2017年11月25日土曜日

Intermission 来年は明治150年!

来年2018年は明治150年にあたり、国を上げて関連イベントが行われるようです。

明治時期の作品の展覧会も多く開かれることだと思われます。
例えば、昨今流行の明治の超絶技巧、自在置物や牙彫、生人形。
これら以外のワードを上げれば、海外のモニュメント(銅像)との出会い、ラグーザとその教え子、彫塑の輸入、骨董輸出、廃仏毀釈、天心の仏像修理、高村光雲、石川光明...
こういったテーマでの展示がなされるのでしょうね。

しかし、これらは明治初期、文明開化時期のお話しなんですね。
そこで、私が上げてみたいテーマは明治後期、題して『知って!明治40年代の彫刻』展です。

明治40年は、高村光雲の息子、光太郎が欧州に渡り、帰国して「緑の太陽」を謳った時期になり、文明開化世代から交代が行われ、新しい世代が台頭します。

そして、特権階級ではない市井の日本人、美術家が海外へ渡りだした時代です。
例えば、明治41(1908)年に帰国した荻原守衛。
明治40(1907)年から43年にかけて農商務省海外実業練習生として渡仏した畑正吉。http://www.tobunken.go.jp/materials/hatapict

それから、当時の欧州で活躍した漆芸家、菅原精造。

明治40年に、日本人で初めてサロン出品を果たし、同年巴里で亡くなった本保義太郎。

少し時代が早いですが、明治36年に渡欧し、国立セーヴル陶磁器製作所に入所、明治43年 仏国政府より「アカデミー・ドゥ・オフィシヱ」勲章授与した沼田一雅。

こうした明治40年代渡欧組作家たちは、荻原守衛や光太郎のみ目立っているだけで、特に欧州を仕事の舞台と選んだ作家たちは、殆ど知られていないのではないでしょうか?

当時の日本の彫刻界がある程度層が広くなったことで、朝倉文夫や北村西望のような非留学組が政治力をつけてきます。
黒田清輝のような藩閥とは異なる作家達が、官展を舞台に台頭してきたわけです。
その結果、渡欧組作家が陰に隠れてしまったのでしょう。
また、渡欧組作家たちが当時まだ若かったことも理由かもしれません。

そこで、『知って!明治40年代の彫刻』展では、これら明治40年の渡欧組作家たちの当時の作品を展示したい!
渡欧による彼らだけでない、日本への影響を、そして欧米への影響を、更に若い彼らの時代的な繋がりを、その作品たちで現すわけです。

しかし!そこで一番問題となるのは、彼ら渡欧組作家たちの当時の作品の殆どが残っていないことなんですよね...
発掘..したいです...

メダルの魅力

小平市の平櫛田中彫刻美術館で行われていました「メダルの魅力」展、先週無事終わりまして、展示作品が戻ってきました。
コレクションをご観覧頂いた皆様、誠にありがとうございます。
関係者の皆様、色々ご迷惑をお掛けいたしました。
厚く御礼申し上げます。

今回の展示では、恥ずかしながら私の稚拙な文章を配布させて頂きまして、ご覧なられた方もあるかと思います。
この私にとっての「メダルの魅力」をまとめた文章を以下に記し、記録に残しておきたいと思います。

『-メダルの魅力に就いて- 

 メダルに刻まれた近代彫刻家たちの作品、これを「芸術だっ!」と声高に言う人ってあまり見かけません。メダルなんて物は記念品で複製品で、言うなれば旅行先で買ったお土産みたいなもので、ギャラリーや骨董屋で高いお金を出して買うものでもなく、わざわざ美術館で鑑賞するものでもなく、あくまでメダルを授与された個人の思い出の品でしかないわけです。
 茶道具などに対し「用の美」といった美意識もありますが、そういった美意識でメダルを見てみても、顕彰や記念と言った抽象的な使用しかできないメダルは、時折手にとっては思い出に耽るだけで、箪笥の奥に大事にしまい込まれてしまいます。その所有者が亡くなった時に「あら、お爺ちゃんたらっ、こんなもの大事にしてたわよ」なんていって出てきたメダルは、遺族にはどうでも良いものなので、捨てられるか古道具屋で売られるか、ネットオークションで格安で出されるかして、誰もそれが芸術だとは思いません。個々人にとっては大切なメダルも、ことさら「芸術」である必要などないわけです。かく言う私も、それはそれで良いのではなんて思いもするのですが、それでもメダルの持つ魅力を少しでも伝えたいなどと思い「芸術だっ!」なんて小声で言ってみるのです。

 メダルの美という物はなかなか人に伝わりづらい。どうも私たちはこういったメディアの芸術を自身で評価しづらくしているようです。その理由はいくつかあると思うのですが、その一つは、メダルに用いられる浮彫りという形態にあるのでと思っています。
 わが国において、浮彫りというのは何故か評価が低いようです。例えば古今東西の彫刻展において、浮彫りをメインにした、または浮彫りのみの展示ってあったでしょうか?彫刻家の代表作に浮彫りが挙げられるってことはあるでしょうか?思うに、立体美術としての彫刻、平面美術としての絵画、その中間と見られる浮彫りは、高度な技術が必要ながらも「芸術至上主義」的な視点から蝙蝠のように曖昧なものとして一段低く扱われてきたのではないかと感じます。さらに、そんな浮彫りと建築とは一緒に商業デザインとして用いられ、それ故更に「芸術至上主義」から嫌われます。

 次の思うのは、商業デザインであるメダルは、複製技術による芸術であるという点です。同じ複製芸術でも版画はそれだけで独立した芸術の分野であり、エディションを付けコントロールされます。しかしメダルはあくまで顕彰や記念を目的とした物です。その必要に応じて複製、販売される物であって、彫刻の二次使用だと考えれます。よく考えれば、原型から石膏型を取って制作される彫塑も、全て複製芸術であると言えるのですが、この「二次使用」と言う点で一線が引かれるのです。
 しかしながら、それを手にとって見れば、その当時の若い彫刻家たちの生き生きとした仕事っぷりや生きてきた時代を感じることができます。メダルに込められた美意識に思いを馳せ、そして今、それを美しいと感じることができるのです。

 まずは、私自身がどうしてメダルの美に取り憑かれたのかをお話します。馴れ初めですね。私自身、若い頃は彫刻家を目指していました。と言ってもコンテンポラリー・アートにとって「彫刻家」なんて死語でしかないのですが。
そんな仕事をしながら名古屋の老舗ギャラリーに勉強がてらバイトをしていまして、そこで熟年彫刻家達(彫刻家にとって四十~五十代は若手です。)のお話を多く聞く機会に恵まれます。そんな話から、彼らの若い頃に影響を受けた作品や作家、「もの派」や「アンフォルメル」、「読売アンデパンダン」等々を知り、そこから自身の彫刻観がどうやって培われてきたものかを知りたくなり、日本近代彫刻史に興味を抱き始めます。

 まずはと、日本美術史の本をぺらぺらめくってみれば、ふむふむ明治9年にヴィンチェンツォ・ラグーザが明治政府に招かれ工部美術学校でお雇い外国人教師として教鞭をとる…と、工部美術学校が廃校後は、岡倉天心によって高村光雲らが東京美術学校にて教え、また明治40年には官展である文部省美術展覧会が開かれ、美校出の朝倉文夫や北村西望らが活躍する。また在野では日本美術院の平櫛田中ら、二科展の藤川勇造らによって推進され、更に明治41年に帰朝した荻原碌山や高村光太郎がもたらしたロダニズムは、日本彫刻界に大きな影響を与え、戦後に活躍する本郷新や佐藤忠良らを生んだ…。
 あれっ?これだけ?日本近代彫刻史ってこれだけなの?そんなことを思いました。

 しかし昨今、そんな彫刻史では語られなかった当時の作家と作品の展覧会が少しずつですが行われてくるようになりました。中でも平成17年に宇都宮美術館等で行われた「構造社展 昭和初期彫刻の鬼才たち」は、美術史の中でほとんど語られることの無かった大正から昭和初期までの若い彫刻家達の仕事をつぶさに示し、私の近代彫刻史観を変えたとも言える展覧会でした。「構造社」は1926(大正15)年に齋藤素巌や日名子実三らによって結成、「彫刻の実際化」を標榜し、当時市井の社会からかけ離れてしまった純美術としての彫刻との結びつけを目指します。特に建築と彫刻の融合を「綜合試作」として各展覧会で発表、またメダルやレリーフなどを「雑の部」とし、多くの研究を行います。参加した作家には、先に上げた齋藤と日名子の他に、陽咸二や荻島安二、後藤清一、寺畑助之丞、中牟田三治郎らがいます。齋藤素巌は欧州帰りで日本彫刻界の一匹狼。師である朝倉文夫に反旗を翻した日名子実三。日本彫刻界を縦横無尽にひた走り、展示拒否をも食らった陽咸二に、近代日本マネキンの創始者である荻島安二と、一癖も二癖もある作家による「構造社」が面白くないわけがない。
 そのカタログにはそんな構造社作家が原型を作製したメダルが載っていまして、私にとってこれが近代彫刻家によるメダルとのファースト・コンタクトであり、初めて体験する彫刻世界でした。

 メダルをメディアにした彫刻家たちの作品は、商業と芸術という「芸術至上主義」にとって矛盾する二つを繋げるものでありながらも、彫刻家の息吹が感じられるような生き生きとした作品に感じました。私はこのメダルという作品を、彼らの立体作品以上に面白く感じられたのです。では、そんな私が自身のコレクションを見る時、どうしているのかをお話します。

 メダルの美は他のメディアと異なり、三つの要素が絡み合ってあると考えています。そこで一つのメダルを例にとり、その魅力をお伝えしたいと思います。
 例とするのは1933(昭和8)年に行われた第七回明治神宮体育大会の参加記念章です。

 まず一つ目の要素として上げるのは、メダルが用いられたイベントの歴史性です。何を顕彰または記念する為に作られたメダルであったか。例に挙げた「明治神宮体育大会」は、当時に於けるスポーツの最大の祭典でありました。スポーツは、明治維新後、彫塑がそうであるように西洋から輸入されたばかりの最先端の文化でした。

 明治維新によって、日本に多くの西洋文化が流入します。西洋先進国と同等となるために、国家規模での文化改革が行われました。スポーツもそういった文化の一つであり、水泳やマラソン、登山などが、一般市民に浸透していきます。1911(明治44)年には日本で初めて国内選考会が開催され、短距離の三島弥彦と、マラソンの金栗四三の二人が日本代表としてストックホルム大会(1912年5月5日~7月27日)に参加します。また1913年(大正2年)からの極東選手権競技大会への参加をはじめ、国際大会への積極的な参加を行っていきました。
 国内においては、1903(明治36)年には早稲田と慶応両校の野球大会、いわゆる早慶戦が行われ、社会の関心を集めるようになります。野球だけでなく、水泳やマラソンなど、アマチュア競技団体や新聞社などの主催する多くの競技大会が行われるようになります。1920(大正9)年には東京箱根間往復大学駅伝競走の前身となる大会が行われ、また現在の国民体育大会の前身となる明治神宮競技大会が、1924(大正13)年から1943年にかけ十四回にわたって行われます。陸上競技やサッカー、ラグビー、水泳に、戦時下の明治神宮国民練成大会では、銃剣道や行軍訓練まで行われます。そして、こういったイベントにメダルが用いられるようになります。その原型を依頼され制作したのが当代の彫刻家たちでした。
 メダルだけでなく、スポーツそのものを題材とした彫刻も多く作製されるようになります。当時のオリンピックには、芸術競技という美術作品の優越を競う種目があり、前述した1912年のストックホルム大会から1948年のロンドンオリンピックまで計七回行われます。日本の彫刻作品での参加は、1932年(昭和7年)ロサンゼルス大会で、「日本オリムピツク美術委員会」には、池田勇八や豊田勝秋、高村豊周、藤井浩祐、藤川勇造、齋藤素巌らが彫刻家として参加、「本邦美術の枠を国際場裡に展観して大いに日本文化を宣揚せんとした」ことを目的にオリンピック参加を表明します。出品作家は、池田勇八、藤井浩祐、北村西望、日名子実三、濱田三郎、長谷川義起、宮島久七、武井直也、川崎栄一らでした。
 しかし、これら彫刻家の作品の海外での評価は低く、有島生馬は「全落の醜態を演じた」とコメントを残します。続くベルリン大会でも出品作家はほぼ前回と同じ顔ぶれで、ただし、結果としてこの大会ではドイツを含む枢軸国に多く受賞がなされ、日本も三等賞を二つ、彫刻では長谷川義起の「横綱両構」が等外佳作となりました。

 現在でもフィギュアスケートやシンクロナイズド・スイミングに芸術点と言われる良くわからない採点がありますが、当時はよりスポーツと芸術とが近い関係にありました。それを伝えるのが彫刻家によるメダルなんですね。また、スポーツ以外では明治維新後に西洋からもたらされた文化として写真技術があります。アサヒカメラのコンテストなどによって素人写真家の裾野が広がり、そこで行われた写真コンテストの賞牌としても、多くの個性的なメダルが作られます。

 さて、二つ目の要素は、このメダルの原型を制作した彫刻家の魅力です。その彫刻家の名前は日名子実三。彼は先に述べたように朝倉文夫の下で学び、東京東京美術学校を首席で卒業後、1919(大正8)年には「晩春」が帝国美術院展覧会に入選する等、若くして頭角を現します。1923(大正12)年に起きた関東大震災を経験したことで芸術の社会的な働きかけの必要を痛感し、齋藤素巌と共に「構造社」を立ち上げます。
 しかし、時代が戦争に向かう中で、社会との結びつきを求めた日名子は、次第に戦争彫刻家としての名を成して行きます。代表作は現在も宮崎県に建つ「平和の塔」もとい「八紘之基柱(あめつちのもとはしら)」です。(この塔は戦後「平和の塔」に改称され、また正面にあった秩父宮雍仁親王の揮毫「八紘一宇」も撤去、ロッククライミングの練習場代わりに使われるほど荒廃しますが、現在は当時の状態に戻されています。)また、戦時下のメダルも数多く制作します。特に有名なメダルが、「支那事変従軍記章」で、正面に二足の八咫烏(やたがらす)が描かれています。
 日名子は、終戦の年の1945(昭和20)年4月に脳出血により死去、戦後を見ることなく亡くなります。その為か、同じく戦争美術作家の代名詞とった藤田嗣治と異なり戦争責任の糾弾も受けず、戦後は忘れ去られた作家となります。
 日名子実三は都会的で近代的な自我を持つモガ、そして労働者を描きます。その一方で神話の神の姿をリアルに描きます。優雅なモダンとその延長上にあった全体主義的な国威発揚。その二つが組み合わされたまさに日本の近代史を語っているような作風です。ヒットラーを生んだワイマール憲法が当時に於いて最新鋭の憲法だったように、かつてモダンは全体主義の兄弟、または表裏の関係にありました。そう、彼はこの時代を写す鏡のような彫刻家だったと言えるでしょう。

 三つ目の要素は、メダルに描かれたモチーフの魅力です。この第七回明治神宮体育大会の参加記念章で描かれた像は、第十三代出雲國造(出雲の国の統治者)であり、またの名を襲髄命(かねすねのみこと)こと「野見宿禰(のみのすくね)」でした。垂仁(すいにん)天皇の時代、当麻蹶速(たいまのけはや)と野見宿禰による御前相撲が執り行われ、勝った野見宿禰は朝廷へ仕えます。この故事より「野見宿禰」は相撲の神として祭られるようになります。明治神宮体育大会では相撲も競技の一つであり、また神事としてのスポーツといった見方から、このモチーフが選ばれたのだと考えられます。

 肉感的なその像は、仏像のような形式から離れたリアリズムを持って神の姿を写し取り、蹲踞をする両足は地に根が張っているようです。同時代のナチス政権下の男性彫刻像がどこか三島由紀夫的なエロチシズムが感じられるのに比べ、「野見宿禰」像は労働者の肉体のように愚直な男の美の姿を描いたものだと言えるでしょう。髪は角髪(みずら)で、中央で二つに分けて、耳の横でそれぞれ括って垂らします。この姿は幕末まで少年の髪型としてありましたが、出土した埴輪の形から古来に用いられた髪形であることがわかっています。そういった考古学的な情報が昭和初期には共有してあったのでしょう。このメダルの「野見宿禰」像は、江戸時代後期から明治時代に刊行された伝記集「前賢故實(ぜんけんこじつ)」に描かれた姿をベースに、考古学的な情報を加え、作られた姿だと言えそうです。
 ちなみに江戸時代の浮世絵に描かれるような神の姿は、ほとんど武者絵でした。神主が鎧と着物を着ているような姿です。それ以降は、例えば1890(明治23)年 に制作された竹内久一による巨大な木彫「神武天皇立像」は明治天皇の姿を基にし、原田直次郎が1896(明治29)年に油彩で描いた「騎龍観音」では欧州の宗教を参考に観音が描かれます。また、1907(明治40)年の東京勧業博覧会に出品された中村不折の絵画「建国刱業」は、猿から人へ進化の途中であるような古代の人の姿で神を描き、「我が皇室の尊厳を冒涜する恐れあり、又秩序を紊乱する嫌ある」と九鬼隆一に非難されるような出来事もありました。このように歴史を積み上げながら、誰も見たことの無い「神」の姿が日本人の共有するイメージとして成り立っていきます。
 しかし、元来日本人は神の姿を描くことを禁忌(あるいは思いもしなかった。)としてきました。仏教以前に神の姿を描くことは無く、仏教伝来以降に仏像の影響と、本地垂迹による神と仏の融合によって神の姿が描かれるようになります。明治維新後、国家神道はオラが村の神さんを神道の体系の中に組み込み、日本の神の物語を共有させます。それに伴い、人々は神の姿をビジュアルとして希求するようになっていったのでしょう。そういう需要と、日名子の彫刻観が重なり、神をリアルな筋肉男として描くことになったと思われます。

 また、「野見宿禰」は墓陵での殉葬を取り止め、代わって埴輪を納めるたことから、彫刻としての像(埴輪)の創始者と考えられ、彫刻の神ともされました。日名子は野見宿禰が埴輪を持つ姿を描いたメダルも制作しています。彫刻家であった日名子にとって野見宿禰は特別な神であったと思われます。その姿をスポーツの祭典であった明治神宮体育大会に用いたいと考えたのでしょう。このメダルの背景には明治神宮が描かれています。明治神宮の前で蹲踞を行う姿、それがまさにこの大会のスポーツが神事であることを強調しています。日名子実三はそういった想いをこのメダルに込めたのでしょう。

 これまで述べた様に、歴史性、作家性、そしてモチーフの三つの要素がメダルを魅力的にさせます。これは純粋芸術としての彫刻とは異なり、彫刻家の目を通してダイレクトに社会と人と、その歴史に繋がります。メダルを手に取ったとき、その繋がりを一瞬で感じることができるわけです。
 ただし、注意したいのは、これらメダルの時代と言える明治後半から昭和の初期にかけては、戦争の時代であったことです。私はメダルの魅力を「生き生き」しているからだと述べました。この「生き生き」は戦争の時代の産物だとも言えるのです。日中戦争が始まる頃には、大正時代にあった退廃美が影を潜め、当時の言う「健康」美が推奨されます。その中で、高村光太郎が詠ったような、朝倉文夫が著書で述べたような戦争賛美が語られ、そしてその表現は「生き生き」しているのです。
 戦争画(戦争記録画)に対して画家が自主的にのめり込んで行った様に、人はこの時代をよき事と考え、自らの立場の中でそれを表現していきます。私はそれを断罪するつもりはありません。高みからそれを評価するつもりもありません。ただ私が美しいと思うものには、そういった影があることを忘れてはならないと思っています。そして、私たちの同胞が経験した「生き生き」した時代の表現を、これからを生きる人たちの糧となることを願います。』

2017年11月19日日曜日

水連四十年史より、日名子実三の矛

先日、地元で行われましたイベント、マーケット日和に出店し、私の古本のコレクションを一部販売しました。
当日は、かなりの人出で、娘と共に楽しい一日を過ごしました。

売ってばっかりでは寂しいので、私も購入したのがこの「水連四十年史」。
100円で購入しましたが、売主は手放したくなさそうでした!

大正13年に創立した日本水泳連盟の歴史が書かれた本です。
その冒頭に、水連のシンボルマークの説明が書かれていました。
『日本水連のマークは昭和6年、第1回日米水上が神宮プールで開かれ、各種目に一流彫刻家の手になる優勝トロフィを出し、4百リレーのは日名子実三のネプチューンのホコであった。(写真)そのホコの先端の形を水の文字に図案化し。この年から公式マークとして使用しだした、』
とあります。
水連のシンボルマークは、日名子の作品をモチーフに作られたのですね。

ただ、日名子がデザインしたサッカーJFAの八咫烏は現在も使用されているのですが、現在の水連のマークはこの形ではありません。
少し、残念。

ちなみに第一回日米対抗水上競技大会は、日名子のメダルも使用されています。
また、そのネプチューンとホコをモチーフとした早慶対抗水上競技大会のメダルもあります。

上記の記事にあるように、第一回日米対抗水上競技大会の各種目のトロフィ制作に彫刻家が参加したことに興味がわきます。
どんな作家が参加し、どんな作品を作ったのでしょう?

2017年11月13日月曜日

荒谷芳雄作「古墳時代」絵葉書

とても奇妙な作品です。
埴輪を模した女性像とでも言うのでしょうか?

作家は荒谷芳雄。作品名は「古墳時代」で、1929(昭和4)年に行われました帝国美術院第十回美術展覧会での出品作です。

これまで高村光太郎らの「埴輪の美」や後藤清一の作品などで埴輪について語ってきましたが、この作品はまた毛色が違います。
http://prewar-sculptors.blogspot.jp/2013/02/blog-post.html

戦前、埴輪の美が取り上げられたのは、それがモダニズムと結び付けられたからでした。
http://prewar-sculptors.blogspot.jp/2016/03/intermission_21.html

しかし、この「古墳時代」は、もっとプリミティブなものとして埴輪を考えているように思えます。
南洋文化の彫刻や黒人彫刻への評価と繋がっているようです。

この作品は、埴輪の形状を維持しながらも人体構造を抽象化して表し、くねって動きを与えています。
現在の私たちから見れば土偶に類似を感じます。

また、埴輪ではあまり無い女性像としたのは、こういったプリミティブ彫刻の影響なんでしょうか。それとも帝展という裸婦の乱立する展示に合わせてでしょうか。
サイズも気になります。焼き物の様ですが、どのくらいのサイズを焼き上げたのでしょう?大型の作品が入選した帝展ですから、実際の人のサイズ程はあったのかもしれません。

作者については、上野製作所標本部技師で、博物館の展示物を作る本職だったようですが、詳しい事は不明です。
まったく奇妙な作品で、現存しているのらなら是非拝んでみたい!

2017年11月12日日曜日

日名子実三 作 主婦之友社「軍人援護会長賞」楯 

久しぶりに日名子の楯を手に入れました。
財団法人 文化事業報国会 主婦之友社による「軍人援護会長賞、建気なほまれの会表彰」です。

この記念楯には年号がありませんが、財団法人 文化事業報国会の成立が昭和16年なので、そこから昭和20年までの4年間に使用された物だ推測します。

左上に日名子実三の銘があります。
描かれたのは、楠正成楠の嫡男、楠木正行(くすのき まさつら)。
楠木正行は、四條畷の戦いで足利側の高師直・師泰兄弟と戦って敗北し、弟の正時と共に自害したとされています。
太平記には、この合戦に赴く際、吉野の如意輪寺の門扉に辞世の句を矢じりで彫ったと言う物語があり、このレリーフはその姿を描いたものだと思われます。
中央には、その辞世の句が描かれています。

「かへらじと かねて思へば梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる」


戻らない梓弓の如く、我々も生きて帰ることはない。死んで名前をここに残す。
と言った内容でしょうか?

楠正成楠の像と言えば皇居外苑が有名ですが、彼の銅像は戦中、二宮金次郎像と並んで数多く造られています。
そういった中でその子楠木正行の像というのは珍しいですね。

ここで楠木正行が選ばれたのは、主婦の友社によって銃後の女性や子供たちを顕彰した「軍人援護会長賞」ならびに「建気なほまれの会表彰」であることがその理由ではないでしょうか。
つまり、楠正成楠の意思を継ぎ、その背中を追いかける正行の姿に、前線で亡くなった者の意思を継ぎ、銃後を守る女性や子供たちの姿を重ねさせたのでしょう。

そう、辞世の句の心持を銃後の人々に訓示しているかのような楯なんですね。
この日名子の楯は、言葉と物語とその彫刻作品とが、がっちり合った完全なプロパガンダであり、それでいて、作品として美しい...
私の持つ日名子作品の中でも一級品の一つだと思っています。

2017年11月5日日曜日

「国民美術」大正13年発行 畑正吉「芸術の時代様式」

国民美術協会発行、美術雑誌「国民美術」大正13年発行 第壱巻 第弐号 通巻第二百四十二号、これに畑正吉が「芸術の時代様式」という文章を寄せています。

この文章は、確か現代の本に再録されていたような。どうだったかな?
ここでもう一度再録するのも面白いのですが、大切なのは畑正吉が何をどう考えていたのかですので、ここは概要にしたものをお伝えし、畑の思想を理解してみたいと思います。
と言っても、私が訳しますので、理解が及ばない部分もあるでしょうが、そこはスミマセン。


芸術の時代様式
 畑正吉 ブログ主(訳)

私たちは、古代の遺物や非欧米文化の製作物や子供の作品を鑑賞すると大いに感銘を受け、共鳴します。
そして、芸術のありがたさを教えられ、真の芸術は時代を超越し永久の生命を持っていると信じるわけです。

ただし、時代は水の様に流れ続け、同じ所にとどまりません。
美術を愛する人は過去の時代の芸術に憧れ、研究し、そこに戻るべきだと論じることもありますが、それはそういった愛好者の個性であって一面の見方に過ぎないと私は思います。

芸術家は、過去の芸術を研究し、これによって大自然の尊さを感受し、自身の作風の一要素とするべきでありますが、それと全く同じに達しようとするのは不可能なのです。

無垢な子供の作品は、ある点で原始時代の素直さを持っていると言いますが、それもある点でしかなく、私たちは煩悩を抱えた現代社会の中で生きていくことしかできません。
しかし、私たちは煩悩のみを抱えて生きているわけではありません。それは、私たちが過去の芸術に触れることで感銘し、共鳴していることでわかります。
もし私たちがただ不純であるならば、芸術は時代を超越して永い生命を保つことはできないでしょう。
私たちは、煩悩(不純)の社会で「真」を持って生きているのです。それを私は「人間芸術的本能」の真情と名付けます。

この真情は有史以来現代に至るまで、そして未来永劫あり続け、さらに螺旋状にあって、始まりあれど終わりはないものです。
純(プユール)であった始まりは、時代の推移によって複雑になり、重なりあってその輪郭ができあがります。
その中で多少の屈折はあっても真情は連綿として変わること無く進むのです。

真情が変わること無く進むのに何故各時代の芸術が多種多様であるか、これを論じるのに私の「工芸芸術の独立」論をもってお答えします。

真の芸術は時代を超越して永久の生命をもち、それゆえ敬意を払われるものです。
しかも、それらの芸術は、その時代の社会意識、時代思潮の影響を受け反映されます。
その両方を統合したものがある時代の様式として現れるのです。

これを後世から見て、様々な様式の展開のみに目を奪われ、時には真情さえも見えなくなっているとき、それは(良い意味での)迷いなのです。
人は迷わされ、時には行き詰まり、そのお陰で真情を進みながらもなにか新しい物を産すことができます。
人種、気候、風土によっても異なる特色として現れます。
ギリシャやローマの作品を復興したルネッサンスといえど、それはその当時の複製ではなく、ルネッサンスの芸術として優れているです。

よって私たちはそういった真情を辿れば、すぐにでも原始時代やギリシャ、ローマの他、どんな時代の芸術でも感受することができるのです。

つまり、様式とは真情を包んだ時代思潮の反映なのです。故に私たちは無意識的に時代様式を産み続けていると言えるのです。
しかし、ただ単に古来の作品を複写するもの、開祖の様式を受け継いで行っているもの、これは時代思潮を無視した複写でしかないと言えます。

また、工芸製作の時代様式については、これが実用と装飾とを併用するものであり、その用途にたいし約束ごとがあります。
その約束ごとが人の生活に必要な形式となって永い年月をもって形式として形成されていきます。
そして工芸作品は、その形式の範囲において芸術の自由があり、多様に変化して時代思潮を遷した様式となって現れるのです。
それを形式に囚われた様式だと断じるのは誤りなのです。
そう、真情を隠して時代思潮の衣を被った工芸芸術であれば、永遠の命を保ち、永遠に敬意を払われるものとなるのです。
(おわり)


畑正吉の主張は、工芸もまた、大文字の芸術の一つだと言うことでしょう。
そのために古代美術や児童の作品を持ってきて、芸術の範囲を大きく広く表すところに畑の思想のダイナミズムを感じます。
所謂アールブリュットをも芸術史に含もうとしているのですね。
そのダイナミズムが後半の「工芸芸術の独立」論でややトーンダウンしているように思えます。

それと、実はこの文章の次頁は高村豊周が工芸そのものを評価する文章を載せています。
豊周は、工芸部門が帝展に編入されたことでの工芸界のアレコレを書いているのですが、ことさらそれを他の芸術と比べることはしていません。
それと比べてみると、畑は、工芸を「芸術」に近づけようと考えているとわかります。
つまり、工芸は「芸術」でなはないことが前提なんですね。畑はその橋渡しをしているのです。

そこから、鋳金等の確立した価値体型を持っている豊周と違い、純粋美術と工芸の合の子的なメダル等を仕事としてきた畑正吉の立ち位置が見えてきます。
その場所に一生立った畑の想いを含め、この文章を再度読めば、文中に収まりきらない彼の叫びが聞こえてきます。

2017年11月3日金曜日

小平市平櫛田中彫刻美術館でのトークイベント無事終了

トークイベント、無事終わりました!



もっと私のトーク力を磨かなければなぁ~等々、思うこともありますが、まぁ、なんとかなったかな?
館長さんが、藤井浩祐の帯紐を着けていらっしゃって、とても素敵でした。
こうやって現役で使っているのは良いですね。

メダルの展示は、とても美しく展示がしてあってありがたく思いました。
他のコレクターの作品もありまして...これがとても良い物でして....羨ましい.

翌日は生憎の台風で、楽しみだった神田の古書市の屋台は中止…
けれど、古書会館では4冊の雑誌を買えました。
大正13年の「国民美術」1冊、大正14年が2冊、それに昭和16年の「造形芸術」。
「国民美術」には、畑正吉、朝倉文夫、石川確治、小倉右一郎、「造形芸術」には本郷新らの文章が載っています。
けっこう面白いので、それぞれの内容をこのブログで書いていくつもりです。

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
現在、小平市平櫛田中彫刻美術館にて「メダルの魅力展」開催中!
来週12日までです。
http://denchu-museum.jp