彫刻家、中原悌二郎について書かれた本を読む。
彼は自然を美と捉え、その美を写し取る作業が彫刻制作であると考えていたようです。
この自然賛美と美術の概念は高村光太郎も同様でした。
この考えを彼らに伝道したのは荻原守衛であり、その荻原に伝えたのはロダンです。
荻原守衛が日本に戻ることになり、師であるロダンに今後どう勉強をしていったら良いかと問い、ロダンは、自然を師としなさいと答えます。
彼ら彫刻家にとって、自然の美を写すとは、単にそのままを写実することでなく、その存在の深意までも写すことを意味しました。
それは、文学で言えば自然主義文學に近いものがあると考えます。本物の美とは、美しく着飾ったものを言うのではなく、対象そのままを描くことだと。
その為に、 荻原守衛や中原悌二郎ら、日本美術院系の作家には、美人を美人に描く作品が無く、グロテスクとも言うべき生の姿を描いた作品、彫刻が多いのです。
ロダンで言えば花子の像がそうでしょう。
その思想の源流には、例えば松尾芭蕉の句などがあるのではないでしょうか。
古池や蛙飛びこむ水の音
この、ありのままを描いた句には、禅、つまり仏教のの影響があります。この句には、「自然」とそれを読む芭蕉との境界が失われています。
そして、この句を評価したのが、自然主義文学に影響を受けた正岡子規です。
つまり、この美意識はロダンから鞭撻されなくても、当時の日本の知識人たちの間で認識されだした美意識だったのだろうと思われます。
もしかしたら、ロダンにとっての「自然」は、荻原守衛や中原悌二郎、正岡子規のいうそれとは違うものだったかもしれません。
ともかく美しい「自然」を認識しだした荻原守衛や中原悌二郎は、その美が存在するものとして自国の仏教美術を見出します。
また、日本の女性美や文字通りの山や森といった自然に美を見出します。
ただし、そもそも開国前の日本人には、欧米のような「自然」観はもっていませんでした。
花や木を愛でてはいましたが、ことさらそれを目的化、堅苦しい「美」意識として認識していませんでいた。
山登り、ハイキング、風景画を描きに出ること、すべて外国からの影響で行われるようになったことです。
「自然」は、その認識を持つ者にとって、そこを中心に同心円的に広がりを持ちます。
つまり、「自然」を認識した者にとっては、自身の顔や姿から、伴侶、家、生まれた場所や住んでいる地域...とそれらを美と感じる範囲が形成されていくのです。そしてそれは日本という国土まで広がります。
つまり何が言いたいかというと、外国からもたらされた「自然」の美という認識によって、日本人は日本という国土を認識し、それを美だと感じるようになったのだと。
愛国心は身の回りの世界を愛することから始まります。
「自然」という言葉を手に入れた日本人は、その愛の向ける先を手に入れたということなのでしょう。
日本人にとって日本の国土と国家は同義語です。
愛国心は愛国家心になります。
その姿を、戦時の高村光太郎に見ることができます。
荻原守衛や中原悌二郎は戦争前に亡くなっているから、そこまでの愛国心は見せませんでしたが、もし生き残っていたらどうなっていたのか。
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