前回の「護国亀鑑」盾が世に出た1939年(昭和14)、日名子が同時期に血肉を注いで制作していたのがこの「八紘之基柱(あめつちのもとはしら)」です。
翌年の1940年は紀元二千六百年。その為の奉祝事業として宮崎県にある宮崎神宮に「八紘一宇の精神を体現した日本一の塔」を建てることが決まり、それに名乗りを上げたのが大分県出身の日名子実三でした。
14年3月に日名子は原型を完成させ、同年5月より起工。国内だけでなく、遠くは朝鮮や上海からも石垣のための石が送られ、述べ6万人の奉仕者が参加。同年11月に竣工となりました。
日名子によれば「楯と御幣の形を併せ、しかも葦牙(あしかび)の如萌え騰る感じ」を表したこの塔は、高さ37メートル、中央に「八紘一宇」の文字、四方に信楽焼の神像が配されています。
「工人トシテ權現セルモノ」とあり、技術者を示している、「和御魂(にぎみたま)」像。
「武人トシテ權現セルモノ」とあり、剣と盾を持つ 「荒御魂(あらみたま)」像。
「漁人トシテ權現セルモノ」とあり、恵比寿神のような「奇御魂(くしみたま)」像。
日名子自身の娘をモデルとしたとされる「幸御魂(さちみたま)」の母子像。
この塔は戦後、「平和の塔」という左翼からしたらまったく反対の意味の名前が与えられ、「八紘一宇」の文字と武人の象徴であった荒御魂(あらみたま)像が撤去されます。後に修復、復元され、現在は宮崎県の観光名所となっています。
こういった塔、いわゆるモニュメントは、戦時下の彫刻家たちにとって新しい試みとして研究され、いくつかの美術展覧会で発表されました。ただ、戦時下にこのような大規模な事業がそうそう出来るわけでもなく、忠霊塔のような建築物と比べると現実に制作されたモニュメントは少ない。しかし、ここで研究されたモニュメントの思想が、戦後の彫刻界に影響を与えたことは確かだろうと思います。
そんな戦時下のモニュメントについて次回は書きたいと思います。
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