2018年7月15日日曜日

田中修二 (著)「近代日本彫刻史」を読む

前回に続いて田中修二 (著)「近代日本彫刻史」を読む。
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小平市平櫛田中彫刻美術館にて昨年行われました「メダルの魅力」展で、私の書いた文章を配布させていただきました。
その内容をこのブログでも載せたのですが、「あれっ?これだけ?日本近代彫刻史ってこれだけなの?....」と現在ある日本近代彫刻史への違和感を書きました。

田中修二さんの「近代日本彫刻史」も、同じような問題意識をもたれて書かれているように思います。
日本近代彫刻は明治維新後の西洋の受容と模倣から始まり、萩原守衛、高村光太郎らによるロダニズムによって更新され、戦時での低飛行を抜けて、戦後になりコンテンポラリーと出会う...といった日本の歴史観に対してです。

歴史や歴史観と言うものは、恣意的なものです。
その時代時代によって、必要とされる「歴史」が切り取られ語られることで生まれます。
ですから絶対的な、またはたった一つの真実の歴史というものは無いのですね。
同じ出来事でも、それを受取った人が二人いれば二つの真実が生まれます。
リアルに平行世界が多数存在し、それを観察者が切り張りして「歴史」が成り立ちます。

ですから、歴史や歴史観は、民主主義と同様に常に不足している状態であり、不断の努力によって更新し続ける必要があるのですね。
これは美術史や美術史観も同様です。
ただ、美術史は「美」という個人にとって絶対的な価値観に拠るものだからこそ、こういった更新が難しいのでしょうね。

田中修二さんの「近代日本彫刻史」では、明治以前から続く日本の豊かな立体造形史を「彫刻」として語ることで、近代彫刻史観では見えづらくなている人形やマネキン、建築と建築装飾、工芸等にある「彫刻」を浮び上げます。
それによって、私たちが生きている「今」ある「彫刻」の豊かさを語ることができるようになるのだと思います。
(ただし、メダルの扱いはまだまだ小さいのですけどね...)

例えば、昨今のニュースで話題のオウム真理教で、第7サティアンにあったサリンプラントを偽装するために作られた発泡スチロール製のシヴァ神像であっても、私たちの彫刻史観の上に出来上がったものなんですよね。
そういうものも直視しつつ歴史を更新し続ける必要があると感じます。

それと、この「近代日本彫刻史」では、彫刻家の仕事として「ゴジラ」等の特撮造形が語られているのですが、そこだけ凄く熱がこもっている様に感じました!(読んでいて目頭が熱くなった...)

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