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2024年7月15日月曜日

復興記念合同彫塑展覧会 絵葉書






1923(大正13)年5月3日から18日まで上野で行われた「復興記念合同彫塑展覧会」の絵葉書です。

前年の9月1日に起きた関東大震災への慰撫を目的に行われた、彫刻の展覧会ですね。
その年に官展が行われなかったことで、彫刻家の大きな収入源も閉ざされたために行ったという面もあるでしょう。
生活が大変な時に芸術なんて後回しになるものですからね~

安藤照「芽」
陽咸二「日高川」
松平栄之助「婉」
長谷川栄作「懐胎」
朝倉文夫「容羞」
この中で、私が紹介したことのない作家は松平栄之助です。
彼は、松平家の分家の人間のようですね。

さて、これらを見て思うのは、いつもの官展の作と変わらない裸婦の像たちってことですね。復興をテーマにしているわけではない。
もちろん、現在のARTのように何かしらのテーマを設けて展覧会をする時代ではないんですよね。
それを行ってくるのは、もう少し後の戦時下での展覧会。いわゆる戦争画の時代。
逆に言えば、戦時下になってこそ「テーマを持った合同展覧会」が生まれるわけです。
言わば「復興記念合同彫塑展覧会 」は、その間を繋げた展覧会であり、社会が戦争の時代へと向かうことを示す展覧会であったと思います。

2024年6月23日日曜日

沼田雅一書簡 竹内久一宛




久しぶりに、がんばってヤフオクで落としました!
竹内久一宛の沼田雅一書簡です。
沼田雅一の父、沼田一珍の書簡に一緒に送られたもののようです。
一珍は元福井藩士。維新後大阪に移って商業を試みて失敗、京都に移り美術商池田清助に陶土を分けて貰って拮りものを作って生計をたてていたそう。

竹内久一は、沼田雅一の彫刻の師であり、正木直彦著『回顧七十年』では、一珍の下で働いていた雅一を、通りがかった竹内久一が見つけ、その才を認めて東京に連れてきたそうです。
ただ、京都に来た海野美盛が見つけたという説もあり、もしかしたらこの書簡でその謎が解けるかも……
https://gacma.geidai.ac.jp/archives/100yh_fas02_084.pdf

とは思ったのですが、この私にゃ古文書はよめません!
解読ソフト使ってみましたが、
「高趣難有相続付心百梅面之気段ニ而雨降絵御同事ニ困却之至ニ御座候益御請通被為在奉恐賀毎事病人御案労之段御懇篤不残不参奉待弥之本日唯今部役為替御手形判金三両之名正難有入掌仕候御懇配之御取扱忝奉存類仕五事追々上有之方ニ候……」と何がなにやら。
真ん中の「本日唯今郵便為替御手形即金三両」云々あたりかな、読めるのは。

郵便の日付からみると明治25年。略歴的には沼田雅一が上京した翌年なんですよ。
そのころに、大阪の実家から奈良の竹内久一に向けて手紙を出してるのですよね。
時系列的にどうなってるの?

2024年2月25日日曜日

大正14年 平野吉兵衛原型「桑田正三翁壽像 石井吉之助胸像」絵葉書

1925(大正14)年に建てられた「桑田正三翁壽像 石井吉之助胸像」の除幕式記念絵葉書です。







桑田正三は、1855(安政2)年生まれ1933(昭和8)年没、明治期の大阪を代表する写真材料店「桑田商会」を営んだ人物で、石井吉之助はその甥にあたります。
彼らは、1904年現在もより現在も続く浪華写真倶楽部の創立者です。
絵葉書には記念碑の全体写真、各人肖像の碑文の写真が載っていますが、倶楽部の写真家たちが撮ったものなのでしょうね。

葉書にある工事概要です。
設計 京都市技師 寺岡謙造氏
様式 近世式ワグネル型
起工 大正14年9月3日
施工 大正14年12月8日
鋳造 青銅製 楕円形 高さ三尺一寸幅二尺四寸
   原型鋳造士 京都 平野吉兵衛氏
碑額 高さ一尺八寸 幅五尺八寸
   鋳工 京都 平野吉兵衛氏
   碑文及び揮毫 大阪 池幸吉氏
鋳造台 花崗石 幅四尺 高さ六尺五寸 厚さ二尺
用材 全部 備中国北木島産 花崗石
施工者 京都 平野吉兵衛氏
外見 幅奥行十三尺 高さ地上十六尺
基礎工事 耐震鉄筋コンクリート 幅四十八尺 奥行二十四尺 深さ十尺
於 大阪市西成区西入船町桑田工場敷地内

設置された場所は、大阪市西成区西入船町桑田工場敷地内。
今では存在しない記念碑ですから、戦時に回収されたのかもしれません。

また、ここにある原型鋳造士平野吉兵衛とは、京都の工芸家です。京都商工会工芸部長であった人物です。関西における鋳造の大家ですね。
東京の彫刻家を使わず、こうした地元の人物を選ぶところに、関西写真家たちのこだわりを感じさせます。石も備中国(岡山あたり)ですし。

「耐震鉄筋コンクリート」ってあたりが関東大震災後って感じがします。
このころから使われた言葉なんですね。

様式にある「近世式ワグネル型」とはゴットフリード・ワグネルの紹介した型式でしょうか?
ワグネルも京都に関わる人物です。
確かに、1924(大正13)年に京都市で開催された東宮殿下御成婚奉祝万国博覧会参加五十年記念博覧会に際し建立された「ワグネル博士顕彰碑」は、この「桑田正三翁壽像 石井吉之助胸像」記念碑と同型です。
https://4travel.jp/dm_shisetsu/11583107
最新の洒落た造形だったのでしょうね。
「ワグネル博士顕彰碑」のレリーフの作家が調べてもわからなかったのですが、もしかしたら平野吉兵衛なのかも?

2024年2月12日月曜日

小倉一利 塑像領布会 会員芳名録 安藤照推薦文

彫刻家小倉一利の塑像領布会会員芳名録になります。
10年前、私がコレクションを始めたころに手に入れ、以来とても大切にしているものです。
その頃のブログでも紹介しましたが、今回再度皆さんにお目にかけたく、引っ張り出してきました。

この芳名録は、昭和7年に書かれたようですね。
彫刻家安藤照による趣旨、次に賛助員、小倉一利の言葉と履歴、そして彼の作品絵葉書が貼ってあります。


それによると、小倉一利は昭和2年に東京美術学校彫塑科卒、朝倉塾生を経て塊人社で研究を重ね、昭和2年第八回帝展に入選、その後も入選を続ける新進気鋭の彫刻家であったようです。
彼についての情報はネット上にはほとんどなく、国会図書館でも茨城出身というくらいしか見つかりません。
また、小倉政二というのがどうやら本名のようですね。
調べて分かるのはここまででした。



小倉一利の履歴で面白いのは、塊人社に参加したことですね。
塊人社は反朝倉文夫派で、安藤照や堀江尚志、松田尚之らが参加しています。
ただ、その後は官展を中心に出品しているので、塊人社からは離れたようですけど。
昭和19年までの消息は追いかけられたのですが、以後はわかりませんでした。
終戦まで生き延びられたのでしょうか?

そして、この芳名録には昭和20年5月、東京大空襲で亡くなった安藤照の直筆文が記されています。


この文章は当時の世相に合わせたものなのでしょうが、興味深いのは「仏教彫刻」という言葉で、日本には西洋に対抗しうる芸術があるという認識。そうしたバックボーンを持ったうえで「彫塑芸術」は黎明の域を脱した新興芸術としてあって、その主流を担おうという希望が書かれている事ですね。
その望みが叶えられず、残念です。


2024年2月4日日曜日

植民地の銅像

1928(昭和3)年、朝鮮の釜山商業会議所に建てられた「大池忠助翁銅像」の銅像です。
作者は上田直次。
明治13年広島生まれ、木彫を山崎朝雲に、塑像を朝倉文夫に学いびます。
昭和11年にはドイツ人フォン・ウエグマンに認められ、独仏に紹介されたりした。晩年は広島県美術展の彫刻部発展に尽力されました。
文化遺産オンライン
広島県立美術館には、上田直次作「杉本五郎像」(1938年)が所蔵されています。

銅像となった「大池忠助」は、安政3年生まれ。明治8年朝鮮釜山にいき、海運・製塩・水産・旅館業などの事業を起こします。
1915年の第12回衆議院議員総選挙で長崎県対馬選挙区から無所属で出馬し当選したが、当選無効訴訟事件の確定に伴い議員を退職しています。
彼は、植民地期の全時期を通じて釜山府協議会協議員、釜山商業会議所会頭、釜山繁栄会会長、官選慶尚南道議員等を務める重鎮であり、その功績を称え、亡くなる2年目の昭和3年に釜山商業会議所前に銅像が建つこととなったのでしょう。

上田直次としては、亡くなる、前になんとか…といった思いがあったかもしれません。
絵葉書には、そんな「大池忠助翁銅像」の除幕式、お披露目の瞬間を撮影されています。
釜山商業会議所が紅白の垂れ幕で飾られ、大勢の人が集まっています。

朝鮮等の植民地に建てられた銅像というのは、やはり民族意識を刺激されるものです。
ですので、当時から同じように残っているものはありません。
この上田直次の作品も、すでに失われているようですね。

そんな植民地の銅像をもう一つ紹介します。

「Rhodes statue, Botanic Gardens, Cape Town 」と題されたこの絵葉書には、南アフリカの鉱物採掘で巨富を得て植民地首相となり、占領地に自分の名(ローデシア)を冠したギリス帝国の植民地政治家「セシル・ジョン・ローズ(Cecil John Rhodes)」の銅像が写されています。
彼は、「神は世界地図がより多くイギリス領に塗られることを望んでおられる。できることなら私は夜空に浮かぶ星さえも併合したい」と著書の中で豪語した人物ですね。

銅像は、1908年にケープタウンのカンパニーズ・ガーデンに建てられました。
現在も、見ることができます。

近年になってローズの人種差別主義への反発の声が南アフリカ及び祖国イギリスで高まり、2015年にはオックスフォード大学にあるローズを顕彰する銘板を校舎の壁から撤去することを決め、銅像についても撤去する意向を明らかにしました。
これに影響を受け、南アフリカ各地にあるローズの銅像や記念碑を撤去しようという動きが広がりつつあるそうです。

何かを公的に顕彰する、記念するという行為そのものが、私たちには難しくなっているのでしょう。
それは良いことだと私は思いますが、公の中でしか生きられないのも私たちであり、混乱はしばらく続くだろうと思います。
撤去工事終わる 群馬・高崎市の朝鮮人追悼碑めぐり県が行政代執行

2024年1月28日日曜日

安永良徳 作「ダナエ」レリーフ再制作?



安永良徳については数回前に書きましたね。
彼のレリーフ作品です。
この作品の素材は石膏。額と作家名が左から記されていることから、戦後の作だと思われます。
ただし、この作品に似た立体を安永良徳は作っています。
それは、1937(昭和12)年に行われた第拾回構造社展覧会において「ダナエ」と題された立体です。

「ダナエ」はギリシャ神話に出てくる女性で、ゼウスとの間に英雄ペルセウスを生みます。
彼女の父アルゴス王アクリシオスに恐れられ、母子ともに箱に閉じ込められて海に流されますが、無事に漂着します。

この作品は、その場面を描いたものでしょうね。つまり、傍らに寄り添う子がペルセウスなのでしょう。
戦前の構造社で好まれた母子像として、この題材を選び、作品としたのだと考えられます。

その造形は、母子の姿を抽象化し、キャラクターの様になっています。
くの字にまがった体に、あり得ない方に伸びていた腕、「構造社」の名前の通り新しい構造を表現することこそを主題とした作品なのでしょう。
それは、当時の最先端表現でありました。

そのような「ダナエ」を戦後にレリーフ化したのでしょうか?
気になるのは、戦前の「ダナエ」と比べると、このレリーフは鏡像のように反転されている事ですね。
どうしてなのでしょう?
反転した作品を参考にレリーフ化したのでしょうか?
謎です。

2024年1月6日土曜日

吉田久継 作 「日本武尊」メダル

 


吉田久継は、1888(明治21)年東京市本郷区に生まれ。
若く10代で高橋楽水に蠟型技術、馬場正寿に彫金、白井雨山彫塑研究所でに彫塑を学びます。
東京美術学校彫刻選科卒、その後に太平洋画会研究所、さらに本郷洋画研究所で岡田三郎助にデッサンを師事。
第7回帝展から審査員となり、東台彫塑会、赤洵社を組織、第一美術協会結成に参加、東土会結成に洋風版画会結成、三部会結成と忙しい作家だったようです。
ハニベ会」にも参加してますしね。
1929(昭和4)年日本には、日本美術学校彫刻部教授となります。
戦後は官展を中心に発表と……
南海難波駅北口に建つ「風朗」は、吉田久継の1953(昭和28)年の作品ですね。

さて、このメダルですが、裏面には日本武尊についての説明だけがあり、制作年代や何のためのメダルなのかの記述がありません。
こういう場合は大体戦後のものって印象なのですが、どうなんでしょう?
モチーフが日本武尊であるから戦意高揚目的で作られたメダルの可能性もありますが。

このメダルに刻まれた日本武尊ですが、日名子や畑正吉の作品に比べ、絵画的ですね。
全体の立体感より細部を細かく描いています。
画家岡田三郎助に師事した作家故でしょうか。


この吉田久継という作家、若きエリート作家だったんですよ。
30才で帝展に入選、その3年後には無審査になってますから。
けど、現在この作家の作品を思い浮かべることのできる人ってどれくらいいるのでしょう?
まとまった展覧会も行われていないのではないでしょうか?
何故でしょう?
地元が東京っていうのも、故郷なくて忘れられたのか。
それとも裸婦像の飽和の中で埋もれられたのか。
けど、吉田久継ほどに裸婦の群像に向き合った作家って少ないと思うのですけどね。

2023年10月22日日曜日

明治37年 清国水師営を描いた絵葉書用の石版


絵葉書の版として作られた石版ですね。
印の様な図には「第三軍 37‐9‐20 水師営」とあり、1904(明治37)年の清国軍の駐屯地を描いたものだと思われます。

版を紙越しに鉛筆で擦って、それを画像反転したのがこちら。
この版で描かれた1904(明治37)年に勃発した日露戦争によって、絵葉書ブームが起きます。
この版の絵葉書も、ご当地の絵葉書として、生の情景を描いた最新ニュースとして物凄い需要があったでしょうね。
ですから、このような多少稚拙な石版でも人気あったと思います。

石版による印刷をリトグラフと言います。水と油の反発作用を利用してインクを乗せていくのですね。材質は石灰石を用います。
けど、どうなんですかね?
この版だけでなく、多色のための別版があったのでしょうか?

また、石板の右端に「乙巳九月十三日 於清国顧家屯 大塚郡六彫刻」とあるので、この石板が制作されたのは、1905(明治38)年だとわかります。
中国の青島市「顧家荘村」において、「大塚郡六」という人物が彫った作品のようです。
「大塚郡六」についてはよくわかりません。

この版を用いた絵葉書が見つかったら、是非声をかけてください!

2023年7月3日月曜日

独逸の彫刻家 Paul Scheurle(ポール・シューエル)「ガイア」絵葉書



1941年、ドイツで開催された「大ドイツ芸術展」。
そこに展示された作品で、彫刻家「Paul Scheurle」による「ガイア」です。
ナチスお抱えの彫刻家、アルノ・ブレーカーは巨大男性像で有名ですが、「Paul Scheurle(ポール・シューエル)」は女性像を多く制作していたようです。

この像のように、ヒットラー好みに理想化されたアーリア人「女性」は、産む性として大地や農作地のイメージと結び付けられます。
その均整とれたスタイルは、ナチスの「正しさ」の象徴するものであったのでしょう。

大地の神、豊穣の女神を想像したとき、例えばオーストリアで発見された土偶「ヴィレンドルフのヴィーナス」のような豊満な女性を想像するのではないでしょうか?
日本人なら、「まんが日本昔ばなし」で椀にペタペタとご飯をよそうお母ちゃんのような。
この「ガイヤ」に見られる女性像ではないでしょう。

ヒットラーの愛したアドルフ・ツィーグラー の「四大元素」の女性像も、筋肉質な労働者、近代的な女性像です。
この女性像が豊穣と結びつくのですね。

この豊穣は近代的な農業生産、または工業生産、大量生産を意味しているのかもしれません。
つまり、豊穣=近代的な生産→近代的な女性像 となるのでしょう。
その結果、「ヴィレンドルフのヴィーナス」が、ポール・シューエルの「ガイア」になるわけですね。

良い悪いは別として、近代化によって肥大化した戦争は、働き生産する女性を生みだしました。
これはドイツだけでなく、アメリカや日本もそうです。
日本では「銃後」と言われますね。

戦争が生みだした近代的な女性像は、それまであった男性に従属し、裸体を魅せる女性の彫刻とは異なるベクトルを生みだした、と私は思っています。
例えば、朝倉文夫や藤井浩祐の女性像と、日名子や清水多嘉示とは、その視線、ベクトルが異なる。
そして、佐藤忠良らに繋がるわけですね。
多様化、多様化と叫ばれる昨今、ここから日本の彫刻はどこに向かったと言えるのでしょうか?



2023年6月19日月曜日

新海竹太郎作 前愛知醫専校・院長熊谷幸之輔氏壽像 銅像除幕式絵葉書





熊谷幸之輔( 1857-1923)は、1881(明治14)年に、愛知医学校の後藤新平校長から一等教諭として名古屋に呼ばれ、その後、愛知医学校や愛知県立医学専門学校などの校長を33年間にわたって務めた人物です。

この銅像除幕式は、1918(大正7)年。
熊谷幸之輔は60才。彼の業績を称え、愛知県立医学専門学校に建立されます。
(本人自身が写っている写真がありますね)
現在は、その胸像のみ、名古屋大学の医学部に安置されています。
それにしても、自分自身の銅像の建立ってどういった気持になるのでしょうね!

作者は新海竹太郎です。
東京文化財研究所には、彼の残した熊谷幸之輔像のガラス乾板があります。
https://www.tobunken.go.jp/materials/sinkai/27991.html
材質はブロンズ、高さは5尺(1.5M)。
銅像に合わせて作られた台座が、かなりお洒落ですね~
これが残っていないのは、本当にモッタイナイ。

2023年4月23日日曜日

直土會 第一回展覧会 建畠大夢 作「陸奥宗光」絵葉書


直土會は、1940(昭和15)年に建畠大夢によって組織された彫刻の会です。
彼は当時、東京美術学校の教授で、この直土會でも多くの後進を導いていたそうです。
しかし、その2年後、1942(昭和17)年に建畠大夢は亡くなります。

この直土會第一回展覧会では、「睦奥宗光」の他、建畠大夢による「井原氏の体」「井原氏の顔」が展示されます。
直土會の実像って、この当時のいくつかの会派と同様、よくわからないところが多くて、こういった絵葉書は貴重ですね~。

さて、この像は、よく見る陸奥宗光の横顔をモデルにされたと思われます。
それほど大きな作品ではないようです。
髭がきっちり鬢付けで固められていますね。
バッファローの角の様な口髭、それと顎鬚なんか、こうはならんだろって形で整えられています。
理想化なんでしょうか?

睦奥宗光は明治30年に亡くなっていますから、建畠大夢の人生と重なる部分はあったでしょう。
ただ、この大事な第一回展覧会で、彼の像を造ったと言うのは何か意味があるように感じますね。
1937(昭和12)には国会議事堂に朝倉文夫作「大隈重信」像、北村西望作「板垣退助」像、建畠大夢作「伊藤博文」像が設置されます。
http://prewar-sculptors.blogspot.com/2013/03/blog-post_9.html
そこで抜けた英雄「睦奥宗光」を造ったのでしょうか?
陸奥宗光って、私にとっては漫画『お〜い!竜馬』の才気あふれる若者ってのイメージなんです。
第一回展覧会という最初の展覧会で、明治を生みだした英雄の像、その中でも先走る才能と変革を生みだした「睦奥宗光」を選んだのかも。
この時代、彼はどんなイメージを与えられていたのでしょうね。

2023年4月17日月曜日

日本家屋と「ロダンの考へる人」絵葉書


日本家屋内にある「ロダンの考へる人」絵葉書です。
この絵葉書からは、いつの頃の何の展示でこの「考へる人」が展示されているかわかりません。
わかるのは、これが戦前の絵葉書で、中サイズ程度の「考へる人」と、壁面にも額に入った作品が展示されているってことですね。

ロダンの「考へる人」が日本で初めて展示されたのは、1920(大正9)年に開催された再興第7回の院展だそうです。
その展示では、彫刻4点と素描66点が展示されたと聞きます。

もし、この絵葉書の展覧会がその頃の院展であるならば、竹之台陳列館で行われたということになりりそうですが、この絵葉書とは違う様な.....
座敷ですものね。
ただ、周りの額縁は、ロダンの素描の様な気もします。
ガラスケースに入った小品も見えますね。

さてさて、真相はなんでしょう?

2023年3月19日日曜日

皇紀二千六百年記念 皇軍慰問 日本民族小学生作品展覧会 絵葉書


「アンデスの高原」秘露國リマ市    インカ学園六年 比嘉秀男


北米加州 ニユウキヤツスル日本語学校七年 大上戸芳枝
布畦ホノルル市 シユドル学園八年 山本道子


「道」南洋・チャランカノア小学校高一 富山正雄
「風景」ブラヂル・コレゴアズール校七年 橋本重磨


「門」廣島市・幟町小学校 尋六 田村稔
「上海スケッチ」上海・西部日本人小学校 尋五 小竹昭人


「皇紀二千六百年記念 皇軍慰問 日本民族小学生作品展覧会」は日本力行会によって計画され、行われた展覧会のようです。

日本力行会は、1897(明治30)年、島貫兵太夫牧師によって創立。北米、中南米、東南アジア、満州などへ約3万人の移住者を送り出したと言います。
この展覧会では、現地の子供たちの絵を集め、皇紀二千六百年記念として展示したのでしょう。

この絵葉書は、久しぶりに嬉しいコレクションになりました!
今までも児童画の軍事郵便なんかを紹介してきました。
https://prewar-sculptors.blogspot.com/2013/04/intermission.html
https://prewar-sculptors.blogspot.com/2013/04/intermission_24.html
https://prewar-sculptors.blogspot.com/2018/04/blog-post.html
今回は、海外の子供たちの絵ですよ。
こういった日本人学校でも児童画教育がなされていたんですね~

お気に入りは、ペルーの「アンデスの高原」
メキシコ壁画運動の作品のようでもあり、アンリ・ルソーの素朴画のようでもあり、どこか諸星大二郎ぽくてイイね。
北川民次よりは全然、良いのではないでしょうか!
どれも作風に国柄が出ているんですよね~

幟町小学校は、
原子爆弾投下により被爆、校舎は全焼しました。
ここが選ばれているのも、なんか不思議。

2023年1月15日日曜日

写真師井谷豊三撮影 海女石膏像

上野仲町の写真館で撮られた海女の石膏像です。
井谷(T.Itani)とあることから、写真師井谷豊三による作品とわかります。
井谷豊三は明治期の写真師で、写真の形状からもその時期の写真と石膏像だと思われます。

西洋の裸婦像を、当時の風俗の中で表現しようとし海女をモチーフとして選んだのでしょう。
作者は4不明ですが、作風から新海竹太郎にも見えますが、どうでしょう?

2022年8月1日月曜日

日本美術院第10回展覧会出品 石井鶴三作「こども」絵葉書

大正12(1923)年に行われた日本美術院第10回展覧会。
そこで展示された石井鶴三作「こども」の絵葉書です。



この絵葉書と一緒にあるのが、新潟県三条市の彫刻家で日本美術院院友の半藤政衛による石井鶴三の略歴等を書いた便箋です。
この文章によると、石井鶴三作「こども」は、大正12年9月1日の関東大震災時に展示され、ほとんどの作品が破壊された中、無事だったそうです。
そして、今回「堀川社長」に譲られることとなり、半藤政衛による略歴と、日本美術院同人松原松造による箱書き、そしてこの絵葉書が合わせて渡されました。

半藤政衛は、石井鶴三に教えを受けた作家のようですね。
三条市にある松尾与十郎銅像
三条市立図書館にある良寛像
道の駅 燕三条地場産センター横にある「創」
こちらが、半藤政衛の公共の場所で見られる作品になります。

日本美術院展と当時の官展。
特に彫刻に於いては、月と太陽というイメージがあります。
院展にはどこか垢抜けなさがあるのですね。
そのイメージを作っているのが平櫛田中や佐藤朝山でなく、私にとっては石井鶴三なんです。
この「こども」もそうなんですが、どこかに「ネクラ」さを感じさせる。
良い悪いでなく、石井鶴三という作家は根元的な貧相さを抱えていると思いませんか?
1938年の「猫」という作品があるのですが、これが威嚇しているガリガリの痩せた猫なんです。朝倉文夫の良いもの食ってそうな猫が描けない。

漫画で言えば、白土三平とかつげ義春とかのガロっぽさがあって、それを半藤政衛の略歴にあるように「内面的な自然観照にもとづ」いた作品と評している。

そういった根元的アングラ作家が東京美術学校で教えていたというのは、面白く思うんです。
戦後日本を蹂躙した抽象彫刻の持つ「ネアカ」さに耐えられなかっただろうな~と。