2016年7月9日土曜日

神像について覚書

大黒様のメダルについて書いたとき、次は神像のなりたちについて何か書くと伝えておりましたが、調べれば調べるほど不明な点が多いので、まずは覚書としてここに記します。

江戸時代以降、どのように神像が成り立ってきたのか、誰も見たことのない「神」のイメージをどう作り上げてきたのでしょうか。

例として日本武尊(ヤマトタケル)のビジュアル・イメージの変化を追って行きます。

江戸時代、幕府は朱子学を正学とします。その朱子学の台頭により、漠然とあった神道に論理的な裏づけを与えます。
また、交通網の発達により、民衆のお伊勢講(伊勢参り)が人気を博します。
そうした神道人気によって書かれた近松門左衛門の浄瑠璃「日本武尊吾妻鑑」。
初演は、寛保1年(1741年)1月10日。

そして、その浄瑠璃のイメージをもとにしただろう歌川国芳《寛政9年11月15日(1797年1月1日) - 文久元年3月5日(1861年4月14日)》のヤマトタケル

ほとんど武者絵です。
ただし、衣服は神職の装束か公家の平常服である直衣(のうし)に見えますが、柄物であり、そしてそこに鎧を着込んでいるようです。
きっと柄にも意味があるのでしょうが、あまり詳しくないので、今後の課題です。

次は、明治前期、月岡芳年の作品と明治13年に建てられた金沢兼六園の像です。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/1a/Yamato_Takeru_at_16-crop.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c8/Statue_of_Yamato_Takeru_no_Mikoto_in_Kenroku_Garden.jpg

着物に袴ですが、ここで気になるのは勾玉です。
たしかに勾玉は三種の神器ではありますし、古事記にもその使用が書かれています。
それが明治前期には、このように首からかけて用いられるものだという一般的な認識としてあったことがわかります。

江戸後期、シーボルトが勾玉や埴輪を研究しています。
http://db.nichibun.ac.jp/ja/d/GAI/info/GD064/item/008/
http://db.nichibun.ac.jp/ja/d/GAI/info/GM003/item/011/

こういう考古学的情報が一般化されたのが、明治前期だったのでしょう。

埴輪のイメージは、明治以降広く一般化され、例えば髪をまとめる美豆良 (みずら)も、この時期に広く知られた情報になったのだと思われます。

そのイメージがこういった日名子の神像につながったのだと思われますが、明治から昭和初期までの間にはまだまだ不明な点が多く、さらに追加して調べてます。

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