2012年11月28日水曜日

「帝展絵葉書で市が板ばさみ」


第6回帝展を間近に控えた大正14年10月7日、東京朝日新聞に「帝展絵葉書で市が板ばさみ」と見出しが出る。

「商人の暴利の暴利の種にされたり、無責任な寫眞にして売られたり、さうした藝術観念に乏しい彫刻寫眞又はエハガキの防止し一方出品作家作家相互の為にとて、昨年帝国彫刻部では監査委員を中心とし、出品者九十数名を會員として彫刻寫眞領布會を組織し彫刻家自身の手でエハガキを売り出し千五百圓からの純益があったが、サテ今年はこの十月二日美術寫眞商下山金一郎氏が美術寫眞はん布會を独立し朝倉文夫、北村西望その他彫刻家五六十氏作品撮影はん布その他一切の件に関する委任状をつけて本田市会議員紹介で市公園課に対し會場出口において販売の許可を申請して来た所が昨年のはん布會代表者小倉右一郎氏は之また昨年の継続事業の意味で同士五十二作家の委任状をつけて本月五日同様許可申請をして来た、市役所でも両方ながら芸術家が賛同して居るので許さないわけにも行かず、下手に許せばお役所がけんかの仲介をするようなことになるかも知れずしきりに研究中である。」

つまり、朝倉文夫らが、前年小倉右一郎らによって組織された絵葉書頒布会の許可なく、勝手に違う販売者を立てたのだ。

同新聞での「共同資金を得るため 小倉氏は語る」として小倉右一郎の主張
 「私達が昨年會を設立した所以は営利商人の暴利と無意味な寫眞を防ぐ一方彫刻家相互の冠婚葬祭をも思ひ共同資金を得たく企てたので三割を買れた作家に呈し合作家の慰労懇親會と同作家全部に對し総出品作百五枚宛の寫眞ハガキを配つてその大部分を買ひ、五十圓を故川崎繁夫氏の弔慰金に呈し、残金百圓足らずは銀行にあずけ今後の同會資金に充てゝ居る、會は解散したのでもなく假令年毎に作家は變つても同會事業はつぶれるわけではない、この際又新しい會が出来たのは致し方ないことしてそれが過つて欲得事業にのみ解襗されることを恐れるばかりである」
と自身の領布会の正当性を語たった。

それに対し朝倉文夫は以下のように反論する。
「昨年の會には私も相当骨折りをしたが、設立された実際は芸術寫眞の配布でもなく、體裁のいゝヱハガキ屋に過ぎなかつた、當時から私は不満を持つてゐたが別段申合わせもなく、今年はもう同會は解散したものと思つてゐた、所がこの間下山氏が今年こそ眞に評判のいゝ寫眞を配布するから参加してもらい度いとすゝめられ委任状を渡したまでゝ小倉氏のことは一切知らないでゐたわけ、そんなことに名をひつぱり出されるのさへ不愉快で堪らない」。

 以上の文章を読んだだけでは、手違いと、朝倉文夫の独断によって問題が起きたように思えるが、朝倉文夫が昨年の頒布組合の代表者であり、同じく東台彫塑会を背負ってきた小倉右一郎の立場を知らないことはなかっただろう。
結局、小倉右一郎の彫刻寫眞領布會が解散することで、このドタバタに膜を下ろすこととなるが、しかし、問題はこの両者の争いだけに留まらなかった。
続く...

写真は、僕のコレクションで一番古い絵葉書、1912年(大正元年)第六回文展出品 山崎朝雲作「山育ち」

2012年11月26日月曜日

絵葉書に就いて

今日の主役は、絵葉書そのものです。

日本の絵葉書は、1900年(明治30)から使用が認められます。
1905年、日露戦争の勝利の記念に販売された絵葉書が一大ヒット商品となり、絵葉書ブームが起こります。
街道に絵葉書専門店が建ち、郵便だけでなく、記念品として、お土産として、宣伝用のメディアとして、またはコレクションとして絵葉書が用いられるようになります。

1907年(明治40年) 第1回文部省美術展覧会が開催され、ここで作品を印刷した絵葉書が販売されます。
当時の官展は国の一大行事であり、国民の大きな注目を集めるものでした。一箇月の開催期間に、のべおよそ4万人の入場者があり、販売された絵葉書もこれまた大ヒット商品となります。
ただし、当時は著作権などの概念の無い時代ですから、作者の許可なく勝手に販売されていたようです。
これは貧乏彫刻家にとって、死活問題であり、後に彫刻家同士が組合をつくり販売を始めようとするのですが、ここでまた問題が起こります。この話は次回。

写真の絵葉書は1924年(大正13)第5回帝展の彫刻群。
袋には「▽研究参考として現代無二である! サロン彫刻 名作集」とあり、「≪性≫赤堀信平」「≪快感≫開発芳光」「≪女≫北村」正信」 「≪影≫中谷宕運」「≪踊≫日名子実三「≪陽春≫金子久次郎」」「≪粧ひ≫小倉武生」×2枚 と、合計で8枚のセットとなっています。
すべて裸婦像。当時、こういった彫刻はポルノとしての意味合いもあり、だからこそ 「研究参考として現代無二である!」なんて強調してるんでしょうね。



2012年11月20日火曜日

日名子実三 原型「国民精神作興体育大会参加章」メダル

物語のメダルってことで、猿、雉子、犬をお共に連れた桃太郎さんのメダルです!

昭和13年、幻となった東京オリンピックに代わり行われたが、このメダルが用いられた「「国民精神作興体育大会」 。
そのシンボルとしての桃太郎です。
Wikiには「太平洋戦争の際には桃太郎は軍国主義という思想を背景に、勇敢さの比喩として語られていた。この場合桃太郎は「鬼畜米英」という鬼を成敗する子としてスローガンに利用された。戦時中には孝行・正義・仁如・尚武・明朗などの修身の徳を体現した国民的英雄として...」とあるのだけど、こういうイメージを与えてしまう「桃太郎」という物語が興味深い。

元来、物語というのは意味を持たない。宮沢賢治の「やまなし」のように、純粋な物語であればこそ、意味を持たない。ゆえに、それぞれの語り部を通して、それぞれに伝えられるのが物語。
「桃太郎」もそうであり、よって歴史の中で逆説的に「意味」を与えられ、こういったメダルとして象徴的に扱われることもあるのでしょう。

2012年11月19日月曜日

陽咸二 原型「国際広告写真展覧会」メダル



陽咸二の亡くなる5ヶ月前、昭和10年4月に行われた東京朝日新聞社主催「国際広告写真展覧会」のメダルです。
陽咸二らしい、遊び心溢れた造形で、お伽噺のような物語を感じさせるレリーフになっています。
日名子のメダルと比べると、同時代にあっても、その作風の違いがわかるかと思います。
陽咸二の方が足取りが軽いんですよね。おちゃらけてると言うか。御洒落と言うか。
日名子や素巌と同じく西洋の彫刻に影響を受けながらも、陽咸二的と言うしかない独自の世界があるんですね。
このレリーフは、原型が東京国立近代美術館に所存されています。
一度、このメダルと並べて見てみたいです。


2012年11月18日日曜日

Intermission

今日は、ちょっと休憩して彫刻ではなく、戦前の写真とその絵葉書を紹介します。


日名子の広告写真展 のメダルで紹介したように、大正から昭和初期にかけて、写真が記録だけでなく、表現の媒体、アートとして認識されだします。
この絵はがきたちも、公募で賞を得た作品でしょう。
3枚とも、子供を写したものです。いつの時代も子供は、良きモデルだったんでしょうね。

2012年11月11日日曜日

日名子実三 原型「日独対抗陸上競技メダル」 

 1929年(昭和4)に、後に同盟国となるドイツと行われた陸上競技大会のメダルです。
原型は日名子実三。 
天岩戸のワンシーンである、アメノタヂカラオによって岩戸が開けられる姿が描かれています。
アメノタヂカラオは、腕力・筋力を象徴する神であり、スポーツのことだけでなく、ここには日本の「力」の誇示といった意図をがあるようにも思えます。

さて、 近代の中で「神」の御影を描くにあたり、古来の日本の技法でなく、この像にみられるような西洋的な技法を用いられるようになります。
より直接的で肉体的な姿によって、日本の「神」が描かれます。
絵画で言えば、原田直次郎の「騎龍観音」や中村不折の描く「神」像、岸田劉生の「麗子像」なんかも、こういった和洋折衷の「神」の御影だと言えるでしょう。
そういった神話の世界が、西洋的な方法で表現されることに違和を感じるのですが、当時はどうだったのでしょう?この違和感そのままに「新しさ」または「モダン」として受け入れられたのかもしれません。だからこそ、日名子の描く「神」像に需要があったのだと思います。
ただし、絵画による「神」像の技法は、「戦争画」として完成されますが、彫刻においては、このまま戦後を迎え消えていくことになります。

2012年11月8日木曜日

神像の絵葉書

前回紹介しました明治神宮大会のメダルの原型師、畑正吉と日名子実三との違いは何か。
一つは年齢、畑正吉は明治15年生れ、日名子実三は明治26年生れでおよそ10年の差があります。
そして、その作風を見れば、畑正吉が日本の古典的な彫刻法を受け継いでいるのに比べ、日名子は西洋風の彫塑法。
何より違うのが、畑正吉がモンタージュ的なイメージを描いているのに対し、日名子実三が今で言うキャラクターを描いている点にあると言えます。
では、どんなキャラクターを描いているかと言えば、それは日本古来の「神」の御影。

明治政府によって「神道」は国教となります。廃仏毀釈が起こり、佛像などが破壊されます。
日本の神々は元来、キリスト教などのように固定されたイメージの姿を持ちません。薬師寺の「仲津姫命」などありますが、佛像に比べれば遥かに少ない。しかし、明治以降、民衆の間で神像への需要が高まり、制作されるようになります。
彫刻家たちは、その西洋からの技法を用いて、より人体に近い「神像」を制作するようになります。
有名のは、竹内久一 (1857-1916)が明治23年に制作した3メートル弱もある木彫の「神武天皇像」です。
他にも多くの近代「神像」があるはずなのですが、美術史で語られることは皆無です。
現代の宗教からかけ離れた美術観もその理由の一つでしょう。また、戦争によって「神道」アレルギーもあるでしょうし、作品そのものが戦争によって失ったというのも理由でしょう。

 このブログでは、そんな近代「神像」も少しづつですが紹介していきますが、とにかく情報が少ないのが悩みです。

 「天の浮橋御像」大日本神像奉彫會謹作
 この「大日本神像奉彫會」が何なのかまったく謎。

出雲大社什物稻田姫の神像



2012年11月6日火曜日

明治神宮競技大会のメダル

高嶋航著「帝国日本とスポーツ」を読み終わる。
 「帝国内の明治神宮大会と帝国外の極東大会の系譜をたどり、帝国内外のスポーツを結集して大東亜会議に連動して催された第一四回明治神宮国民錬成大会の実態を明らかにし、近代国家に翻弄されたスポーツの歴史をふりかえる。 」と紹介されるこの本は、 戦時下の日本をスポーツを通して立体的に浮かび上がれせます。
こんな凄い本を読むのは久しぶりです!

今回は、この本でも紹介されてました明治神宮競技大会の参加メダルを紹介します。
1924年(大正13)に明治神宮競技大会として始まった当時日本最大のスポーツの祭典は、「明治神宮体育大会」「明治神宮国民体育大会」「明治神宮国民練成大会」と名を変えながら、1943年(昭和18)まで行われます。どうして名前が変えられたのかは、上記の本をごお読みください。

このメダルの原型は、メダル彫刻の第一人者である畑正吉や「構造社」の日名子実三、齋藤素巌らが行なっています。

 
1924年(大正13)第1回 明治神宮競技大会

左:1925年(大正14)第2回 明治神宮競技大会
右:1929年(昭和4)第5回 明治神宮体育大会 (原型/畑正吉)

左:1931年(昭和6年)第6回 明治神宮体育大会(原型/齋藤素巌)
右:1933年(昭和8)第7回 明治神宮体育大会(原型/日名子実三)



 1937年(昭和12)第9回 明治神宮体育大会(原型/進藤武松)


 左:1939年(昭和14)第10回 明治神宮国民体育大会(原型/日名子実三)
右:1940年(昭和15)第11回 明治神宮国民体育大会 (原型/日名子実三)



 左:1941年(昭和16)第12回 明治神宮国民体育大会(原型/日名子実三)
右:1942年(昭和17)第13回 明治神宮国民練成大会(原型/日名子実三)

 1943年(昭和18)第14回 明治神宮国民練成大会(原型/日名子実三)


 「帝国日本とスポーツ」でも書かれてましたが、メダルの素材がどんどんしょぼくなっていくんですね。銅から、合金、陶となって最後はアルミです。1942年の第13回メダルは素材がわからないくらい錆びてしまっています。このメダルで錆の出てないものは今のところ見たことがありません。

面白いのは、畑正吉の真面目な作から、日名子への流れです。昭和の頭には他の「構造社」の作家も参加していますが、最後は日名子の独占の仕事となります。当時の日名子の人気と力を感じます。

個人的に好きなのは、1933年(昭和8)第7回、日名子実三原型のメダルです。蹲踞する神は「野見宿禰」です。相撲の神であり、埴輪の創始者と言われています。

2012年11月5日月曜日

戦前のモニュメントについて

 明治維新後、欧米の文化に倣い、日本に「銅像」が建てられます。しかし、それは銅で作られた佛像のようなもので、特定の人物などを拝することを目的とし、所謂モニュメント、記念碑的なものではありませんでした。

そこで、建築物と彫刻との融合としての「モニュメント」を研究したのが、齋藤素巌や日名子実三率いる「構造社」でした。
日名子は、「帝都復興審議会」の復興計画の一つである1934年(大正13年)に開催された「帝都復興草案展」の「大震災火災記念営造物草案懸賞規定」という懸賞競技に「死の塔」と「文化炎上碑」を出品します。それらは人体(裸婦像)と建築物とが有機的に組み合わさった構造体で、「構造社」の標榜する「彫刻の実際化」を示すモニュメントでした。
斉藤素巌は『日本の彫刻家達は、構成や総合が嫌ひなのか、その技術に堪へ得ないのか、少しもモニュメンタルな方面へ動かうとしない。今年の試みが成功であるか、失敗であるかしらないが、こうした研究を等閑に附してゐた方が間違っていることは確かである。』と「モニュメント」の時代であることを宣言します。

「構造社」だけでなく、日名子実三が移った「国風彫塑会」において日名子は「八紘之基柱」に「航空表忠魂」「上海陸戦隊表忠塔」を発表、同じ構造社であった濱田三郎は「詩人の碑」、池田優八は「軍用動物記念塔」を発表します。
森大造、中野四郎、村井辰夫、長沼孝三らの「九元社」や、「新制作派協会彫刻部」が新設された「国画会彫刻部」もまた共同制作によるモニュメントの研究し、発表を行います。
本郷新は「彫刻家の課題」と題し、建築と彫刻は『不可分の構造的総和として一元化しなければ』ならないと言い、彫刻の建築的役割の有用性を説きます。若い彫刻家たちにとって「モニュメント」とは、新時代の彫刻として情熱を傾けることのできる表現媒体であったのでしょう。

 社会においては、昭和初期、同盟国独逸ではヒットラーの司令の下に、ベルリンの街に巨大なモニュメントが建ち並びます。日本もまた「役立つ美術」「目的を持つ美術」といったプロパガンダに用いられる戦時下の美術として、「モニュメント」と言う彫刻家の新しい仕事に注目が集められるのでした。

陸軍美術展(昭和19年3/8~4/5) パンフレットより

 圓鍔勝二(会員)    大東亜建設碑(香港)縮尺1/500

笠置季男(会員)    ブキ・テマ戦跡記念碑(部分)縮尺1/10

古賀忠雄(会員)    ジャカルタ(大東亜建設記念碑)

中川爲延    大東亜建設碑(新京)(縮尺1/100)

 長沼孝三(会員)    聖戦記念碑(ラバウル)(縮尺1/40)

2012年11月2日金曜日

日名子実三 作「八紘之基柱」絵葉書




 

前回の「護国亀鑑」盾が世に出た1939年(昭和14)、日名子が同時期に血肉を注いで制作していたのがこの「八紘之基柱(あめつちのもとはしら)」です。
翌年の1940年は紀元二千六百年。その為の奉祝事業として宮崎県にある宮崎神宮に「八紘一宇の精神を体現した日本一の塔」を建てることが決まり、それに名乗りを上げたのが大分県出身の日名子実三でした。
14年3月に日名子は原型を完成させ、同年5月より起工。国内だけでなく、遠くは朝鮮や上海からも石垣のための石が送られ、述べ6万人の奉仕者が参加。同年11月に竣工となりました。
日名子によれば「楯と御幣の形を併せ、しかも葦牙(あしかび)の如萌え騰る感じ」を表したこの塔は、高さ37メートル、中央に「八紘一宇」の文字、四方に信楽焼の神像が配されています。




 四方の神像
「工人トシテ權現セルモノ」とあり、技術者を示している、「和御魂(にぎみたま)」像。
「武人トシテ權現セルモノ」とあり、剣と盾を持つ 「荒御魂(あらみたま)」像。
「漁人トシテ權現セルモノ」とあり、恵比寿神のような「奇御魂(くしみたま)」像。
日名子自身の娘をモデルとしたとされる「幸御魂(さちみたま)」の母子像。









内部にある日本建国を表現したレリーフ。「大国主命国土奉還」「天孫降臨」「鵜戸の産屋」「橿原の御即位式」「明治大帝御東遷」最後は「紀元二千六百年」を表したレリーフで終わる。この「紀元二千六百年」レリーフは戦争の時代と神、国土と歴史を1枚で表した作品だと思います。

この塔は戦後、「平和の塔」という左翼からしたらまったく反対の意味の名前が与えられ、「八紘一宇」の文字と武人の象徴であった荒御魂(あらみたま)像が撤去されます。後に修復、復元され、現在は宮崎県の観光名所となっています。

こういった塔、いわゆるモニュメントは、戦時下の彫刻家たちにとって新しい試みとして研究され、いくつかの美術展覧会で発表されました。ただ、戦時下にこのような大規模な事業がそうそう出来るわけでもなく、忠霊塔のような建築物と比べると現実に制作されたモニュメントは少ない。しかし、ここで研究されたモニュメントの思想が、戦後の彫刻界に影響を与えたことは確かだろうと思います。
そんな戦時下のモニュメントについて次回は書きたいと思います。

2012年11月1日木曜日

日名子実三 原型「護国亀鑑」盾


今日は、日名子実三原型のレリーフの中でも、特につまらない作品を紹介します。
この「護国亀鑑」盾は、戦時中、一家族から二人以上の戦死者を出した家庭に国から贈られたものです。
神戸大学のアーカイブに当時の新聞記事がありました。→こちら
「亀鑑」 とは『行動や判断の基準となるもの。手本。模範。』といった意味で、国家に殉じた人たちを指すのでしょう。
こんなの貰ってどうなるものかとも思いますが、賜って救われる人もいたでしょうし、 複雑です。

描かれているのは靖国神社です。この面白みのないモチーフは、日名子実三の作品の中でも異例で、左端にはこの作品以外で見たことのない落款があります。
依頼主である国家から、モチーフに対して注文もあったでしょうが、それにしてもつまらない。
もしかしたら、死者の為に贈られるこのレリーフの制作が、日名子の手に負えなかったんじゃないかとさえ思います。

現在の靖国神社の遊就館には日名子の彫刻がありますので、興味のある方は是非。

ちなみに、レリーフと一緒に朝香総裁宮殿下の表彰状が贈れれましたが、その朝香宮家の本邸は、現在東京都庭園美術館になっています。
「舟越桂 夏の邸宅」展の時に行ってきましたが、素晴らしい場所ですね。