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2022年7月25日月曜日

日本共産党50周年記念 中村竹男作「片山潜像」レリーフ



こちらは日本共産党50周年記念として制作された社会主義者「片山潜」のレリーフです。
日本共産党50周年は、1972年。
戦後の作品なので、私の嗜好の範疇外なのですが、先日からの左派系作品の流れで紹介いたします!
ちなみに、今月の15日は、日本共産党100周年でした。
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik22/2022-07-15/2022071503_01_0.html
「片山潜」についてはWikiを参照
アメリカ共産党の創立関わった日本人として興味深いですね。
遺骨はクララ・ツェトキンなど共産主義運動の最高指導者とともにクレムリンの壁に葬られている大物です。

そして、そのレリーフを制作したのが、彫刻家中村竹男。
ありがたいことに、略歴が付属されていました。

これによると、大正5年、長野県上伊那郡生まれ。
同郷の画家中村紀元を頼り、吉田白嶺の私塾に入った様です。
先輩には中村直人がいますね。
しかし、美術院でなく、二科会に出品。入選を果たしています。
戦後は二紀会。
そして、昭和29年には『原水爆禁止署名を訴える少女』像を世界民生連訪日代表団に送り、昭和30年には、広島で行われた日本平和美術展に『平和と友情』を出品しています。
共産党員だったのでしょうね。

ただ、作品名からしてもあまり直接的なプロレタリア美術的では無く、平和を求める精神性を重んじた作風であったのだろうと思われます。

それにしても、信州という地は不思議な場所ですね。
こういった人物が生まれる土壌のある地に思います。
浅間山荘で一つの時代が区切られたのも、必然に感じさえします。

2014年5月4日日曜日

Intermission 横山潤之助作 「煙草を燻らす人」絵葉書


第九回二科展美術展覧会出品、横山潤之助作「煙草を燻らす人」の絵葉書です。
この横山潤之助とは、いったいどんな人か。
実は、僕の地元とも縁ある作家なんです。

簡単な略歴を紹介します。
○1903(明治36)年 東京都文京区にて、横山徳次郎 康子の二男として生まれる。
父、横山徳次郎は岐阜県羽島郡の庄屋の長男で、岐阜県立中学校の初代校長を勤めたこともある人物でした。

○1920(大正9)年 川端画学校へ入学し藤島武二の指導を受ける。
この頃、兄が亡くなり、父徳次郎より医師になるよう期待されるが、反発。東京美術学校の受験も失敗する。

○1922(大正11)年、第9回二科展に「煙草を燻らす人(50号)」、「静物」「海水浴」などを出品し、樗牛賞を受賞する。また、同展に「埋葬」を出品した古賀春江と親交を持つ。
また、中川紀元、神原秦に誘われ、「アクション造形美術展」に参加することとなる。
この時、横山潤之助、19才。

○前衛美術作家としてスタートした横山だったが、1927(昭和3)年、突然画風を変え、第九回帝展に出品をする。翌年から海外を外遊し、1930(昭和5)年帰国。「有名な画家になるよりはすぐれた諸庶民になる―」と制作からはなれる決意をする。

○1945(昭和20)年、自宅が空襲にあい、アトリエと3000点の作品とが焼失。
縁を頼り岐阜市日野の精神病院精神神経科で無給奉仕の生活を始める。

○1955(昭和30)年、岐阜県各務原市に転居、50代になり、横山は再び絵筆を持ち始める。
その作品は、岐阜の自然を描いたものだった。

○1971(昭和46)年 死去。68才であった。
その年、「横山潤之助作品集刊行委員会」がつくられ、翌年発行される。

ざっと略歴を見ただけでも、なかなかの難物だったのだろうと想像されます。
加藤稔著「幻の画家横山潤之助」によれば、神経衰弱状態になっていたこともあり、精神病状態であったのではと推測されています。
岐阜での生活では、東京での過去を見せることなく、社交性も薄れ、死亡した折には近隣者が誰も葬儀に参加しなかったと言います。

それにしても、この 「煙草を燻らす人」が19才の頃の作品だとは驚きです。

2013年12月22日日曜日

ザッキンの絵葉書



ザッキンの「第八回」「第九回」「第十五回」二科会に出品された絵画の絵葉書です。
オシップ・アレクセーエヴィチ・ザッキン(Ossip Zadkine)は、藤田嗣治やモディリアーニらモンパルナスの芸術家たちと交流し、藤田を通して戦前より二科会に出品した彫刻家です。

そんなザッキンの絵画が上の絵葉書なわけですが、この絵画を見てわかるように、キュビスムを用いた彫刻を研究しました。

戦前より、このような最新の彫刻を当時の日本に紹介してきたのがザッキンですが、不思議なことに、彼のフォロワーと言うか、彼と思想を同じくする日本の彫刻家が出てこなかったようなのです。
当時の日本の美術評論家からも高い評価を受けていたザッキンなのに、それは何故でしょう?
勿論、戦後において抽象彫刻は、抽象でなければ彫刻ではないというかのように広く日本に定着したわけですが、戦前においては、プロレタリア美術の一部や、構造社や他の団体の作家の一部に隠れるようにして有るだけで、ザッキンの身近であった二科においてさえ、それが目立って為されることが無かったのです。

それとも、ただたんに二科内の政治の問題なのでしょうか?
何かわかりましたら、またここに書きます。

2013年6月22日土曜日

泉二勝磨 作「「東郷大将バルチック艦隊を睨む」 絵葉書


「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」
 この東郷大将とは、日露戦争でロシアのバルチック艦隊を破った東郷平八郎のことであり、当時において、日本のヒーローの一人でした。

作者である泉二勝磨は、面白い経歴の持ち主です。
明治38年に生まれ、昭和4年に東京美術学校を卒業し、フランスに留学、ジャン・デュナンに師事し、中世絵画、彫刻を研究します。
その師ジャン・デュナンは、工芸家であり漆作家と知られています。フランス汽船「ノルマンディー」の装飾には泉二勝磨と共に従事しました。

泉二勝磨は、ドイツによるフランス侵攻から逃れるため帰国、後に二科展に出品します。
当時の二科会は在野の団体であるがゆえか、官展よりもナショナリズム寄りの傾向があり、この作品もそういったものだったのでしょう。
二科展にて「国土を譲る」等の彫刻を出品した渡辺義知らは、戦後となり、そのために二科会を去ることとなります。
1942(昭和17)年には、そういったナショナリズム的傾向を強く押し出した彫刻家団体「造営彫塑人会」に参加。高村光太郎、清水多嘉示、中村直人らによって結成された団体でした。

その前年、1941(昭和16)年に行われた第二十八回二科美術展覧会に(未完)として出品されたこの作品ですが、人物よりも、その手にした刀の造形の美しさに作家の個性を感じますね。

彼は戦争末期の昭和19年に40歳で亡くなります。日名子や陽咸二、橋本平八等々、戦争末期に若くして亡くなった彫刻家は本当に多いです。

2013年4月9日火曜日

児島善三郎 作「胸像」絵葉書


画家、児島善三郎によって制作された胸像です。
児島善三郎は、こういった彫塑も試みているんですね。
すごく上手いわけじゃないけど、このモガな像は、どこか愛嬌あって嫌いじゃないです。

彼が影響を受けたフランス・フォーヴィスムは、ドイツで起きていた表現主義運動に関心を持たなかったそうです。
この彫刻は、フォーヴィスムにある強い作家の心情を描くことが出来ているとは言えません。
もし、彼が表現主義を少しでも志向していたならば、この彫刻も違ったものになっていたかもしれませんね。

この作品が出品された第16回二科展は1929(昭和4)年。
児島善三郎がフランス留学から帰って、2回目に二科展出品作のようです。

絵葉書の上部に児島善三郎のサインがあります。
さすがおフランス帰り。オシャレざんす!