『星ヶ浦公園の丘上に第一次満鉄総裁たりし後藤新平伯の銅像が其功績を永遠に伝へて屹立している。
この星ヶ浦の公園は満鉄が此地を買収して星ヶ裏ヤマトホテルの前進たる海岸ホテルを建て園内道路其他の設備を行ひ又一般避暑地として別荘や付属建設をなし初めて公園らしい体裁を整へた。』
この銅像の建立は1930(昭和5)年。
1929年に後藤新平が亡くなり、彼の意思に基づき東京美術学校正木校長に依頼され朝倉文夫が制作を行いました。
この朝倉文夫の「後藤新平」像ですが、実は現在も同型の像を見ることが出来ます。
場所は、岩手県奥州市水沢区中上野町にあります水沢公園、岩手生まれの後藤新平を記念し、1978(昭和53)年に建立したものです。
こうして作品が残って見ることができるというのは嬉しいですね。
ただ、絵葉書にある大連にあった銅像はどうなったのでしょう?
なにより大連と言う日本の租借地で、当時の現地の人たちは日本人の業績を記念したこの像をどう見ていたのでしょう?
複数のイデオロギーが焦点をなし、その思いを受ける媒体となる銅像のあり方、問題は、今も昔も変りません。
私たちは今年、そんな銅像たちに違うあり方を見出すことができるでしょうか?
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