前々回「あいちトリエンナーレ2019」での「表現の不自由展・その後」にからめて、鈴木大介著「ネット右翼になった父」をご紹介させて頂きました。
その時は、まだ読んでいなかったので、今回は読後の感想です。
著者は、老いていく中で右傾化していく父を、理解し合えないままにがんで失います。
そんな家族の分断を2年半をかけて検証、答えを見つけようと奮闘された記録を本とされました。
結果については、読んでいただいた方が良いのではないでしょうか。
ただ、この本の手に取った理由は、「表現の不自由展・その後」への対応をどうすべきだったのか知りたかったからなのですが、読み進めるうちに、同時代の著者と私を重ね合わせ、自身の父親との関係(現在は破綻していますが)を思い出していく内証の旅になっていきました。
とはいえ、「表現の不自由展・その後」への対応へのヒントはあります。
例えば、2019年に「あいちトリエンナーレのあり方検討委員会」が出された『「表現の不自由展・その後」に関する調査報告書』では、全体所見として『拡大するネット環境によって社会の二極化や分断の進行が露わになるとともに、いわゆる「反知性主義」の存在が可視化されたのではないか。』とあります。
「ネット右翼になった父」の著者も自身の父がそういった存在になっていったのだろうと最初は思われたのでしょう。
しかし、2年半の検証によって異なるモノが見えてきます。
美術評論家連盟の文章『「表現の不自由展・その後」事件のその後』でも、『あいちトリエンナーレ2019の「表現の不自由展・その後」は、歴史の真実とそれを塗り替えようとする歴史修正主義とのせめぎ合いの場でもあった。』とあります。
この「ネット右翼になった父」を読まれた方ならば、それは本当にそうだったのかと思われるのでではないでしょうか?
あいちトリエンナーレ実行委員会事務局には、合計で10,379 件の抗議、脅迫が来ました。
「サリンとガソリンを撒く」や、放火予告や爆破予告、射殺するといった内容もありました。
これらを行った一人一人の心のナニかを2年半を費やしてでも検証しなければ、真に「検証」とは言えなかったのではないでしょうか。
「表現の不自由展・その後」のあの事件はあいちトリエンナーレの関係者だけで行われたわけではありません。そういった抗議者、脅迫者があってなされものです。
彼らにたいし、この著者のように寄り添うことができないというのは、美術にかかわる者、表現者のもつ傲慢さに感じるのですがいかがでしょうか?
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