2020年6月24日水曜日

日名子実三作 大友宗麟公銅像除幕式記念 メダル




昭和12年に大分新聞社主催による大友宗麟公銅像の除幕式記念が行われました。
銅像の作者は日名子実三。
このメダルはその除幕式を記念して制作されたものです。

建立地は大分県大分市勢家町 神宮寺浦公園。
銅像の台座には『銅像を建設し以て遺徳を顕彰すると共に永く郷党発奮の源泉たらしめん事を期す』と刻まれています。
しかし、この大友宗麟公銅像は大東亜戦争中の金属回収令によって台座のみとなります。
ただ現在は、彫刻家長谷秀雄によって再建され同地で拝むことができるようです。

戦時中は多くの銅像が回収されました。
戦後も同様に戦争に関連した銅像は取り壊され捨てられます。
そして現代もまた銅像はうち捨てられています。




以前も「銅像受難の現代」と題して書きました。
銅像という人の形を模したモニュメントは、常に破壊され、捨てられる運命なのでしょうか?

確かに諸行は無常であり、常に『遺徳を顕彰する』ことも『共に永く郷党発奮の源泉たらしめん事』も難しいのでしょう。
もしかしたら銅像とは壊されるまでが一つのセット。
失う事も含めて「銅像建立」と言うのではないか。
そんなことを思います。

建立者のどんな想いも、時代の中で解釈が変わり、新たな想いの対象として破壊される。
または良い意味でも悪い意味でも忘れ去れ、不要となる。
それが「銅像」なのではないか。
鳥の糞だらけで誰もが誰かわからない銅像。
人身御供のように倒され、燃やされ、引きずり回され、挙句に海に投げ捨てられる銅像。
人を模した銅像は、建立時と同じように捨てられる姿も一つの祭事なのです。
今でも想いを背負った人形を川に流す祭事がありますが、銅像もまたそういった呪をもったモノなのではないか。
そして、そこに銅像が銅像たる所以、役割があるのではないかと思うのです。

ですから、どんどん世にある銅像を倒してしまえば良いのでしょう。
台座さえも失って、そこに何があったか忘れて行けば良いのでしょう。
猿の惑星の自由の女神像のように、まるで山や川がただそこにあるように。
私のような好事家がちょっと思い出す...それくらいでちょうど良いのでは。

2020年6月19日金曜日

大正14年発行 彫刻雑誌「ハニベ」創刊号 その2

この雑誌を読みたいとのご希望がありましたので「ハニベ」創刊号の前頁を載せます。
画像で申し訳ないのです。写真も写りが悪くてすみません。
うまく曲げられなかった頁は別撮りしています。
読めますでしょうか??



















2020年6月13日土曜日

大正14年発行 彫刻雑誌「ハニベ」創刊号






若き彫刻家たちが集まった「ハニベ会」は、大正14年に銀座松屋で彫塑小品展覧会を行い、会の雑誌としてこの「ハニベ」を創刊しました。
参加作家は、大塚辰夫、小野田高節、片岡角太郎、唐杉誠一、吉田久継、武田梁、都賀田勇馬、中村甲藏、清水彦太郎、日名子実三です。
朝倉文夫

この雑誌にこの写真!
貴重ですね!

ただこういう癖のある芸術家が集まって作ったような雑誌は長続きしない。
「ハニベ」は何号まで続いたのかしら?

この創刊号では13ページしかないところに、後半になるにつれ芸術漫談や作家の滑稽話とネタが尽きてきます。
お高くとまる「芸術」と異なり、武田梁の言うところの「極平民的な彫塑の小品展覧会を開催して、世間の人々が容易に吾等の作品を手に入れる事の出来るようにしよう」を会の主義方針にした結果、こういう雑誌になったのでしょう。

雑誌創刊の一昨年、大正12年には関東大震災があり、芸術家たちは社会に向けて何かできないかと考えます。
今和次郎ら作家たちが焼け跡に建てられたバラックにペンキで絵を描いた装飾バラック装飾社もその一つであり、その活動には日名子実三も参加しています。
「ハニベ会」もそういった考えを持った団体だったのでしょう。
しかし、『極平民的な彫塑』の書きっぷりが逆にお高くとまる「芸術」に対する拘りを感じますね。

それと、興味深かったのが「祝発刊」ページに書かれた方々です。

貴金属宝石商 大西錦綾堂、外山建築事務所 外山金作、鎮銅彫刻 石井商店、石膏師 松平新吉、石膏師 西沢寅吉、鎮物師 岡本謙三、鎮物師 角川朋吉 喜八、白井運送店等々...
産婆さんもいます。何故?
こういう作家周辺の方々の名前を眺めると、当時の世界が彩色されて見えてきますね。