畑正吉による高橋是清像です。
「彫刻と工芸の七十年 畑正吉」によると1934(昭和9)年に造幣局からの依頼で高橋是清のメダルを制作したようですね。
昭和9年は高橋是清が岡田啓介首内閣において六度目の蔵相に就任した時期にあたり、これを記念しての肖像制作だったと考えられます。
畑正吉の肖像は薄い浮彫でも立体感があるのですが、この高橋是清像はそうでもないですね。
ヒゲやしわの細部が目立って立体感を殺しているように感じます。
もしかしたら写真を見ての制作だったのかもしれません。
当時の高橋是清は忙しい身でしたでしょうしね。
しかし、この制作時、高橋是清自身だけでなく制作した畑正吉もまた、後の悲劇を想像もできなかったでしょう。
高橋是清は、昭和金融恐慌に立ち向かった政治家です。
スペイン風邪、関東大震災、農業恐慌とダメージが蓄積されていく日本で経済政策を立ち直らせ、その政策の一つとして軍備予算の縮小を行い、軍部と対立します。
それが青年将校たちの恨みを買い、1936(昭和11)年の二・二六事件で高橋是清は暗殺されます。
当時の人々は青年将校たちに同情的で、メディアもまたしかり。
これに乗って政権を批判してきた社会大衆党ら左派は軍部に近づき、後に大政翼賛会に合流。
その大政翼賛会を生み、民衆に人気のあった近衛文麿政権は、歴史が示すようにさらに大きな災厄を招きます。
しかし、高橋是清ら時の政権が行ってきたことは、ポピュリズムとは程遠いものでした。
国民のために生きた高橋是清は、国民の欲望の下で殺されたわけです。
そんな時代を考えながら、現在の新型コロナで苦しむこの国の状況を見渡した時、こう思います。
民衆の欲求はまたポピュリズムを呼ぶのではないか?
この国は、戦後の反省から国が個人に干渉しないという小さな国家を求めてきました。
新型コロナ禍でも国家は「要請」しかできません。
しかし、私たち一人ひとりが苦痛に直面すると、大きな国家を求めてしまいます。
それを無意識に、あたかもそれがあたりまえかのように。
そして、それに応えない国家は能力不足だと思うのです。
戦前の民衆のように。
私の出来ることと言えば、こうやってメダルを眺めながらグチグチいうことだけですが、私たちの中から二・二六事件の青年将校が生まれないことを祈るばかりです。
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