まず一つは、アルノ・ブレーカーの作品に見られる、人体の理想化がそうだと言えるでしょう。
ナチスは、支配人種としての自身をイデオロギーとし、それを視覚的な肉体美として表現します。
近代的民族意識と肉体の造形とが結びつくのですが、そういったことは日本ではあまり見られません。
もちろん、後の三島由紀夫のように皆無ではなかったでしょうが、こと彫刻に関しては、それを目的とし、完成させることが出来たとは言えないでしょう。
公共の場に設置された銅像の類で言えば、飛び出す絵本とでも言えるような彫刻しかありません。
ただ、たしかに齋藤素巌や藤井浩祐のように、それを目指した彫刻家もいました。
例えば、朝倉文夫は、昭和17年発行の著書「民族の美」で、「日本民族の誇り」と題して、
「造物主が人間を造ったとすれば、我々日本民族が計数的に都合よく、最も理想的に作られていて、また我々先祖の生活が神の御意に即していたために、その理想の体躯が今に伝えられているのだと思う。 これは我々の高く誇りとしなければならない点である」
と、 日本人としての肉体美を語っている。
また、同じ著書の「日本女性の身体美」では、日本人の女性美を、その体格、骨格から語っています。
上の絵葉書は、「民族の美」にも掲載された朝倉文夫による「新秋の作」です。
この作品を見るに、朝倉文夫の描く女性美とは、しなりのある浮世絵的で古典的な大和撫子のようです。
たしかにそれは日本人のイメージする民族的身体ではあるかもしれないが、アルノ・ブレーカーがそうであるような近代性は感じさせません。
民族意識が近代の所産であるからには、近代的な「自我」を持つ身体でなければ、民族の身体とは言えないでしょう。
ブールデルに学んだ清水多嘉示は、そういった「自我」を持つ日本人の身体を西洋技法で表現しようと試みますが、どうしても日本人離れした造形になってしまい、非難されます。
西洋では、神の姿に似せて作った人間の身体そのものに、美を見出しますが、日本人は芭蕉の句のように身体性を表に出しません。
それが、日本人としての理想的身体を生み出さなかった理由かもしれません。
また、明治初期の彫刻家、大熊氏広だったと思うのですが、日本人の体格は彫刻にするには醜いとか、そういったことを言っており、日本人は自身の姿に、劣等感があったことも確かだろうと思います。
なにより、近代的民族意識そのものを日本人が持てなかった、表現できるまでに至らなかったというのが一番の理由かもしれません。
柳田國男らによって提唱された民俗学とは、日本人の国民としての自意識や自我の高まりを啓蒙し、近代化を図る思想でした。
そういった思想を日本の彫刻は取り入れることができなかったのでしょう。
しかし、彫刻家による研究は立ち止まっていたわけではありません、この時代、そういった近代的民族意識を持つ彫刻の始まりとして、日名子実三の「サイパン」や、堀江尚志の 「少女座像」が上げることができるでしょう。
前者は、物語的ではありますが、戦争を自分のものとした意思を感じさせる女性像で、後者はそういった意思や自我を、正面を見据えたシンメトリーの像という形に乗せて表現しています。
そして、そんな戦前に完成できなかった日本人の身体美は、戦後に佐藤忠良や舟越保武、朝倉響子らによって一つの形を成します。
近代的民族意識と肉体の造形とが結びついた作品が、戦争が終わってようやく実を結びます。
彼ら戦後彫刻家は、一番アルノ・ブレーカーに近いと言えるでしょう。
勿論、彼らを生み出したのは、戦前からの研究があったらです。
つまり、日本の「戦争彫刻」は戦後において完成したと言えるのではないでしょうか。
0 件のコメント:
コメントを投稿