2017年11月25日土曜日

メダルの魅力

小平市の平櫛田中彫刻美術館で行われていました「メダルの魅力」展、先週無事終わりまして、展示作品が戻ってきました。
コレクションをご観覧頂いた皆様、誠にありがとうございます。
関係者の皆様、色々ご迷惑をお掛けいたしました。
厚く御礼申し上げます。

今回の展示では、恥ずかしながら私の稚拙な文章を配布させて頂きまして、ご覧なられた方もあるかと思います。
この私にとっての「メダルの魅力」をまとめた文章を以下に記し、記録に残しておきたいと思います。

『-メダルの魅力に就いて- 

 メダルに刻まれた近代彫刻家たちの作品、これを「芸術だっ!」と声高に言う人ってあまり見かけません。メダルなんて物は記念品で複製品で、言うなれば旅行先で買ったお土産みたいなもので、ギャラリーや骨董屋で高いお金を出して買うものでもなく、わざわざ美術館で鑑賞するものでもなく、あくまでメダルを授与された個人の思い出の品でしかないわけです。
 茶道具などに対し「用の美」といった美意識もありますが、そういった美意識でメダルを見てみても、顕彰や記念と言った抽象的な使用しかできないメダルは、時折手にとっては思い出に耽るだけで、箪笥の奥に大事にしまい込まれてしまいます。その所有者が亡くなった時に「あら、お爺ちゃんたらっ、こんなもの大事にしてたわよ」なんていって出てきたメダルは、遺族にはどうでも良いものなので、捨てられるか古道具屋で売られるか、ネットオークションで格安で出されるかして、誰もそれが芸術だとは思いません。個々人にとっては大切なメダルも、ことさら「芸術」である必要などないわけです。かく言う私も、それはそれで良いのではなんて思いもするのですが、それでもメダルの持つ魅力を少しでも伝えたいなどと思い「芸術だっ!」なんて小声で言ってみるのです。

 メダルの美という物はなかなか人に伝わりづらい。どうも私たちはこういったメディアの芸術を自身で評価しづらくしているようです。その理由はいくつかあると思うのですが、その一つは、メダルに用いられる浮彫りという形態にあるのでと思っています。
 わが国において、浮彫りというのは何故か評価が低いようです。例えば古今東西の彫刻展において、浮彫りをメインにした、または浮彫りのみの展示ってあったでしょうか?彫刻家の代表作に浮彫りが挙げられるってことはあるでしょうか?思うに、立体美術としての彫刻、平面美術としての絵画、その中間と見られる浮彫りは、高度な技術が必要ながらも「芸術至上主義」的な視点から蝙蝠のように曖昧なものとして一段低く扱われてきたのではないかと感じます。さらに、そんな浮彫りと建築とは一緒に商業デザインとして用いられ、それ故更に「芸術至上主義」から嫌われます。

 次の思うのは、商業デザインであるメダルは、複製技術による芸術であるという点です。同じ複製芸術でも版画はそれだけで独立した芸術の分野であり、エディションを付けコントロールされます。しかしメダルはあくまで顕彰や記念を目的とした物です。その必要に応じて複製、販売される物であって、彫刻の二次使用だと考えれます。よく考えれば、原型から石膏型を取って制作される彫塑も、全て複製芸術であると言えるのですが、この「二次使用」と言う点で一線が引かれるのです。
 しかしながら、それを手にとって見れば、その当時の若い彫刻家たちの生き生きとした仕事っぷりや生きてきた時代を感じることができます。メダルに込められた美意識に思いを馳せ、そして今、それを美しいと感じることができるのです。

 まずは、私自身がどうしてメダルの美に取り憑かれたのかをお話します。馴れ初めですね。私自身、若い頃は彫刻家を目指していました。と言ってもコンテンポラリー・アートにとって「彫刻家」なんて死語でしかないのですが。
そんな仕事をしながら名古屋の老舗ギャラリーに勉強がてらバイトをしていまして、そこで熟年彫刻家達(彫刻家にとって四十~五十代は若手です。)のお話を多く聞く機会に恵まれます。そんな話から、彼らの若い頃に影響を受けた作品や作家、「もの派」や「アンフォルメル」、「読売アンデパンダン」等々を知り、そこから自身の彫刻観がどうやって培われてきたものかを知りたくなり、日本近代彫刻史に興味を抱き始めます。

 まずはと、日本美術史の本をぺらぺらめくってみれば、ふむふむ明治9年にヴィンチェンツォ・ラグーザが明治政府に招かれ工部美術学校でお雇い外国人教師として教鞭をとる…と、工部美術学校が廃校後は、岡倉天心によって高村光雲らが東京美術学校にて教え、また明治40年には官展である文部省美術展覧会が開かれ、美校出の朝倉文夫や北村西望らが活躍する。また在野では日本美術院の平櫛田中ら、二科展の藤川勇造らによって推進され、更に明治41年に帰朝した荻原碌山や高村光太郎がもたらしたロダニズムは、日本彫刻界に大きな影響を与え、戦後に活躍する本郷新や佐藤忠良らを生んだ…。
 あれっ?これだけ?日本近代彫刻史ってこれだけなの?そんなことを思いました。

 しかし昨今、そんな彫刻史では語られなかった当時の作家と作品の展覧会が少しずつですが行われてくるようになりました。中でも平成17年に宇都宮美術館等で行われた「構造社展 昭和初期彫刻の鬼才たち」は、美術史の中でほとんど語られることの無かった大正から昭和初期までの若い彫刻家達の仕事をつぶさに示し、私の近代彫刻史観を変えたとも言える展覧会でした。「構造社」は1926(大正15)年に齋藤素巌や日名子実三らによって結成、「彫刻の実際化」を標榜し、当時市井の社会からかけ離れてしまった純美術としての彫刻との結びつけを目指します。特に建築と彫刻の融合を「綜合試作」として各展覧会で発表、またメダルやレリーフなどを「雑の部」とし、多くの研究を行います。参加した作家には、先に上げた齋藤と日名子の他に、陽咸二や荻島安二、後藤清一、寺畑助之丞、中牟田三治郎らがいます。齋藤素巌は欧州帰りで日本彫刻界の一匹狼。師である朝倉文夫に反旗を翻した日名子実三。日本彫刻界を縦横無尽にひた走り、展示拒否をも食らった陽咸二に、近代日本マネキンの創始者である荻島安二と、一癖も二癖もある作家による「構造社」が面白くないわけがない。
 そのカタログにはそんな構造社作家が原型を作製したメダルが載っていまして、私にとってこれが近代彫刻家によるメダルとのファースト・コンタクトであり、初めて体験する彫刻世界でした。

 メダルをメディアにした彫刻家たちの作品は、商業と芸術という「芸術至上主義」にとって矛盾する二つを繋げるものでありながらも、彫刻家の息吹が感じられるような生き生きとした作品に感じました。私はこのメダルという作品を、彼らの立体作品以上に面白く感じられたのです。では、そんな私が自身のコレクションを見る時、どうしているのかをお話します。

 メダルの美は他のメディアと異なり、三つの要素が絡み合ってあると考えています。そこで一つのメダルを例にとり、その魅力をお伝えしたいと思います。
 例とするのは1933(昭和8)年に行われた第七回明治神宮体育大会の参加記念章です。

 まず一つ目の要素として上げるのは、メダルが用いられたイベントの歴史性です。何を顕彰または記念する為に作られたメダルであったか。例に挙げた「明治神宮体育大会」は、当時に於けるスポーツの最大の祭典でありました。スポーツは、明治維新後、彫塑がそうであるように西洋から輸入されたばかりの最先端の文化でした。

 明治維新によって、日本に多くの西洋文化が流入します。西洋先進国と同等となるために、国家規模での文化改革が行われました。スポーツもそういった文化の一つであり、水泳やマラソン、登山などが、一般市民に浸透していきます。1911(明治44)年には日本で初めて国内選考会が開催され、短距離の三島弥彦と、マラソンの金栗四三の二人が日本代表としてストックホルム大会(1912年5月5日~7月27日)に参加します。また1913年(大正2年)からの極東選手権競技大会への参加をはじめ、国際大会への積極的な参加を行っていきました。
 国内においては、1903(明治36)年には早稲田と慶応両校の野球大会、いわゆる早慶戦が行われ、社会の関心を集めるようになります。野球だけでなく、水泳やマラソンなど、アマチュア競技団体や新聞社などの主催する多くの競技大会が行われるようになります。1920(大正9)年には東京箱根間往復大学駅伝競走の前身となる大会が行われ、また現在の国民体育大会の前身となる明治神宮競技大会が、1924(大正13)年から1943年にかけ十四回にわたって行われます。陸上競技やサッカー、ラグビー、水泳に、戦時下の明治神宮国民練成大会では、銃剣道や行軍訓練まで行われます。そして、こういったイベントにメダルが用いられるようになります。その原型を依頼され制作したのが当代の彫刻家たちでした。
 メダルだけでなく、スポーツそのものを題材とした彫刻も多く作製されるようになります。当時のオリンピックには、芸術競技という美術作品の優越を競う種目があり、前述した1912年のストックホルム大会から1948年のロンドンオリンピックまで計七回行われます。日本の彫刻作品での参加は、1932年(昭和7年)ロサンゼルス大会で、「日本オリムピツク美術委員会」には、池田勇八や豊田勝秋、高村豊周、藤井浩祐、藤川勇造、齋藤素巌らが彫刻家として参加、「本邦美術の枠を国際場裡に展観して大いに日本文化を宣揚せんとした」ことを目的にオリンピック参加を表明します。出品作家は、池田勇八、藤井浩祐、北村西望、日名子実三、濱田三郎、長谷川義起、宮島久七、武井直也、川崎栄一らでした。
 しかし、これら彫刻家の作品の海外での評価は低く、有島生馬は「全落の醜態を演じた」とコメントを残します。続くベルリン大会でも出品作家はほぼ前回と同じ顔ぶれで、ただし、結果としてこの大会ではドイツを含む枢軸国に多く受賞がなされ、日本も三等賞を二つ、彫刻では長谷川義起の「横綱両構」が等外佳作となりました。

 現在でもフィギュアスケートやシンクロナイズド・スイミングに芸術点と言われる良くわからない採点がありますが、当時はよりスポーツと芸術とが近い関係にありました。それを伝えるのが彫刻家によるメダルなんですね。また、スポーツ以外では明治維新後に西洋からもたらされた文化として写真技術があります。アサヒカメラのコンテストなどによって素人写真家の裾野が広がり、そこで行われた写真コンテストの賞牌としても、多くの個性的なメダルが作られます。

 さて、二つ目の要素は、このメダルの原型を制作した彫刻家の魅力です。その彫刻家の名前は日名子実三。彼は先に述べたように朝倉文夫の下で学び、東京東京美術学校を首席で卒業後、1919(大正8)年には「晩春」が帝国美術院展覧会に入選する等、若くして頭角を現します。1923(大正12)年に起きた関東大震災を経験したことで芸術の社会的な働きかけの必要を痛感し、齋藤素巌と共に「構造社」を立ち上げます。
 しかし、時代が戦争に向かう中で、社会との結びつきを求めた日名子は、次第に戦争彫刻家としての名を成して行きます。代表作は現在も宮崎県に建つ「平和の塔」もとい「八紘之基柱(あめつちのもとはしら)」です。(この塔は戦後「平和の塔」に改称され、また正面にあった秩父宮雍仁親王の揮毫「八紘一宇」も撤去、ロッククライミングの練習場代わりに使われるほど荒廃しますが、現在は当時の状態に戻されています。)また、戦時下のメダルも数多く制作します。特に有名なメダルが、「支那事変従軍記章」で、正面に二足の八咫烏(やたがらす)が描かれています。
 日名子は、終戦の年の1945(昭和20)年4月に脳出血により死去、戦後を見ることなく亡くなります。その為か、同じく戦争美術作家の代名詞とった藤田嗣治と異なり戦争責任の糾弾も受けず、戦後は忘れ去られた作家となります。
 日名子実三は都会的で近代的な自我を持つモガ、そして労働者を描きます。その一方で神話の神の姿をリアルに描きます。優雅なモダンとその延長上にあった全体主義的な国威発揚。その二つが組み合わされたまさに日本の近代史を語っているような作風です。ヒットラーを生んだワイマール憲法が当時に於いて最新鋭の憲法だったように、かつてモダンは全体主義の兄弟、または表裏の関係にありました。そう、彼はこの時代を写す鏡のような彫刻家だったと言えるでしょう。

 三つ目の要素は、メダルに描かれたモチーフの魅力です。この第七回明治神宮体育大会の参加記念章で描かれた像は、第十三代出雲國造(出雲の国の統治者)であり、またの名を襲髄命(かねすねのみこと)こと「野見宿禰(のみのすくね)」でした。垂仁(すいにん)天皇の時代、当麻蹶速(たいまのけはや)と野見宿禰による御前相撲が執り行われ、勝った野見宿禰は朝廷へ仕えます。この故事より「野見宿禰」は相撲の神として祭られるようになります。明治神宮体育大会では相撲も競技の一つであり、また神事としてのスポーツといった見方から、このモチーフが選ばれたのだと考えられます。

 肉感的なその像は、仏像のような形式から離れたリアリズムを持って神の姿を写し取り、蹲踞をする両足は地に根が張っているようです。同時代のナチス政権下の男性彫刻像がどこか三島由紀夫的なエロチシズムが感じられるのに比べ、「野見宿禰」像は労働者の肉体のように愚直な男の美の姿を描いたものだと言えるでしょう。髪は角髪(みずら)で、中央で二つに分けて、耳の横でそれぞれ括って垂らします。この姿は幕末まで少年の髪型としてありましたが、出土した埴輪の形から古来に用いられた髪形であることがわかっています。そういった考古学的な情報が昭和初期には共有してあったのでしょう。このメダルの「野見宿禰」像は、江戸時代後期から明治時代に刊行された伝記集「前賢故實(ぜんけんこじつ)」に描かれた姿をベースに、考古学的な情報を加え、作られた姿だと言えそうです。
 ちなみに江戸時代の浮世絵に描かれるような神の姿は、ほとんど武者絵でした。神主が鎧と着物を着ているような姿です。それ以降は、例えば1890(明治23)年 に制作された竹内久一による巨大な木彫「神武天皇立像」は明治天皇の姿を基にし、原田直次郎が1896(明治29)年に油彩で描いた「騎龍観音」では欧州の宗教を参考に観音が描かれます。また、1907(明治40)年の東京勧業博覧会に出品された中村不折の絵画「建国刱業」は、猿から人へ進化の途中であるような古代の人の姿で神を描き、「我が皇室の尊厳を冒涜する恐れあり、又秩序を紊乱する嫌ある」と九鬼隆一に非難されるような出来事もありました。このように歴史を積み上げながら、誰も見たことの無い「神」の姿が日本人の共有するイメージとして成り立っていきます。
 しかし、元来日本人は神の姿を描くことを禁忌(あるいは思いもしなかった。)としてきました。仏教以前に神の姿を描くことは無く、仏教伝来以降に仏像の影響と、本地垂迹による神と仏の融合によって神の姿が描かれるようになります。明治維新後、国家神道はオラが村の神さんを神道の体系の中に組み込み、日本の神の物語を共有させます。それに伴い、人々は神の姿をビジュアルとして希求するようになっていったのでしょう。そういう需要と、日名子の彫刻観が重なり、神をリアルな筋肉男として描くことになったと思われます。

 また、「野見宿禰」は墓陵での殉葬を取り止め、代わって埴輪を納めるたことから、彫刻としての像(埴輪)の創始者と考えられ、彫刻の神ともされました。日名子は野見宿禰が埴輪を持つ姿を描いたメダルも制作しています。彫刻家であった日名子にとって野見宿禰は特別な神であったと思われます。その姿をスポーツの祭典であった明治神宮体育大会に用いたいと考えたのでしょう。このメダルの背景には明治神宮が描かれています。明治神宮の前で蹲踞を行う姿、それがまさにこの大会のスポーツが神事であることを強調しています。日名子実三はそういった想いをこのメダルに込めたのでしょう。

 これまで述べた様に、歴史性、作家性、そしてモチーフの三つの要素がメダルを魅力的にさせます。これは純粋芸術としての彫刻とは異なり、彫刻家の目を通してダイレクトに社会と人と、その歴史に繋がります。メダルを手に取ったとき、その繋がりを一瞬で感じることができるわけです。
 ただし、注意したいのは、これらメダルの時代と言える明治後半から昭和の初期にかけては、戦争の時代であったことです。私はメダルの魅力を「生き生き」しているからだと述べました。この「生き生き」は戦争の時代の産物だとも言えるのです。日中戦争が始まる頃には、大正時代にあった退廃美が影を潜め、当時の言う「健康」美が推奨されます。その中で、高村光太郎が詠ったような、朝倉文夫が著書で述べたような戦争賛美が語られ、そしてその表現は「生き生き」しているのです。
 戦争画(戦争記録画)に対して画家が自主的にのめり込んで行った様に、人はこの時代をよき事と考え、自らの立場の中でそれを表現していきます。私はそれを断罪するつもりはありません。高みからそれを評価するつもりもありません。ただ私が美しいと思うものには、そういった影があることを忘れてはならないと思っています。そして、私たちの同胞が経験した「生き生き」した時代の表現を、これからを生きる人たちの糧となることを願います。』

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