2021年4月5日月曜日

第一回鮮展入選 土屋義豊 作「W君ノ顔」絵葉書

鮮展は日本併合下の朝鮮で開かれた官展で、1922年に第一回展が行われました。
日本の官展に倣い行われましたが、特徴として再帰的なパトリズム、現地人が西欧だけでなく日本を通した目で見られた郷土を描くという込み入った美意識の上で表現が行われます。

この「土屋義豊」氏の名は、第4回鮮展にもあることから、当時の朝鮮で仕事をされていた作家だと思われます。
ちなみに第4回展では、土屋義豊の「若キ樂人」他に
岩永龍太郞「顏 」、
山田嘉一郞「或ル女ノ像顏 」、
田鳳來「髮 」、
金復鎭 「三年前 」
寺畑助之丞「編物する女」「M子の顏 」が出品されたようです。
構造社の作家の寺畑助之丞は、鮮展の第2~4回評議員及び審査員を、同第5回参与及審査員を行っています。

 土屋義豊という作家については、これ以上わかりませんでした。
どこかで情報に出合えば、またブログで紹介していきたいと思っています。

鮮展についてネットを漁っていたら、朝鮮で育ち、新潟で亡くなった戸張幸男という作家を知りました。
https://kinbi.pref.niigata.lg.jp/pdf/kenkyu/2011/11koseongjun.pdf

この論文には、戸張幸男について『1945年の日本の敗戦と朝鮮半島の解放をきっかけに朝鮮におけるキャリアが否応なしに断絶してしまったため、その結果朝鮮滞在期の制作活動については、日本においても韓国においてもこれまで省みられることはなかった』とあります。
政治的なもので「美術史」は断絶されます。
日本美術史の範囲は、政治による恣意的なものでしかないことがわかります。

この論文を書いた高晟埈という学芸員は、私と同い年でありながらかなり面白い仕事をされていて、
「民衆の鼓動―韓国美術のリアリズム 1945-2005」、「日韓近代美術家のまなざし―「朝鮮」で描く」等の朝鮮と日本とを結ぶ展覧会を行っています。
ですが、2015年のトルコのカッパドキア壁画調査旅行中に亡くなったそうです。
残念です。

この方や、私がまだ作家をやっていたころに一度だけお世話になったアナーキーなインディペンデントキュレーターの東谷隆司とか、朝鮮と日本とを文化で繋げる仕事を実直にやられている方はいらっしゃると思います。
それが政治で分断されたとしても、そこにある人と人の仕事は、戸張幸男を再発見した高晟埈の仕事のように、いつか繋がっていくのだと、そう思いました。

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