1918(大正7)年から始まった日本でのスペイン風邪の大流行では、当時の人口5500万人に対し約2380万人が感染したとされ、死者が38万8,727人と言われています。
その後、1923(大正12)年の関東大震災では、死者・行方不明 10万5千あまり。
昭和5年からの大恐慌、支那事変、そして大東亜戦争と日本人以外も含め多く人が亡くなります...
https://www.stat.go.jp/info/today/115.html
こんな時代を生き残ってこられた方があり、今の私たちがあるのですね。
私たちもどうにかして生き残りましょう...
そのスペイン風邪で亡くなった著名人に、京大の銅像となった折田彦市先生や、画家の村山槐多、劇作家の島村抱月がいます。
島村抱月は、明治40年代に本格的に新劇運動をはじめたのですが、看板女優の松井須磨子と不倫し、これが騒動となって坪内逍遥と決別、須磨子とともに劇団「芸術座」を結成します。
そして、トルストイの小説をもとにした『復活』を舞台化、これが評判になり、プーシキン劇場を含めた各地で興行が行われます。
しかし、前述のとおり1918(大正7)年11月5日、スペイン風邪で病死。
その時、松井須磨子は「「島村先生は亡くなりはしません。どうしても生きています...」と話したそうです。
志村けんさんの追悼番組で語った高木ブーさんみたいですね...
そしてその2ヶ月後、芸術倶楽部の道具部屋で松井須磨子は抱月の後を追って自死します...
この松井須磨子の像を制作した作家がいます。
朝倉文夫です。
彼が、1914(大正3)年の国民美術協会第2回展に出品した『扮したるカチューシャ』は松井須磨子をモデルにしています。
写真で見る松井須磨子は貧弱ですが、この像はボリュームと迫力があり、さすが朝倉文夫といったところでしょうか。
また、亡くなった松井須磨子のデスマスクを、朝倉文夫の指揮の下で弟子の相川善一郎らが作成したと言います。
島村抱月がスペイン風邪で亡くなった時、朝倉文夫が知人にこう語ったとか。
『松井(須磨子)さんも後を追って死ねば、出雲阿国のように歴史に名を残すのに』
この言葉、今の私たちからすれば残酷です。
ですが、私たちが新型コロナウイルス流行の世界にいるからこそ、そう思えるのかもしれません。
それは、新型コロナウイルス流行後の世界では、ARTの在り方が変わっていくだろうことを示唆しています。
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