かつて高山公園(現高山城跡城山公園)にあった廣瀬中佐の銅像です。
「杉野! 杉野はいずこ?」と究極超人あ~るで鳥坂先輩が叫んでましたが、私がこれを読んでいた当時は中学生、元ネタなんてわかりませんでしたよ。
さて、そんな廣瀬中佐こと廣瀬武夫は、日露戦争の英雄です。
大分出身の彼は、飛騨高山にて子供の時期を過ごします。
この銅像は、その小学校の同窓生によって明治38年に建てられたものです。
明治40年には東京神田の万世橋にも廣瀬及び杉野両名の銅像が建てられますが、これを制作したのは彫刻家渡辺長男。
そして、それより先に制作された、この高山の銅像もまた渡辺長男によるものです。
渡辺長男は廣瀬中佐と同じ大分の出身。それゆえに白羽の矢が立ったと思われます。
この廣瀬中佐の銅像は、昭和18年の金属回収で撤去されます。
その時、同じく回収されたのが、高山市東国民学校にあった幼年期の姿を描いた銅像で、作者は地元の医者にして彫塑家の中村清雄。
回収された公園内の銅像は、実は現存しています。
昭和42年に復元されたのですね。
しかし、よく見ると、この復元された銅像と、当時のものとでは形が異なるようです。
当時の銅像をもう一度見てみましょう。
たしかに台座は当時と同様のようです。廣瀬中佐の姿は、勲章を身につけた正装に、特徴的なのは立派な顎ひげ。
万世橋の銅像には、こんな顎ひげはありません。
どうやら同窓生たちに求められ渡辺長男が、その姿をさらに立派に盛ったのではないかと思われます。
この勲章たちも死後に得たものかもしれません。
この銅像の原型が無いために、現在の銅像の姿で作り直されたのでしょう。
死者を立派に描きなおすという思想は、直接死者に行う死化粧や、死後の結婚を描いた山形県の「ムサカリ絵馬」、たぬき寺の軍人像の姿など、死者との繋がりが深ければ深いほど行われたものだと思います。
遺族にとってはできるだけ立派な姿でいて欲しい。
しかし、明治期以降に「リアリズム(写実主義、自然主義)」という考えが浸透していく中で、銅像制作を行う彫刻家はその均等を図るようになっていったのではないでしょうか。
朝倉文夫は「銅像に聴く」としたエッセイに中でこう述べています。
『故人に対する家族の印象というものは、案外あてにならぬものだ。一つの像を廻ってその、未亡人と子供とでは印象が違う。又兄弟でも。女と男で異なり、長男と末っ子で違う。』
銅像制作中にあれやこれや言う未亡人に対し
『「奥さんはご主人の像が動けばいいでしょう」「そうです」「動いた上に、お話が出来たら猶いいでしょう、併し彫刻ではそうは行きませんよ」などと、ある程度で止をささぬと制作が出来ない事すらある。』
つまり、死者と交わりがあるが故に、その像の姿は変わっていくと言うことです。
この戦前の廣瀬中佐の銅像もまた、単なるモニュメントではなく、死者としての廣瀬武夫を描いた物であると言えます。
死者とは、現在の私たちに繋がる者です。
廣瀬武夫と私たちは繋がっている。
そいった思いに馳せるためにも、当時作られた銅像の姿で、現在の高山市に建っていればと思ってしまいます。
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