前回の「歩兵第三連隊戦跡記念碑」を設計した須藤徳久は、どうやら東京美術学校彫刻科卒の人物のようです。帝展に入選までしているのですが、その後はどうなったのでしょう?もしかしたら兵隊として出兵されたのでしょうか?気になります。
このように、当時の忠霊塔を含むモニュメントは、彫刻家の仕事でもあったのですね。
「構造社」の作家や、戦時下の多くの作家たちは、モニュメントにたいし(実現できたかどうかは別として)強く関心を示しました。
https://prewar-sculptors.blogspot.com/2012/11/blog-post_5.html
ここで気になるのは、なぜ当時の忠霊塔が記念碑と同じ形をしているのか?です。
双方共に高く細く聳え立つ立方体であるのはなぜでしょう?
記念碑がそういった形なのはわかります。
当時の海外のモニュメントがそういった形であったため、モニュメントという概念を輸入した当時に於いて、その形も取り入れられたのだと思います。
しかし、忠霊塔は、そういった記念碑とは用途が異なります。
下の図に示すように、納骨室があるなど死者にたいする信仰と結びついた構造物です。
日本の信仰を表す構造物が、なぜ西洋のモニュメントの形態であるのでしょうか?
忠霊塔は、もともとあった忠魂碑の延長上にあると考えられています。
つまり、それ以前からあった石碑の一つなんですね。
石碑を建てる文化は、日本古来の信仰の形としてある巨石信仰の名残だと思われます。
現在でも、奈良の三輪山では、巨石を奉った場所があるそうです。
このような忠魂碑では、形状に於いて記念碑と変わりがありませんでした。
次にこの忠魂碑は、立方体の石の柱に文字を刻んだ慰霊標(記念標)に移り変わります。
慰霊標は、霊標や卒塔婆をより大きくしたものと言えばよいのでしょうか。石碑にあった自然の形状ではなく、より抽象化し、イメージのみで取捨されたモノでした。
ここで、抽象化された形態を持つ西洋のモニュメントと日本の信仰(慰霊標)が重なります。
石碑では、記念碑と忠魂碑が同じものでったため、記念碑(モニュメント)と慰霊標もまた同じものと考えられたと思われます。
さらに、慰霊標は忠霊塔となって、よりモニュメントに近づいたということだと思います。
忠霊塔は日名子の「八紘之基柱」が国家神道の影響下で出来たように、神道の影響が強く見られます。
「八紘之基柱」の「柱」とは神道の神を数え方であり、古来から「柱」は依代として用いられてきました。
忠霊塔は、日本の信仰心を表す形状でありながらも西洋のモニュメントと重なるというハイブリットになり、それを当時の日本人は特に違和感なく、忠霊塔=モニュメントを受け入れたわけです。
ここで、不思議に思うことがあります。
忠霊塔は国家によって全国の市町村に建立を求められたわけですが、それはミニ靖国神社として、靖国神社を頂点とするヒエラルキーに収めるためのシンボルとして設置ました。
しかし、その靖国神社のシンボル、参拝対象は「柱」ではありません。
大村益次郎の像はありますが、信仰対象ではありません。参拝者は社殿で参拝するだけです。
仏教に於いても、仏舎利のような塔はありますが、日本では特に信仰対象ではありません。
つまり、神道でも仏教でも塔に対する信仰が強くあるわけではないのですよね。
神道、仏教共に、垂直への信仰上の志向は、あまりないように感じます。神道で天孫降臨や仏教での西方浄土より迎えに来る阿弥陀の信仰等ありますが、実際に空を見上げて祈ることは行いません。
忠霊塔は、そういった体系化された信仰ではなく、墓や位牌などといった市井の信仰の形に沿ったものなのだと思います。
そういった市井の信仰ゆえに、西洋のモニュメントと結びつくことができたのかもしれません。
こう考えた時、忠霊塔は、西洋のモニュメントという「美術」が日本に本地垂迹したモノと言えます。
私たちの信仰という「心」に西洋の美術が馴染んでいったと言うのでしょうか。
忠霊塔は、戦争と言う国家主導によって生まれたモノですが、それでも、日本に於ける「美術」の一つだったのだと思います。