2013年1月27日日曜日

シベリア抑留彫刻家に就て。



先の大戦で敗れた時、満洲あたりにいた日本軍はソ連によってソ連の勢力圏(現在のモンゴルや中央アジア、北朝鮮、カフカス地方、バルト三国)に連行される。
所謂このシベリア抑留による強制労働によって、約5万人(諸説色々あるようですが)の日本人が亡くなった。

戦争で疲弊したソ連の労働力を補うために行われた抑留であるので、肉体労働の他、生産にも従事し、スキルある技術者が求められた。
そういった抑留者の中に彫刻家たちもいた。

 シベリア抑留者で有名な彫刻家といえば、一昨年亡くなった佐藤忠良であろう。
 1945年から1948年までの間抑留され、36歳で帰国している。
 新制作派協会に参加していた佐藤は、その日本人離れした美しい肉体美の造形をもって、新しい日本人像として受け入れられ、 さらにシベリアでの経験から、底に流れるヒューマニズムを感じさせるとされた。

しかし、 シベリア抑留彫刻家は彼だけではありません。
その一人が、画像の作品を制作した安永良徳です。
 安永は、1902年(明治35年)福岡生れ、東京美術学校彫刻科卒。
1931年から「構造社」に参加し、さらには齋藤素巌の去った後を受けて「構造社」を切り盛りするようになる。
招集令を受け、39歳で満州に配属、そして敗戦を迎え、シベリア抑留となる。
この辺のことは、西日本新聞に掲載された「ハカタ巷談・美の創造者たち・収容所ぐらし」に詳しく書かれており、こちらのサイトで紹介されています。
 シベリアから帰国した時、安永45歳。故郷の福岡に戻り、彫刻家として文化人として活躍されます。

彼にとってベリア抑留がどんな意味を持っていたのか気になるところですが、彼が香月泰男や佐藤忠良のように、「シベリア」を全面に出した作家ではなかったというのは言えるでしょう。
その理由の一つだと思われるのが、蛇を集めて売ったりするような剛毅で強く明るい性格で、影を表に出さなかったからでは。
また、官展系の作家でもあるため、戦後ある程度の地位もあり、「シベリア」を神輿にし、持ち上げる輩もなかったからではないか。
さらに、東京から離れ福岡に戻ったことで、メディアでの扱われかたが東京の作家と異なった、取り上げ方が異なったということも、その理由の一つだと言えるでしょう。

戦争体験は人間の体験であり、各個人の体験であるため、その捉え方は千差万別です。
 「シベリア抑留」という体験一つでも、その捉え方表現の仕方、あり方は異なるのだと、心に留めたいですね。

画像は、上が「昭和10年度日本選手権水上競技大会」原型サイズのメダルになります。
下の三人の顔については調べ中。

2013年1月26日土曜日

齋藤素巌に就て。


齋藤素巌は、1889年(明治22年)東京生れ。
彫刻家になることを志したが、父の反対で断念。その父が亡くなった後、23歳で英国へ渡り、ロイヤル・アカデミーで彫塑を学ぶ。
帰国後は苦学をしながらも彫刻家として台頭し、日名子実三と共に彫刻家団体「構造社」を立ち上げるなど、官展系とは一寸異なる独自の道を歩む。
現在、東京都小平市のグリーンロードで幾つか作品を観賞することができます。

その日本の彫刻界の主流であった官展系と距離を置く姿は、そのためか評論家受けがよく、高い評価と、メディアによる多くの紹介、また自身の発言機会の多い作家であった。
しかし、彼はそれに奢らず、潔癖を通し、例えば先に紹介した「ヱハガキ寫眞問題」の時は、官展への出品を拒否し、「今後独りで勉強を続ける 近く適当な方法で発表 當の斉藤素巌氏語る」とし、また自身が立ち上げた「構造社」も金銭問題を一人で背負った為に、結局代表を降りることになってしまいます。

作風は、当時の日本では珍しく、彼が彫刻を学んだ英国アカデミズムの強い影響が見て取れ、バタ臭い。そして労働者など市井の人々を主として描き、当時の西洋美術の流行でもあったプロレタリア的性格を持っていた。

画像は、上から「第2回帝国美術展覧会出品 遺された人達」絵葉書、1920年(大正9年)
次のメダルは、「第五回東西対抗陸上競技大会」参加賞メダル、1926年(大正15年)
そして、「紀元二千六百年奉祝東亜競技大会 東京大会」メダルです。1940年(昭和15年)

今回、齋藤素巌を紹介したわけは、戦争を生き抜いた彫刻家のその後について興味を持ち調べ始めたからです。
齋藤素巌は、先に書いたように、戦時中軍部と密着した関係を持っていた日名子実三と共に「構造社」 を立ち上げています。日名子がその後国粋主義的な作風に流れる中で、齋藤素巌はその袂を分かちます。しかし、二人の関係が無くなったわけではなかったでしょう。そして終戦の年に日名子が亡くなったこと、齋藤はどう感じたのでしょうか。
齋藤素巌は戦後の官展で、「甦生(戦争・飢餓・甦生のうち)」1946年(第一回日展)、「武器を棄つ」 1947年(第二回日展)と反戦を明確にした作品を発表しています。
しかし、それ以前に比べると、戦後は極端に多くにメディアでの発言が減っています。
そんな齋藤素巌の戦争への思いを知りたいと思うようになりました。

2013年1月21日月曜日

第三部会彫塑部出品 池田勇八作「待令」 絵葉書


1940年(昭和15年)9月7日の読売新聞、夕刊の「海外文芸ニュース」欄に「大ドイツ芸術展覧会」の紹介記事が掲載されています。
この展覧会は、ヒトラーの指導の下に、美しく崇高で、健全かつ健康な芸術が国策として展開されました。
記事では、 第四回大ドイツ展覧会がミュンヘンで開かれ、彫刻絵画含め1397点、作家数758人が参加しているとあります。そして、彫刻家アルノー・ブレーカーのモニュメント、アドルフ・ワンバーの「勝利の天才」の群像、ヨーゼフ・トラツグの作品。建築では、オットー・アー・ヒルト。絵画はエルク・エーベル、フランツ・エルヒホストが紹介されています。
当時のドイツでは、巨大モニュメントが作成され、彫刻が大きく展開がなされていたのですが、それにたいする日本の彫刻界の反応がどうであったかと言えば、たいして興味がなかったと言えるでしょう。このヒトラー趣味の展覧会にたいして日本の彫刻家の言及がなされたことを僕は知りません。
というより、この同盟国の退廃美術への対応などを冷ややかに、批判的に見ていたようです。
それでも、この日本でも抽象絵画やアバンギャルド作品が影を潜め、この当時の新聞記事の言う、事変に対応した美術が展開されているのですが。
 そのように事変に対応した彫刻を標榜する日本の彫刻家グループが、上記に絵葉書にある第三部会です。
第三部会は小倉右一郎、日名子実三、石川確治らが参加する、反官展、反朝倉文夫として結成されたグループでしたが、後に国風彫塑会と改称し、その国粋主義的な性格を明確にします。

さて、この日の記事にはもう一つ美術について書かれた記事があります。
この「大ドイツ展覧会」の真下に書かれているのが、美術評論家「柳亮」による「新秋の彫刻評」です。
ここには、柳亮による辛辣な彫刻評が書かれています。曰く「ここでは、問題は、彫刻と建築という、二つの部門の技術的及び感覚的協同というかたちで提起されているが、両者間のジェネレーションの食い違いは決定的であり、日名子実三の「表忠塔」など、現代建築の今日到達している水準から押していくと、その構想の陳腐さが殆ど超批評的である。」「これは、従来他部門と没交渉で、孤立的に発達して来た社会の文化活動一般の罪であって、文化の綜合体制が要請されている現下の実際問題として反省を要するところだと思う。」としている。
たとえそれが国粋主義を標榜する作品であっても、しっかりと批評する姿がここにある。
当時の日名子実三は、国家と軍とに関わる彫刻家として何度も同新聞に(政治的に)好意的に紹介されていた作家であったのにもかかわらず。
そんな健全な美術評が当時はあったのだ。

たしかに国家と軍への批評は戦争が深まるにつれ不可能になりますが、ただ、国家と政治家は批評できても、美術と作家個人への批評など一片も書けない現在の新聞と表裏だと言えるのではないでしょうか。

2013年1月16日水曜日

模造メダルたち




本物と本物らしい偽物があって、そこに本物になろうという意志があるだけ、偽物のほうが本物よりも価値がある、とは「偽物語」の貝木泥舟の台詞ですが、今日紹介するのは、そういった偽物もとい、模して作成されたメダルたちです。
当時のメダルには作家のサインが入っており、それが無いものは模造と考えられます。

まず、一番上のは以前も紹介しました日名子実三原型の「第7回明治神宮体育大会」メダルです。1933年(昭和8年)に用いられました。
その下は、市立名古屋商業学校「寒稽古賞」メダル、 1934年のものです。

そして次は、これも日名子実三原型の「大六回横断競争 関東陸上競技協会」メダルです。
その下の貧弱な韋駄天像の方は、大阪毎日新聞社京都支部主催「京都市学童体育大会」1940年。

日名子の明治神宮のメダルのモチーフは人気があり、他にも似せて作られた、作家のサインの無いメダルが幾つかあります。
当時において、作家の著作権は曖昧であり、所有権もまた曖昧でした。ですので、商業学校という公の、しかも著作権を何よりも教えなければならない学校が用いたり、また近代の促進を担うはずの新聞社によって用いられたりしています。
丸山真男が嘆くわけです。
こういったことが問題というより、近代的所有の概念の発達史として見るとおもしろいのではないでしょうか。

2013年1月14日月曜日

朝倉文夫 原型「加藤高明銅像」絵葉書



調べ物をするために名古屋の鶴舞図書館に行ってきました。
ついでに公園内ある加藤高明像跡の台座を見学。

加藤高明は、明治から大正にかけての政治家で第24代内閣総理大臣。
1926年(大正15年)に亡くなっています。
愛知県出身であり、彼の功績を称え、1928年(昭和3年)にこの銅像が建てられました。
高さ42尺(12.7m)像の丈は16尺(5m)とかなり大きい。
原型は朝倉文夫で、この時期の朝倉はこういった大きな銅像をいくつか制作しています。

現在は、右下の写真のように台座のみが鶴舞公園に建っています。
http://www.panoramio.com/photo/13118248
なぜ、こういった姿なのか。
実は、戦時の金属回収によって加藤高明像は持ち出され、失われたのでした。
この立派な台座が、そういった時代を象徴するかのようにあるのです。

ドイツにあったナチス政権下の彫刻群は、戦争と戦勝軍によって破壊されましたが、先に紹介した広瀬中佐と杉野曹長の銅像のように日本の彫刻は日本人の手によって少なからず失われました。
日本人も嬉々として差し出したわけではなく、ただ時代に、そして自身に負けたとのだと言えるでしょう。
こういった身近な戦争跡地を、もっと現在の子供たちに見てもらいたいものです。

2013年1月13日日曜日

日名子実三 原型「明治神宮鎮座十年祭奉祝体育大会」メダル


最近メダルの紹介が少ないですよね!ってことで、日名子実三原型の「明治神宮鎮座十年祭奉祝体育大会」メダル です。

「明治神宮鎮座十年祭奉祝体育大会」とは1930年(昭和5年)に行われた体育大会で、2年置きに行われていた明治神宮体育大会とは別に、1920年に造営された明治神宮の10周年を記念して行われました。
この時、日名子実三は37歳。メダルとしてはまだ日名子色が出ていない時代だと言えます。
ただし、表のなぜか裸体の走者と比べると、裏の構成的でモダンなデザインは面白い 。
バレーボールの選手だと思われる人物が左上に配され、ボールとコートがその反対に側に、そして中央を「明治神宮鎮座十年祭奉祝体育大会」の文字が横たわる。
古賀春江「窓外の化粧」にも少し似てます。
これ以降はこういったモダンはあまり試みません。
大正モダンの時代の残り香だったのかもしれませんね。

2013年1月9日水曜日

2013年

謹賀新年


今年も、良いメダルや絵葉書の収集ができると良いな~
画像は、戦中使われた軍事郵便に描かれた児童画。可愛いね。