小倉右一郎は1881(明治14)年生まれ。東京美術学校卒業後、大正5年のに「闇路の人々」が特選となるなど官展に出品し、高く評価されます。
以前紹介しました絵葉書問題で書いたように、近代彫刻の指導的な立場としても活躍されます。
数多くの銅像を制作、官展の作品評などで多くメディアにも登場します。
しかし、今日の近代美術史に彼の名前を見ることはあまりありません。
彼の同期だった朝倉文夫や藤井浩佑らの影に隠れてしまっている印象です。
上記の絵葉書は小倉右一郎作、第七回帝国美術院展覧会出品「蜜」。
上野公園内にある国際子ども図書館前、小泉八雲記念碑にこの作品が使われていますが、どれくらいの人が小倉作だと知っているのでしょう?
その理由の一つは、後進の育成です。
教育においては、あの朝倉文夫より勝っていたように思えます。
滝野川彫塑研究所等で彼に指導を受けた彫刻家は、「陽咸二」「中野四郎」「松木庄吉」「津上昌平」「山畑阿利一」など。
朝倉文夫や北村西望、建畠大夢のように母校東京美術学校で教鞭を取れなかった小倉ではありましたが、彼の教育力は確かなものだったと言えるでしょう。
戦後、小倉右一郎は、高松工芸高校長に就任、その教育力を発揮します。
また、東京都横綱町にある関東大震災の災害を偲んで建てられた、小倉右一郎作の震災遭難児童弔魂像は、戦時の金属回収令により撤去されましたが、昭和36年に弟子の津上昌平と山畑阿利一によって再建されています。
こういったことからも、小倉の人徳を感じます。
小倉右一郎の作品には、児童が多い。そこにも彼の教育への思いを感じることができます。
こういった児童の像というのは、この時代以降もそれほど多くの彫刻家が手がけているわけではありません。
戦前後も裸婦や雄々しい男性像に需要があり、子供の像といえば二宮金次郎像くらいなものです。
特に今日では、このような裸の像はほぼ不可能なモチーフだと言えるでしょう。
戦争彫刻のように、ここにも消えた彫刻(のモチーフ)があるわけです。
一番上の絵葉書は、昭和7年の小倉右一郎による残暑見舞い葉書です。
制作中の作品は弘法大師空海像で、現在、故郷香川県の満濃町神野寺にその銅像が建てられています。
板橋区大山に、小倉右一郎作の大きな渋沢栄一の銅像があります。
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