昨年行われた『式場隆三郎-脳室反射鏡』展のカタログが届きました。
こんな時期の展覧会開催は、大変なことだったでしょう。
カタログも凝りに凝ったデザインで、本を愛した式場隆三郎のイメージを伝えるものになっています。
カタログを読んで思うのは、式場隆三郎という人物の美意識の形成に「民藝」が深く刺さっているのだと言うことです。
当時の煩悶青年の一人であったろう若き式場隆三郎にとって、「民藝」的、「白樺」的な美意識は生涯を支えるものでした。
ただ、他の民芸運動家とは異なり、式場隆三郎は、どうも骨董や日用品より新作民藝を好んだようです。
そして、エリート達の世界に留まらず、市井への啓蒙活動に勤しみます。
「民藝」とは何か。
それは「民衆の暮らしのなかから生まれた美、用と美」をハイカルチャーであった芸術へのカウンターとして価値づけた物です。
先に式場が『新作民藝を好み』と書きましたが、それは、市井の人が手に入る物より、高価で手の届かない新作を好んだと言うことです。
市民感覚から離れた高価な新作民藝は、北大路魯山人が民芸批判した点であり、「用の美」である「民藝」の矛盾に見えます。
ですが、柳や式場は「民藝」を新たなハイカルチャーにしようと考えていたわけですから、利休好みと同じように、新作民藝こそがそれを体現した物と考えていたはずです。
魯山人からしたら、骨董や日用品の美を盗用し、求めてもいないのに新たに「民藝」として価値づけられたように思えます。
例えるなら、オタク文化を盗用し、「クールジャパン」とか村上隆的「コンテンポラリーアート」として価値づけられたようなものです。
ですから、北大路魯山人のようなオタク(市井の消費者)から、仲間ではないと嫌われます。
村上隆氏が嫌われる理由と同じですね。
そして、「民藝」という新しい美を次のハイカルチャーとしたい柳らエリートにとって、「民藝」が市井の民に理解できるものでは困ります。
「おまえらの理解できない美を我々はわかるのだ」という態度こそがハイカルチャーを支えているのですから、誰でもピカソであっては困ります。
なのに、式場のゴッホ工芸や、アイドル山下清に絵付けさせたり、カストリ雑誌に書きなぐっているようなサブカル活動は、「白樺」文化圏の人々には、「民藝」をローカルチャーに落としていると見えたことでしょう。
戦後、柳らと交流が途絶えたのは、そんな理由もあったかもしれません。
市井の消費者からもエリートからも嫌われる。
それが式場隆三郎という人物ですね。
そして、それが彼の魅力の源だと思っています。
柳宗悦は、柳好みと言わず「用の美」なんて言うから、魯山人につっこまれるわけです。
利休のように、カウンターカルチャーであると認識すれば、もっとやりようがあったのではないかと思います。
「用の美」の「用」は当たり前ですが、「用いる」という言う意味です。
では、いつ用いるのか?
それは「今」なのか「過去」なのか?
柳宗悦にとって、それは「李朝」であり「木食の時代」であったはず。
つまり「過去」です。
「過去」あった認識されていない美を「今」価値化することが「民藝」という運動であると思います。
「過去」を良しとし、それと異なる「今」を変革しようとする運動、それを右翼と言います。
「民藝」運動は美術の右翼運動なのですね。
ただ、エリートである柳宗悦は、式場と違い、同時代の政治的な右翼とは距離あったようですが。
よく考えれば、常に新しさと理想を求めるコンテンポラリーアートは、美術の左翼運動だと言えます。
であれば、カウンターカルチャーとして美術の右翼運動だってあっても良いはず。
「民藝」はそうなりかけたが、柳宗悦が亡くなり、変革無いまま、アートの片隅に残るものになりました。
「民藝」自体が「過去」になり、自己言及しなければ生き残れない思想になってしまいましたね。右翼の陥る罠ですね。
そう考えてみると式場隆三郎は「民藝」を生き残らせるため、常に更新していたのだと思います。
ゴッホや山下清の中に人間の原初(過去)の美を見、「二笑亭」ではシュールレアリズムというコンテンポラリーアート(左翼)に近づきつつも、「民藝」という右翼の立場を貫き、ポップにメディアを使い、地べたに近い感性で死ぬまでやりきった人物。
それが、私の好きな山師、式場隆三郎なのですね。
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