2014年5月4日日曜日
Intermission 横山潤之助作 「煙草を燻らす人」絵葉書
第九回二科展美術展覧会出品、横山潤之助作「煙草を燻らす人」の絵葉書です。
この横山潤之助とは、いったいどんな人か。
実は、僕の地元とも縁ある作家なんです。
簡単な略歴を紹介します。
○1903(明治36)年 東京都文京区にて、横山徳次郎 康子の二男として生まれる。
父、横山徳次郎は岐阜県羽島郡の庄屋の長男で、岐阜県立中学校の初代校長を勤めたこともある人物でした。
○1920(大正9)年 川端画学校へ入学し藤島武二の指導を受ける。
この頃、兄が亡くなり、父徳次郎より医師になるよう期待されるが、反発。東京美術学校の受験も失敗する。
○1922(大正11)年、第9回二科展に「煙草を燻らす人(50号)」、「静物」「海水浴」などを出品し、樗牛賞を受賞する。また、同展に「埋葬」を出品した古賀春江と親交を持つ。
また、中川紀元、神原秦に誘われ、「アクション造形美術展」に参加することとなる。
この時、横山潤之助、19才。
○前衛美術作家としてスタートした横山だったが、1927(昭和3)年、突然画風を変え、第九回帝展に出品をする。翌年から海外を外遊し、1930(昭和5)年帰国。「有名な画家になるよりはすぐれた諸庶民になる―」と制作からはなれる決意をする。
○1945(昭和20)年、自宅が空襲にあい、アトリエと3000点の作品とが焼失。
縁を頼り岐阜市日野の精神病院精神神経科で無給奉仕の生活を始める。
○1955(昭和30)年、岐阜県各務原市に転居、50代になり、横山は再び絵筆を持ち始める。
その作品は、岐阜の自然を描いたものだった。
○1971(昭和46)年 死去。68才であった。
その年、「横山潤之助作品集刊行委員会」がつくられ、翌年発行される。
ざっと略歴を見ただけでも、なかなかの難物だったのだろうと想像されます。
加藤稔著「幻の画家横山潤之助」によれば、神経衰弱状態になっていたこともあり、精神病状態であったのではと推測されています。
岐阜での生活では、東京での過去を見せることなく、社交性も薄れ、死亡した折には近隣者が誰も葬儀に参加しなかったと言います。
それにしても、この 「煙草を燻らす人」が19才の頃の作品だとは驚きです。
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