2019年3月4日月曜日

公共空間における日本初の女性裸体像

公共空間における日本初の女性裸体像は何か?

現在ではあちらこちらに見られる裸婦の銅像。
この国で、それが始めて建ったのはどこでしょう?

昨年のartscapeでの「彫刻を見よ——公共空間の女性裸体像をめぐって」の記事に、『『電通 一〇〇年史』および『電通創立五十周年記念誌』によれば、この《平和の群像》こそ、この国の公共空間に初めて誕生した女性裸体像である。』とあります。
http://artscape.jp/focus/10144852_1635.html
この電通の記述から感じるのは、「裸婦を公共空間に設置できる新しい日本」つまり戦前と違うという、この像に込められたプロパガンダです。
当時、この像を設置する意義として、この政治性が必要だったのでしょう。
政治性を帯びたモニュメントと言う意味に於いて、この裸婦像は戦前と変わりません。
「彫刻を見よ——」の記事の中でも、その首を接げ変えただけの日本の裸婦像のあり方を指摘しています。

では、首を接げ変える前の銅像、戦前の銅像に裸婦は無かったのでしょうか?

戦前の日本の彫刻家に於いて、彫刻は野外に設置するものだという認識があったようです。
例えば朝倉文夫の塾では、草木と共に彫刻を設置しました。
ただし、石膏のままでは野外の設置は難しく、実際に野外展が行われた記録は、私の知る限りではありません。

では石像ならどうでしょう?
たしか、北村四海だったと思いますが、彼の大理石の裸婦像を家の庭に置きっぱなししていたら、それが盗まれたとか。
庭なので公共空間とは言えませんが、それでも外から見ることの出来る場所に裸婦像はあったと言えます。

また、公共空間とは言えないし、全裸でもありませんが、博覧会場での裸婦像というのはあったようです。
これは、1936(昭和11)年に、私の地元岐阜で行われた「躍進日本大博覧会」絵葉書です。

wikiによると、『1936年(昭和11年)3月25日~5月15日(52日間)に開催。会場は岐阜公園及び長良川流域。入場者総数は約193万2,000人。
展示館は30~40館あったという。岐阜県館、岐阜市館、郷土館、愛知名古屋館、近代科学館、国防館、台湾館、満州国館、朝鮮館などがあった』とあります。

この絵葉書から想像するに、博覧会と言った限定された場所と期日であったこと、海外の裸婦像の様に噴水として庭園に設置されていること、または半裸の観音像といった様相であることから、当時における裸婦像の設置が許可されたのではないかと思います。

残念ながら、作者は不明です。
この博覧会が行われた岐阜公園には、畑正吉による板垣退助銅像がありました。
とすれば、これも畑正吉作品なのでしょうか?
https://prewar-sculptors.blogspot.com/2016/06/blog-post_25.html

明治から昭和初期まで、各地で行われた博覧会会場に於ける彫刻には、多くの彫刻家が関わったようなのですが、まだまだ調べが足りてません。
そこには他にも裸婦像があったかもしれませんね。

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