2013年7月14日日曜日

Intermission 式場隆三郎のサイン

式場隆三郎とは、精神科医で著作家の文化人、民芸運動やゴッホの紹介など広く文化に関わり、特に山下清を世に出したとして有名です。
ですが、今日においての彼の評価は低い。
たしかに、山下清を見出したのは彼ではなかったろうし、どの分野でも傑出した研究や思想があったわけでもなく、また戦後の如何わしいカストリ雑誌等への掲載などあり、どこか山師的なイメージで語られやすい。
山師と言えば、土用の丑の日のプロデュースと言われる平賀源内や、アントニオ猪木対モハメド・アリをコーディネートした康芳夫、AKBの秋元康などがそう言われますが、式場隆三郎もそういった面があったと言えるのでしょう。
式場隆三郎著「ヴァン・ゴッホの耳切事件 」(1957年発行) 
サイン本。1958年なので60才の頃か。

しかし、そんな式場隆三郎だからこそ、語れるものがあるのではないでしょうか。
例えば、ゴッホや山下清をある意味で見世物として世に出した式場ではありますが、そういった美術という「見世物」を肯定したという点で、当時のそして現代の芸術家とそれに関わる人たちが持つ「高尚な美術観」に 一石を投じることができる人物と言えるのかもしれません。
戦後の「高尚な」アメリカ美術一辺倒となった美術界から無視された式場隆三郎ですが、美術ってそうなの?本当はそういうものじゃないの?という疑問を提示できる存在なのではないでしょうか。


また、彼が山下清絡みで批判を受ける事に、耳を落としたゴッホと同様に奇人として山下清を評しながら、戦中にはその自身の意見を黙殺したというのがあります。
戦時下では、国家に役立つものが評価され、ドイツの退廃美術のように、役に立たない美術への批判が高まります。
式場隆三郎は大正期特有のデカダンな美術観を封じ、時流に合せ保身に走ったというのがそれです。
しかし、当時の彼の言動を詳しく見ると、戦時下の式場は障害者にとっての美術の医療的な面を強調しだしたことがわかります。つまり「役に立つ」美術を。

これを保身に走ったと言えば、そうけかもしれません。
しかし、その2つの面は、現代の所謂アール・ブリュットの、そして美術そのものが持つものだとも言えるのではないでしょうか。
つまり、「高尚」でありながら、「見世物」であり、「奇人として」評価されながら、「医療として」評価される美術の ありようであり、それを体現する者が式場隆三郎だったと言えます。

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