2017年10月20日金曜日

28日はトークイベント!!

現在、小平市平櫛田中彫刻美術館にて「メダルの魅力展」開催中!
来月の12日までです。
http://denchu-museum.jp
展示されているメダルを掲載したカタログや私の書いた冊子なども置いてあるそうです。
是非、お越しください。

前にお話ししましたように、来週の28日(土)は13時30分より、私のトークイベントが行われます。
現在、色々仕込み中。
と言いますか、つっこまれないように色々勉強中...
気軽にお越しください...ね。

では、皆様に会える日を楽しみにしています!!

2017年10月14日土曜日

近代日本メダル史

明治期から太平洋戦争終結までの間の日本メダルの歴史をまとめてみました。
今後も、この忘却された美術史をさらに深く掘り下げていきたいですね。

年代 出来事
1867年(慶応3年) パリ万国博覧会にて、薩摩藩が日本の代表を称し、フランスのレジオンドヌール勲章を摸した「薩摩琉球国勲章」を制作、ナポレオン3世以下フランス政府高官に贈る。
1869年3月17日(明治2年2月5日) 新政府の太政官中に造幣局が設置される。
1869年(明治2年)7月 彫金家加納夏雄とその門下益田友雄は新1円銀貨貨幣の図案及び見本貨幣を試作する。
1871年10月15日(明治4年9月2日) 政府が賞牌(勲章)制度の審議を立法機関である左院に諮問する。
1873年(明治6年)3月 細川潤次郎、大給恒ら5名を「メダイユ取調御用」掛に任じ勲章に関する資料収集と調査研究に当たる。
1875年(明治8年)4月10日 賞牌欽定の詔を発して賞牌従軍牌制定ノ件(明治8年太政官布告第54号)を公布し勲等と賞牌の制度が定められる。
1875年(明治8年) 有栖川宮幟仁親王以下10名の皇族が叙勲される。
1876年(明治9年) 台湾出兵の功により西郷従道が勲一等に叙された。また同年には、清国との交渉に功のあったアメリカ人のルジャンドルとフランス人のボアソナードが最初の外国人叙勲として勲二等に叙される。
1876年(明治9年)10月12日 正院に賞勲事務局(同年12月に賞勲局と改称)を設置し参議の伊藤博文を初代長官に、大給恒を副長官に任命する。
1876年(明治9年)11月15日 太政官布告により、賞牌は勲章(従軍牌は従軍記章)と改称される(明治9年太政官布告第141号)。
1877年(明治10年)8月 第1回内国勧業博覧会開催。加納夏雄による龍紋章賞牌が制作される。
また、博覧会の第1類其の3として貨幣やメダルが展示される。
1890年(明治23年) 武功抜群の軍人軍属に授与される金鵄勲章(功一級から功七級の功級)が制定される。
1894年(明治27年) 日清戦争勃発。
1902年(明治35年)3月 新海竹太郎が太平洋画会展に「少女浮彫凹型」及び「婦人メダル用原型」を出品する。
1903年(明治36年) フランスから東京美術学校に、メダル作成の為に用いるジャン・ビエー式縮彫機が導入される。
1903年(明治36年) 第五回内国勧業博覧会の名誉賞杯として、海野美盛が縮彫機を用いてメダルを制作する。
1903年(明治36年) 萩原守衛が生活したニューヨークのフェアチャイルド家にて、フェアチャイルドを描いたメダル原型を制作する。
1904年(明治37年) 日露戦争勃発。旅順港のロシア艦隊を日本海軍駆逐艦が奇襲する。
1904年(明治37年) フランスから造幣局にジャン・ビエー式縮彫機が導入される。
1904年(明治37年) 海野美盛が欧米遊学より帰朝する。東京彫工会主催第19回彫刻競技会にて、欧米のメダル原型や各国のメダル標本等を参考出品する。
1910年(明治43年) 造幣局の甲賀宣政、ベルギーにて「万国銭貨学大会」に参加する。
1910年(明治43年) 造幣局にてジャン・ビエー式縮彫機を用いたメダル作成が始まる。
1910年(明治43年) 戸張弧雁が太平洋画研究所彫塑部に入り、メダル原型を制作する。
1911年(明治44年) 大日本体育協会が創立。初代会長として嘉納治五郎が就任。オリンピックや極東選手権大会などに選手を送る。
1913年(大正3年)2月1~6日 マニラにて第一回極東選手権競技大会が行われる。
1915年(大正5年) 高村光太郎による園田孝吉銅像完成。同じく記念メダルを制作する。
1915年(大正4年) 畑正吉が、造幣局の賞勲局技術顧問(嘱託)として記念メダル彫刻を手がける。
1916年(大正6年) 斎藤素巌が英国ロイヤル・アカデミーを修了し、帰朝する。
1918年(大正7年) 日名子実三が東京美術学校を首席で卒業。メダル制作を始める。
1920年(大正9年) ベルギーで開催されたアントワープ五輪にて、熊谷一彌選手がテニスのシングルス・ダブルスともに準優勝し、日本人初の2つの銀メダルを手にする。
1923年(大正12年)9月 関東大震災起きる
1924年(大正13年) 第1回明治神宮競技大会開催。1943年(昭和18年)の14回大会まで行われる。
1926年(大正15年) 齋藤素巌や日名子実三によって構造社が組織される。
1926年(大正15年) 写真雑誌 アサヒカメラ 第1巻発刊。写真コンテスト賞牌メダルの需要が生まれる。
1927年(昭和2年) 「第一回塑像展覧会 構造社」が開催される。以下ほぼ毎年行われる。
1928年(昭和3年) オランダのアムステルダム五輪に出場した織田幹雄選手が陸上男子三段跳で金メダルを獲得する。記録は15m21cm。
1932年(昭和7年) ロサンゼルス五輪の芸術競技大会に日名子実三らが出品。長永治良による版画「虫相撲」が等外佳作として入賞。
1935年(昭和10年) 日名子実三や畑正吉らによって第三部会が組織される。
1936年(昭和11年) ベルリン五輪の芸術競技大会参加。長谷川義起の彫刻「横綱両構」が等外佳作として入賞。
1937年(昭和12年) 日中戦争(支那事変)起きる。
1937年(昭和12年) 学術、芸術上の功績があった者に対し授与される単一級の文化勲章が制定される。
1940年(昭和15年) 予定されていた東京での夏季オリンピックが取止めとなる。
1940年(昭和15年) 第三部会が国風彫塑会と改称される。
1941年(昭和16年) 太平洋戦争(大東亜戦争)始まる。
1945年(昭和20年)4月25日 日名子実三、脳出血により死去する。
1945年(昭和20年) 終戦。 

2017年10月8日日曜日

藤井浩佑作「第14回全国選抜中等学校野球大会」バックル

藤井浩佑による「第14回全国選抜中等学校野球大会」バックルです。
現在ある春の選抜高校野球大会にあたる大会で、第14回の皇紀2597(昭和12)年に行われた本大会では、大阪の浪華商(現在の大阪体育大学浪商高等学校)が優勝しました。

このバックルは、その大会の記念品として制作されたものだと思われます。


作家の藤井浩佑はこのバックルと同じモチーフで夏の高校野球大会のメダルや、幾つかの立体の彫刻を制作しています。
よほど気に入ったモチーフだったのでしょうか。

ただ、野球をやったことのある方ならアレッ?って思うかもしれません。
いや、逆に違和感抱かないかな?

というのも、このモチーフの選手は、左手を右手の上でバットを握り、右足を前に大きく踏み出しています。
つまり、これは左打席に入った左打者が、振り抜いた時の姿なんですね。
下の動画を見ていただければよくわかると思います。

では、なぜ藤井浩佑はわざわざこの姿を選んだのでしょう?
「オレは野球に詳しいぜぇ~!ニワカとはとは違うんだぜぇ~」というマウンティングだったのでしょうか?
または、当時有名な左打者があったのかもしれません。
例えば、この大会の3年前、昭和9年にベーブ・ルースが来日し試合をしています。
この姿に影響を受けたのでしょうか?

動画はベーブ・ルースの打撃フォーム
さて、真実はどうでしょう?

2017年10月1日日曜日

Intermission 式場隆三郎「狂人の真似とて大路を走らば狂人なり」


式場隆三郎の色紙です。
狂人の真似とて大路を走らば狂人なり

これは、吉田兼好の「徒然草」に出てくる言葉です。
『人の心すなほならねば、偽りなきにしもあらず。されども、おのづから、正直の人、などかなからん。
己れすなほならねど、人の賢を見て羨むは、尋常なり。至りて愚かなる人は、たまたま賢なる人を見て、これを憎む。
大きなる利を得んがために、少しきの利を受けず、偽り飾りて名を立てんとすと謗る。
己れが心に違へるによりてこの嘲りをなすにて知りぬこの人は、下愚の性移るべからず、偽りて小利をも辞すべからず、仮りにも賢を学ぶべからず。
狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。
驥を学ぶは驥の類ひ、舜を学ぶは舜の徒なり。偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。』

この一節は、儒教の思想を説いたものだと考えられます。
儒教では、天子と同じように行動し、同じように振舞えば、それは天子だとする考えがあります。人間の内面(何を信じ、考えているか)より、その表出たる行動を重んじる思想です。
「舜を学ぶは舜の徒なり」つまり、ある信仰や思想を志向する者は、すでにその信仰下にある。故にそう振舞うことが重要だと説いています。
これを強調するための「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり」なのです。

しかし、式場隆三郎は「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり」の部分だけを抜き出しています。
これでは「徒然草」の意図が伝わりません。まったく反対の意味になってしまします。
なぜ、彼はこのような事をしたのでしょうか?

もしかしたら、ただ『なんだかわからないけど、「狂人」という言葉が出てくるしカッコイイ!!」といった安易な意図だったかもしれません。それもまた式場隆三郎らしい。
もう少し優しい目で見れば、「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり」を抜き出すことで「徒然草」とは異なる意図を示したいのではないのかとも思えます。

この言葉を抜き出した事、それはつまりこの言葉に価値があると式場隆三郎が考えたと想像できます。
彼は、「狂人の真似をする者は、狂人になりえる」と言った意味でこの文章を訳し、「狂人」に価値を見出し、「狂人」になることを推奨しているのだと言えます。

ゴッホに魅了され、ゴッホが狂人であることに価値があると考えていた(戦前の)式場隆三郎にとって、そういった思想を表す言葉だったわけです。
その思想を強調したいがために、「徒然草」の意図を反転させたのです。

しかし、「狂人」になることと、ゴッホのように狂人であったこととは違います。
あえて「狂人」であろうとする思想、私はその思想の根元に、仏教があるのではないかと考えています。
例えば一休禅師や良寛さんにみられるような狂気。
仏教には一般常識に反する思想があります。世俗から出家し、その全てを否定(実際には空と)する態度を取る仏教には、そういった狂気が含まれています。
親鸞上人の悪人正機「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」もまた、そういった狂気の面があると思います。

仏教は悟りを目指す信仰であり、そのための修行を行っているわけですが、そういった修行を行わないで悟っている者を「縁覚」または「独覚」と言います。
維摩経で語られる維摩居士が有名で『文殊が「どうしたら仏道を成ずることができるか」と問うと、維摩は「非道(貪・瞋・痴から発する仏道に背くこと)を行ぜよ」と答えた。』と言います。
維摩居士はまさに「狂人」として描かれ、ここに「狂人」であろうとする思想の一角を見ることができると思います。

こういった「縁覚」を示す物語で、日本人に好まれたのは「寒山拾得」の二人です。
寒山と拾得は、中国江蘇省蘇州市楓橋鎮にある臨済宗の寺・寒山寺に伝わる風狂の僧です。
この二人の絵画は多く描かれ、特に曽我簫白や長河鍋暁斎による図が有名です。
また、森鴎外や井伏鱒二がその物語を描いています。
これらについては、松岡正剛さんの書評での紹介が一番わかりやすいので、リンクを張らせていただきます。

コレクションより-加納鉄哉画「寒山拾得」図

なぜ「寒山拾得」が好まれたのか。
それはこの二人の笑いという狂気に、一般常識や世間の壁を打ち破る力があり、それを託したからだと思います。
価値観をひっくり返す、新しい価値を生み出す力、その象徴として「狂人」である「寒山拾得」が用いられたのでしょう。

そう、こうして戦前まで好まれてあった「寒山拾得」の姿を見てみれば、式場隆三郎は、現代の「寒山拾得」として山下清を担ぎ出したのだとわかります。
式場は山下の絵の「狂気」に「価値観をひっくり返す、新しい価値を生み出す力」を見出したのですね。
そして、そういった「縁覚」として彼をプロデュースした。

しかし、戦時には、お国のための労働力として、戦後には「障がい者」への養護のあり方や人権、ヒューマニズムから、こういった「狂人」のあり方は否定されます。
アール・ブリュットについても、以前に書いたように、いくつかの価値観で引き裂かれているように思います。
http://prewar-sculptors.blogspot.jp/2017/02/blog-post_28.html

その結果、戦後に「寒山拾得」が描かれなくなってしまったのですね。
そして、式場の意図した「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり」の言葉もまた、禁止用語となってしまったのでしょう。
つまり、戦前の式場隆三郎の「狂気」の扱いこそが、アール・ブリュットではないが、アートではあったと言えるかのもしれません。