かつて佐世保の八幡神社境内にありました村山義信銅像。
戦前の銅像カタログ「偉人の梯」によれば、大正13年に建立、鋳造者は「桑野元次郎」。高さ9尺、幅8尺6寸。工費に7400円
そして、建設者は「忠臣村山銅像建設会」となってます。
今回、その「忠臣村山銅像建設会」の建設寄附募集趣意書を手に入れましたので、紹介です。
銅像として建てられたのは、村山家の6代目、村山四郎義信です。
彼ら村山家は建武、延元、正平の時代に南朝の為、忠節を尽くした家柄として知られ、大正5年に特旨を以て正五位を追贈されたそうです。
この資料から贈位も契機となって、銅像建立の計画が立ち上がったことが読み取れます。
越後の村山家が、なぜ佐世保で銅像になるのかについては、こちらのブログで話されてます。
http://purapurasanwa.livedoor.blog/archives/20154828.html
『(越後の)頸城地域の地頭だった七代目 村山弥治郎隆義は歴戦し息子達と共に戦没。 しかし村山一族そのものは生き残り、謙信の父の頃は筒石城城主。景勝の頃は共に会津→米沢へ。鉄砲指南役になり明治期には砲台設置の関係で佐世保へ。』との事です。
越後の村山家が、なぜ佐世保で銅像になるのかについては、こちらのブログで話されてます。
http://purapurasanwa.livedoor.blog/archives/20154828.html
『(越後の)頸城地域の地頭だった七代目 村山弥治郎隆義は歴戦し息子達と共に戦没。 しかし村山一族そのものは生き残り、謙信の父の頃は筒石城城主。景勝の頃は共に会津→米沢へ。鉄砲指南役になり明治期には砲台設置の関係で佐世保へ。』との事です。
こういった、「土地」と「血筋」の関係から、村山家特定の人物の銅像とせず、「忠臣村山氏銅像」を建てるといった趣意になったのでしょう。
これが「村山義信」の銅像を建てるとなれば、彼の活躍した越後でない佐世保に建てる意味が薄まりますからね。
皇居前に建てられた楠木正成像と同様の偉人像を建てたい当時の佐世保の人々が「村上氏」とすることで建立を可能にしたわけです。
これが「村山義信」の銅像を建てるとなれば、彼の活躍した越後でない佐世保に建てる意味が薄まりますからね。
皇居前に建てられた楠木正成像と同様の偉人像を建てたい当時の佐世保の人々が「村上氏」とすることで建立を可能にしたわけです。
もし、これがもう少し時代を下っていれば、「村上氏」というイメージを表したモニュメントを制作していたのでしょう。
しかし、大正のこの頃は、銅像と言えばまだ一個の人物を描くものだという考えであった為、「村山義信銅像」となってしまったのでしょうね。
しかし、大正のこの頃は、銅像と言えばまだ一個の人物を描くものだという考えであった為、「村山義信銅像」となってしまったのでしょうね。
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