婚するモデル「相田イヨ」を描いたものです。
しかし、イヨとの息子と、そしてイヨも、理想郷を求めて渡った満州にて連れ立つように亡くなります。

彼が徐々にオカシクなっていくのも致し方ないのかもしれません。

2016年7月17日日曜日

「赤城」機関長 反保慶文宛 佐久間大尉銅像

若狭湾を見下ろす佐久間大尉銅像は、1914(大正3)年に沼田寅次郎によって制作され建てられます。


で、この絵葉書ですが、反保慶文宛となっています。
「反保慶文」は、あの空母「赤城」の機関長であった人物でしょうか?

「16/5」と書かれていますが、これが昭和16年5月であるなら、真珠湾攻撃に参加した1941年12月8日の半年前になりますね。
この時期の赤城は、第1航空艦隊旗艦として任に付いた頃です。

送り先は満州のようです。
送り主は「満州は陸上だと思ったら...」と書き出しています。
ですが、それ以降は何て書いてあるかわからない!
「...奥羽の田舎から....活動を...」ってあぁもう、不勉強でもうしわけない。
わかる方、どうかご教授下さい!!

何よりその送り主もわからない...(最上川 某先生?)

それにしても、もしこれが「赤城」の機関長に送る絵葉書であるとしてら、佐久間勉の像の選択は粋ですね。
彼は海軍にとっては特別な人物だったでしょう。
それが、満州に向けて若狭湾から見送っているというわけです。

2016年7月15日金曜日

神像について考察 その2

古事記や日本書紀などで書かれた神の姿は、江戸後期から発展した考古学によって、埴輪や勾玉などの古墳時代の情報を取り入れ、現在あるようなイメージを作り上げた。

ここで思うのは、古墳時代以前、縄文時代の土器なども、明治ごろから体系立てて研究がなされたわけで、そういった情報は、神の姿に組み入れられなかったのかということ。

ギガゾンビとかドラゾンビみたいな。


日本をお造りになった神々は、縄文以前からこの地に立たれていたと思うのですが、それが古墳時代の装いをしているという矛盾には、つっこみが無かったのでしょうか。

社会学者の故小室直樹さんが書かれていたことです。
米兵が捕らえた日本兵に、天皇は神の子孫ではないと諭そうと、人は猿から進化したのだと教えるのだが、日本兵は進化論くらい知っていると答えた…では、天皇は猿の子孫なのか、その矛盾を日本人は考えずにきた…というエピソード。

科学という信仰も、自らの信仰体系(日本教)に取り入れてしまう。
それが矛盾しようが、お構いなし。
神道で誕生を祝い、キリスト教で愛を誓い、仏教で葬儀を行う。
それが日本人の宗教観なのでしょう。

または、こうも考えられます。
西洋の神、エホバは人間(ユダヤ人)から崇められることで存在する神です。
その為に、人間にゴリゴリと介入してきます。
人間がその存在を信じることでエホバは神であるように、この宇宙が観察されるからこそ存在するという人間原理の思想のように、古墳時代の人々が、彼らの神の存在を強くイメージしたからこそ、日本の神に姿を与えたのかもしれません。
それが伝統として現在の私たちの神のイメージがあり、神はそのイメージに合わせて姿を変えていくのだと。

私としては、神社にお参りに行っても具体的な神の姿を想像することはありません。
それは伊勢に行っても同じです。
では、現在、神はどのようなお姿をしているのでしょうね?




2016年7月9日土曜日

神像について覚書

大黒様のメダルについて書いたとき、次は神像のなりたちについて何か書くと伝えておりましたが、調べれば調べるほど不明な点が多いので、まずは覚書としてここに記します。

江戸時代以降、どのように神像が成り立ってきたのか、誰も見たことのない「神」のイメージをどう作り上げてきたのでしょうか。

例として日本武尊(ヤマトタケル)のビジュアル・イメージの変化を追って行きます。

江戸時代、幕府は朱子学を正学とします。その朱子学の台頭により、漠然とあった神道に論理的な裏づけを与えます。
また、交通網の発達により、民衆のお伊勢講(伊勢参り)が人気を博します。
そうした神道人気によって書かれた近松門左衛門の浄瑠璃「日本武尊吾妻鑑」。
初演は、寛保1年(1741年)1月10日。

そして、その浄瑠璃のイメージをもとにしただろう歌川国芳《寛政9年11月15日(1797年1月1日) - 文久元年3月5日(1861年4月14日)》のヤマトタケル

ほとんど武者絵です。
ただし、衣服は神職の装束か公家の平常服である直衣(のうし)に見えますが、柄物であり、そしてそこに鎧を着込んでいるようです。
きっと柄にも意味があるのでしょうが、あまり詳しくないので、今後の課題です。

次は、明治前期、月岡芳年の作品と明治13年に建てられた金沢兼六園の像です。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/1a/Yamato_Takeru_at_16-crop.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c8/Statue_of_Yamato_Takeru_no_Mikoto_in_Kenroku_Garden.jpg

着物に袴ですが、ここで気になるのは勾玉です。
たしかに勾玉は三種の神器ではありますし、古事記にもその使用が書かれています。
それが明治前期には、このように首からかけて用いられるものだという一般的な認識としてあったことがわかります。

江戸後期、シーボルトが勾玉や埴輪を研究しています。
http://db.nichibun.ac.jp/ja/d/GAI/info/GD064/item/008/
http://db.nichibun.ac.jp/ja/d/GAI/info/GM003/item/011/

こういう考古学的情報が一般化されたのが、明治前期だったのでしょう。

埴輪のイメージは、明治以降広く一般化され、例えば髪をまとめる美豆良 (みずら)も、この時期に広く知られた情報になったのだと思われます。

そのイメージがこういった日名子の神像につながったのだと思われますが、明治から昭和初期までの間にはまだまだ不明な点が多く、さらに追加して調べてます。

2016年7月3日日曜日

Intermission 横山潤之助 追加情報

以前の紹介した横山潤之助の追加情報です。
http://prewar-sculptors.blogspot.jp/2014/05/intermission.html

今回は、小島逸平著「ユートピアを求めて 幻の画家 横山潤之助伝」を読みます。
小島逸平は、岐阜県各務原市で画材店を営んでいた人らしく、当時の横山潤之助と付き合いがあったようです。

この本ですが、横山の生の声が書かれており、以前は絵葉書と略歴でしか知ることの出来なかった彼の人柄にリアリティーを持つことができます。
ただ、その言葉はポエミーでなかなか読み辛い。
しかも、著者の文章もまたポエミーで、二乗されてて辛い、辛い...

その中でもぼんやりとしか書かれていなかった、東京から各務原市に移住した理由についてですが、確かに東京の大邸宅が空襲にあったからではあるようですが、それでも一文無しで各務原市に来る理由がわからない。
どうも親類一同に、財産を巻き上げられたか(維持できる能力がないと見なされたか)、または、自身から手放したか(これも精神病的な問題で)したんじゃないかと推測します。

どちらにしても、酷い話で、なんだか戦前を舞台にした昼ドラのようです。

また、その横山の病状ですが、本文にはこうあります。
「誰が悪いとかいう問題ではないですが、子供たちが親から『あの人は岐阜のキチガイ病院から来た”キチガイ”だから気をつけな!」と言われれば子供は純粋で単純ですから『ヤーイ、キチガイ、キチガイ! キチガイ病院から来たキチガイだい』といってはやしたてたのです。でも横山潤之助は何くわぬ様子で聞き流していましたが、小石を投げつけられたときには、烈火のごとく怒りをあらわにして追いかけたのです。『コラー!何をするのか!』」

あぁ、子供の頃、こういう近所のおじさんっていたなぁ~

この文章では、著者は横山を擁護していますが、実際は現実を覆わず口に出してしまう子供の見方が、事実に近かったのでしょう。

自宅を自作して全てをピンク色にしてしまうとか、それを進駐米軍にパンパンの店と間違えられて訪れられるとか、まさにアウトサイダーな生き方。
実際会ってみれば、問題のある人物だったのだろうと想像します。

ただし、その各務原時代の作品について、画集でしか見てないですが、かなり素敵。
ルノワールというか梅原龍三郎風ではありますが、どこか不穏なのです。
たんなる果物を描いた絵なのに。

素敵な理由は、これがアール・ブリュットの絵画として、観る人間を揺さぶるからです。
しかし、横山は確かな美術教育を受けていますし、デッサンも立派なもので、厳密に言えば、アール・ブリュットではありません。
ですが、その確かさの裏の、どこかどこかが不穏で、アール・ブリュットの作品を見た時と同じ感情を味わいます。
そして、それが魅力的なんですよ。
これを観ると、前衛画家時代の横山の作品は色褪せますね。

現在、横山作品は各務原市の所有となっているようです。
なんとか本物を見てみたいものです。