2024年2月12日月曜日

小倉一利 塑像領布会 会員芳名録 安藤照推薦文

彫刻家小倉一利の塑像領布会会員芳名録になります。
10年前、私がコレクションを始めたころに手に入れ、以来とても大切にしているものです。
その頃のブログでも紹介しましたが、今回再度皆さんにお目にかけたく、引っ張り出してきました。

この芳名録は、昭和7年に書かれたようですね。
彫刻家安藤照による趣旨、次に賛助員、小倉一利の言葉と履歴、そして彼の作品絵葉書が貼ってあります。


それによると、小倉一利は昭和2年に東京美術学校彫塑科卒、朝倉塾生を経て塊人社で研究を重ね、昭和2年第八回帝展に入選、その後も入選を続ける新進気鋭の彫刻家であったようです。
彼についての情報はネット上にはほとんどなく、国会図書館でも茨城出身というくらいしか見つかりません。
また、小倉政二というのがどうやら本名のようですね。
調べて分かるのはここまででした。



小倉一利の履歴で面白いのは、塊人社に参加したことですね。
塊人社は反朝倉文夫派で、安藤照や堀江尚志、松田尚之らが参加しています。
ただ、その後は官展を中心に出品しているので、塊人社からは離れたようですけど。
昭和19年までの消息は追いかけられたのですが、以後はわかりませんでした。
終戦まで生き延びられたのでしょうか?

そして、この芳名録には昭和20年5月、東京大空襲で亡くなった安藤照の直筆文が記されています。


この文章は当時の世相に合わせたものなのでしょうが、興味深いのは「仏教彫刻」という言葉で、日本には西洋に対抗しうる芸術があるという認識。そうしたバックボーンを持ったうえで「彫塑芸術」は黎明の域を脱した新興芸術としてあって、その主流を担おうという希望が書かれている事ですね。
その望みが叶えられず、残念です。


2024年2月4日日曜日

植民地の銅像

1928(昭和3)年、朝鮮の釜山商業会議所に建てられた「大池忠助翁銅像」の銅像です。
作者は上田直次。
明治13年広島生まれ、木彫を山崎朝雲に、塑像を朝倉文夫に学いびます。
昭和11年にはドイツ人フォン・ウエグマンに認められ、独仏に紹介されたりした。晩年は広島県美術展の彫刻部発展に尽力されました。
文化遺産オンライン
広島県立美術館には、上田直次作「杉本五郎像」(1938年)が所蔵されています。

銅像となった「大池忠助」は、安政3年生まれ。明治8年朝鮮釜山にいき、海運・製塩・水産・旅館業などの事業を起こします。
1915年の第12回衆議院議員総選挙で長崎県対馬選挙区から無所属で出馬し当選したが、当選無効訴訟事件の確定に伴い議員を退職しています。
彼は、植民地期の全時期を通じて釜山府協議会協議員、釜山商業会議所会頭、釜山繁栄会会長、官選慶尚南道議員等を務める重鎮であり、その功績を称え、亡くなる2年目の昭和3年に釜山商業会議所前に銅像が建つこととなったのでしょう。

上田直次としては、亡くなる、前になんとか…といった思いがあったかもしれません。
絵葉書には、そんな「大池忠助翁銅像」の除幕式、お披露目の瞬間を撮影されています。
釜山商業会議所が紅白の垂れ幕で飾られ、大勢の人が集まっています。

朝鮮等の植民地に建てられた銅像というのは、やはり民族意識を刺激されるものです。
ですので、当時から同じように残っているものはありません。
この上田直次の作品も、すでに失われているようですね。

そんな植民地の銅像をもう一つ紹介します。

「Rhodes statue, Botanic Gardens, Cape Town 」と題されたこの絵葉書には、南アフリカの鉱物採掘で巨富を得て植民地首相となり、占領地に自分の名(ローデシア)を冠したギリス帝国の植民地政治家「セシル・ジョン・ローズ(Cecil John Rhodes)」の銅像が写されています。
彼は、「神は世界地図がより多くイギリス領に塗られることを望んでおられる。できることなら私は夜空に浮かぶ星さえも併合したい」と著書の中で豪語した人物ですね。

銅像は、1908年にケープタウンのカンパニーズ・ガーデンに建てられました。
現在も、見ることができます。

近年になってローズの人種差別主義への反発の声が南アフリカ及び祖国イギリスで高まり、2015年にはオックスフォード大学にあるローズを顕彰する銘板を校舎の壁から撤去することを決め、銅像についても撤去する意向を明らかにしました。
これに影響を受け、南アフリカ各地にあるローズの銅像や記念碑を撤去しようという動きが広がりつつあるそうです。

何かを公的に顕彰する、記念するという行為そのものが、私たちには難しくなっているのでしょう。
それは良いことだと私は思いますが、公の中でしか生きられないのも私たちであり、混乱はしばらく続くだろうと思います。
撤去工事終わる 群馬・高崎市の朝鮮人追悼碑めぐり県が行政代執行

2024年1月28日日曜日

安永良徳 作「ダナエ」レリーフ再制作?



安永良徳については数回前に書きましたね。
彼のレリーフ作品です。
この作品の素材は石膏。額と作家名が左から記されていることから、戦後の作だと思われます。
ただし、この作品に似た立体を安永良徳は作っています。
それは、1937(昭和12)年に行われた第拾回構造社展覧会において「ダナエ」と題された立体です。

「ダナエ」はギリシャ神話に出てくる女性で、ゼウスとの間に英雄ペルセウスを生みます。
彼女の父アルゴス王アクリシオスに恐れられ、母子ともに箱に閉じ込められて海に流されますが、無事に漂着します。

この作品は、その場面を描いたものでしょうね。つまり、傍らに寄り添う子がペルセウスなのでしょう。
戦前の構造社で好まれた母子像として、この題材を選び、作品としたのだと考えられます。

その造形は、母子の姿を抽象化し、キャラクターの様になっています。
くの字にまがった体に、あり得ない方に伸びていた腕、「構造社」の名前の通り新しい構造を表現することこそを主題とした作品なのでしょう。
それは、当時の最先端表現でありました。

そのような「ダナエ」を戦後にレリーフ化したのでしょうか?
気になるのは、戦前の「ダナエ」と比べると、このレリーフは鏡像のように反転されている事ですね。
どうしてなのでしょう?
反転した作品を参考にレリーフ化したのでしょうか?
謎です。

2024年1月21日日曜日

美術史家「野間清六」原稿


美術史家とか美術評論家って、彫刻家や画家以上に同時代的で消費されて忘れられていくのですよね~
そこが好きで、チョコチョコとそういった方々の原稿や葉書をコレクションしています。
大正12年 森口多里の年賀状

今回は 美術史家「野間清六」の肉筆原稿です。
野間清六は、戦前の帝国博物館東京から東京国立博物館まで長年勤められた、古代~前近代彫刻の研究者です。その分野の著作を多く出しています。

その著作をネットで拾い上げても、
・日本古楽面(昭和10年)
・日本美術大系-彫刻(16年)
・日本彫刻の美(18年)
・日本仮面史(18年)
・古仏の微笑(21年)
・美を慕う者へ(22年)
・日本の名画(26年)
・御物金銅仏(27年)
・日本美術辞典(27年共著)
・日本の面(28年)
・日本の絵画(28年)
・土の芸術(29年)
・墨の芸術(30年)
・飛鳥、白鳳、天平の美術(33年)
・日本美術(33年)
・日本美再発見(38年)、
・続日本美再発見(39年)
そ金銅仏(39年)
・小袖と能衣裳(39年)
・装身具(41年)
・インターナショナル日本美術(41年)
と、本当に多作。
私もこれらのうち、何冊か持っています。

この原稿は、野間清六が東京国立博物館普及課長時代のものですね。
伎楽面について書かれています。
昭和10年の彼の著作が「日本古楽面」であったことからも、彼のメインワークだったのでしょう。
それほど重くない内容ですから、エッセイのお仕事だったのかもしれません。
こうした仕事を通して、野間清六は日本美術史を作り上げてきました。
岡倉岡倉天心が見つけ、和辻哲郎の「古寺巡礼」で一般化した古仏の美ですが、これを美術史として体系化していったのは野間清六と言えるでしょう。

歴史学というものは、実証を重ねて「これだろう」というコンセンサスを作り出していくわけですよね。
ですから「実証」もなく「コンセンサス」得られない邪馬台国はどこにあるのかはわからないし、坂本龍馬の評価は定まらない。

けれどそれが歴史学という学問です。
けれど美術史はそれと異なり、力のある美術史家の美意識が正史になってしまうことがあります。ざっくり言えば「実証」と「コンセンサス」が不要なんですよね。

新潟市美術館で行われている(本日まで)『発掘された珠玉の名品少女たち― 夢と希望・そのはざまで 星野画廊コレクションより』展にて、藤井素彦氏による「モガとモ画ー歴史的考察ー」講義が行われました。
かなり刺激の強いお話でしたが、その中で美術史家、学芸員、評論家といえども、「見たいモノしか見ない」故に目の前にある作品の評価を捻じ曲げるという内容をお話しされていました。
つまり美術史というものは、「見たいモノしか見ない」目によって選ばれたモノが、政治とパワーバランスで選別されてできているとも言えるわけですよ。
私たちの学んだ美術史とは、まぁそんなものなんですよね。

嘘くさくてグレーな美術史…だからこそ面白い。

2024年1月8日月曜日

中国によるチベット問題プロパガンダ彫刻「塑像群 《農奴の怒り》」







この 「塑像群 《農奴の怒り》」は、1977年に中華人民共和国にて発行された彫刻作品のカタログです。日本語で表記されています。
つまり、中国によるアートを用いた日本向けのプロパガンダ本なんですね。

複数人の共同制作作品で、中央五・七芸術大学美術学院教師及び潘陽魯迅学院の教師、そしてチベットの芸術家たちによるものと記されています。
等身大の人物像が106点、動物像6点、舞台のような構成がなされています。
赤茶色の像であるからテラコッタなのでしょう。

この作品は、抑圧されたチベットの民が中国人民解放軍とともに領主らに反乱、共産主義の道を歩んでいった姿を彫刻としたものです。
第一部に封建領主と、彼らによって牛馬にも劣る生活を強いられたチベット民を、第二部ではその現状を肯定し、それに反する民を苦しめぬくチベット寺院を、第三部では支配機構「ガシャ」を描いた構成となっています。最後の四部で農奴たちの反乱及び共産党への強い支持が描かれます。

彫刻として描かれた人々は、とにかく舞台映えする演出がなされ、あえて言えばカッコいい!
戦前は西洋美術を日本から西洋美術を学んだ中国ですが、この塑像群は日本的な表現というよりロシアプロパガンダ的な表現に見えます。
そんな表現をアジア人に用いて大成させた作品だと言えるでしょう。
ここまでアジア人を情熱的に、演技的なリアリズムで描いた作品、ここ日本では未だかつて無いと思います。
もしかしたら、今の北朝鮮にも無いのかもしれません。
プロパガンダであること、今のチベットで苦しんでいる人がいることを抜きにして語れば、とても奇妙でエネルギッシュで、魅力的な作品です。

私はここで戦前中のメダル等を紹介していますが、この作品たちの一部はプロパガンダであり、今回紹介した「塑像群 《農奴の怒り》」と同じものなんですよ。
ですからあえて「魅力的」と言います。
けれど、どこかの誰かを傷つけた、傷つけているモノであることを忘れないようにしたいですね。

2024年1月6日土曜日

吉田久継 作 「日本武尊」メダル

 


吉田久継は、1888(明治21)年東京市本郷区に生まれ。
若く10代で高橋楽水に蠟型技術、馬場正寿に彫金、白井雨山彫塑研究所でに彫塑を学びます。
東京美術学校彫刻選科卒、その後に太平洋画会研究所、さらに本郷洋画研究所で岡田三郎助にデッサンを師事。
第7回帝展から審査員となり、東台彫塑会、赤洵社を組織、第一美術協会結成に参加、東土会結成に洋風版画会結成、三部会結成と忙しい作家だったようです。
ハニベ会」にも参加してますしね。
1929(昭和4)年日本には、日本美術学校彫刻部教授となります。
戦後は官展を中心に発表と……
南海難波駅北口に建つ「風朗」は、吉田久継の1953(昭和28)年の作品ですね。

さて、このメダルですが、裏面には日本武尊についての説明だけがあり、制作年代や何のためのメダルなのかの記述がありません。
こういう場合は大体戦後のものって印象なのですが、どうなんでしょう?
モチーフが日本武尊であるから戦意高揚目的で作られたメダルの可能性もありますが。

このメダルに刻まれた日本武尊ですが、日名子や畑正吉の作品に比べ、絵画的ですね。
全体の立体感より細部を細かく描いています。
画家岡田三郎助に師事した作家故でしょうか。


この吉田久継という作家、若きエリート作家だったんですよ。
30才で帝展に入選、その3年後には無審査になってますから。
けど、現在この作家の作品を思い浮かべることのできる人ってどれくらいいるのでしょう?
まとまった展覧会も行われていないのではないでしょうか?
何故でしょう?
地元が東京っていうのも、故郷なくて忘れられたのか。
それとも裸婦像の飽和の中で埋もれられたのか。
けど、吉田久継ほどに裸婦の群像に向き合った作家って少ないと思うのですけどね。

2024年1月3日水曜日

安永良徳作 木彫花丈煙具

謹賀新年
皆さん地震は大丈夫でしたか?
我が家もかなり揺れましたが、誰も怪我無く、皆無事でした。
コレクションは木彫が若干破損、倒れたのブロンズ像には傷は無いよう、梱包されている作品の確認はまだできていません。
なかなかしんどい一年のはじめとなりました。

今年も少しづつコレクションの紹介をしていきます。
できることを一歩ずつですね。



さて、今年の一回目は構造社の彫刻家、安永良徳による煙管です。
昭和26年の作になります。
煙管は3本あり、ひまわり、菊、そして女性の顔が描かれています。
それとロシア語ですね。これが刻まれています。
(すいません、読めませんでした!)

安永良徳は昭和22年にシベリア抑留より帰国します。
そんな彼が、その数年後に木を削って作った煙管。
彫塑家でありながら、ロシア語を用いて削り上げた木彫。
もしかしたら、彼はこうした作品をシベリア抑留中にロシア人相手に作っていたのかもしれません。
確かに、こうした実用品を作ることのできる技術者は、日本人を管理するロシア人に重宝されていたと聞いたことがあります。
そういう人は、そうではない人よりも、生き残る確率が高かったとも。

そう考えると、なかなか重い作品に感じます。