先の大戦で敗れた時、満洲あたりにいた日本軍はソ連によってソ連の勢力圏(現在のモンゴルや中央アジア、北朝鮮、カフカス地方、バルト三国)に連行される。
所謂このシベリア抑留による強制労働によって、約5万人(諸説色々あるようですが)の日本人が亡くなった。
戦争で疲弊したソ連の労働力を補うために行われた抑留であるので、肉体労働の他、生産にも従事し、スキルある技術者が求められた。
そういった抑留者の中に彫刻家たちもいた。
シベリア抑留者で有名な彫刻家といえば、一昨年亡くなった佐藤忠良であろう。
1945年から1948年までの間抑留され、36歳で帰国している。
新制作派協会に参加していた佐藤は、その日本人離れした美しい肉体美の造形をもって、新しい日本人像として受け入れられ、 さらにシベリアでの経験から、底に流れるヒューマニズムを感じさせるとされた。しかし、 シベリア抑留彫刻家は彼だけではありません。
その一人が、画像の作品を制作した安永良徳です。
安永は、1902年(明治35年)福岡生れ、東京美術学校彫刻科卒。
1931年から「構造社」に参加し、さらには齋藤素巌の去った後を受けて「構造社」を切り盛りするようになる。
招集令を受け、39歳で満州に配属、そして敗戦を迎え、シベリア抑留となる。
この辺のことは、西日本新聞に掲載された「ハカタ巷談・美の創造者たち・収容所ぐらし」に詳しく書かれており、こちらのサイトで紹介されています。
シベリアから帰国した時、安永45歳。故郷の福岡に戻り、彫刻家として文化人として活躍されます。
彼にとってベリア抑留がどんな意味を持っていたのか気になるところですが、彼が香月泰男や佐藤忠良のように、「シベリア」を全面に出した作家ではなかったというのは言えるでしょう。
その理由の一つだと思われるのが、蛇を集めて売ったりするような剛毅で強く明るい性格で、影を表に出さなかったからでは。
また、官展系の作家でもあるため、戦後ある程度の地位もあり、「シベリア」を神輿にし、持ち上げる輩もなかったからではないか。
さらに、東京から離れ福岡に戻ったことで、メディアでの扱われかたが東京の作家と異なった、取り上げ方が異なったということも、その理由の一つだと言えるでしょう。
戦争体験は人間の体験であり、各個人の体験であるため、その捉え方は千差万別です。
「シベリア抑留」という体験一つでも、その捉え方表現の仕方、あり方は異なるのだと、心に留めたいですね。
画像は、上が「昭和10年度日本選手権水上競技大会」原型サイズのメダルになります。
下の三人の顔については調べ中。