2017年2月18日土曜日

まだ見ぬ股間若衆


股間若衆、所謂日本の「裸体男性像」について、戦前から今日までの作品群を眺めてみると思うことがあります。
それは、「裸体男性像」はモデル的な立ち姿が多く、女性像にあるような髪を梳かす仕草、寝姿等生活の中での状況を描いた作品が少ないということです。
裸体でのスポーツや労働の姿はありますが、この「生活の中」での姿は皆無といっていいのではないでしょうか?
http://prewar-sculptors.blogspot.jp/2016/11/blog-post_21.html
特に、「正座」像なんて見たことがありません。
もちろん「正座」姿は、着物などの着姿での坐像は多くあります。
けれど裸の男が正座した姿の彫刻を、私はまだお目にかかったことがありません。
正座した時にペニスをどう処理するのか...興味は湧きます。

原因としては、「裸体男性像」自体が少なく、バリエーションも多くないことが挙げられます。
また、裸体での「生活の中」の姿というのは、女性像においても違和感があるものですが、それは西洋的な文脈によって許されており、ただ男性彫刻家が自身の性を描く時の違和感には抗えなかったということもあるでしょう。
さらに、裸の男の風呂上りや寝姿に、(現代ならともかく)当時は需要がなかったこともあるでしょう。


上記の写真は昭和19年の美術雑誌「美術」に掲載されたナチス独逸の展覧会におけるヘルマン・ツェットリッツァの「裸体男性像」です。
これは横たわる姿ですね。こういう姿も見ません。

ナチスの「裸体男性像」と比べてみるとよくわかるのですが、独逸では男性の裸体、特に筋肉に美を見出しているのですよね。
これが日本の「裸体男性像」にはあまりない。
その代わり、上にある朝倉文夫の像や本郷新の「わだつみ像」の様に、若い肉体に美を見るというのはありますね。
三島由紀夫とか薔薇族的な美意識よりも、少年愛、陰間茶屋的なバンコランな美意識であれば、需要があったということでしょうね。

0 件のコメント:

コメントを投稿