桜岡三四郎は明治3年生まれの鋳金家です。
東京美術学校の鋳金科の主任、後に教授となります。
東日本大震災により崩壊してしまった仙台、青葉城跡に建つ昭忠碑の上部に取り付けられた金鵄像は沼田一雅が設計し、桜岡三四郎、津田信夫らが鋳金した代表作です。
その桜岡三四郎は、明治36(1903)年にアメリカに留学しています。
この絵葉書の消印の日付と同じですね。
桜岡三四郎は、高村光雲に無事アメリカに着いたことを伝えたかったのでしょう。
桜岡三四郎がアメリカの行く5年前の明治31(1898)年には、岡倉天心が東京美術学校を辞職することとなる美術学校騒動が起きています。
当時、美術学校助教授だった桜岡三四郎は、天心に味方して一緒に辞職。
対して高村光雲は美術学校に残ることとなります。
袂を分けたように見える二人ですが、しかし、この絵葉書を見てもわだかまりは感じませんね。
その後の桜岡三四郎が美術院と東京美術学校の両方に籍を持ち、架け橋となって働いたことを見ても、桜岡三四郎が光雲らに対して思うところは無かったのだろうと想像します。
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