2014年5月31日土曜日

板垣退助の銅像

5月21日が板垣退助の誕生日だとかで、高知市では、本日「板垣退助生誕祭」が行われているそうです。
地元岐阜にも、板垣退助と関係深い場所があり、今日はそこに行っていました。
そことは、岐阜城下、岐阜公園内にあります。
板垣退助が「板垣死すとも自由は死せず」と言ったとされる「岐阜事件」の跡地であり、現在は板垣退助の銅像が建っています。




実はこの銅像、建立時と形状が違うんですね。
戦時の金属回収令で撤去され、後に再建したのだそうです。
では、大正6年の建立当時はどんな形だったか、当時の絵葉書を紹介します。


現在は、右手を上げ、左手に杖をついている状態ですが、戦前の銅像は、壇上で演説を行なっているかのような姿です。
戦前の方は、より自然で、リアリティーを感じさせる像になっています。、
顔つきも、現在より老けて見えますね。
その為か、より貫禄を感じます。
ただ、この台座を含め、背景になっている金華山の森が現在も変わりなくあって、ちょっと嬉しいですね。

この土佐の上士が、自由民権という不可思議な概念をもって政治を行おうと至ったわけが知りたいですね。彼の思想のベースはどういったものだったんだろう?

2014年5月22日木曜日

Intermission 軍事郵便




これらの絵は、戦時下で用いられた軍事郵便に描かれています。
当時、この絵を描いた子供らは、誰に送るつもりだったのかな?

2014年5月10日土曜日

Ottil.o Pecci 作 「生命の泉」 絵葉書


絵葉書には「ペシー氏」とありますが、Ottil.o Pecci(オッティリオ・ペッチ)が作家の名前だと思います。

この「ペシー氏」について、詳しいことを書かれたサイトがありました。
早稲田大学リポジトリ、論文等をネット上に公開するサイトのようです。
→こちら

これに書かれた「ペシー氏」の略歴をまとめてみます。
1897年イタリアのペルージャ生れ。
同地の美術学校で彫刻を学び、その仕事は、パリ、ロンドン、ニューヨークでも好評を博す。
パリで東洋美術の大学教授をし、1916(大正5)年、第一次世界大戦の戦乱を避けて高峰譲吉の息子エブレン夫妻と共に来日。
8年の滞在中に、幾つかの銅像を制作、展覧会を行い、そして日本女性オクムラ・ウラと結婚をする。
帰国後、1954(昭和29)年、死去。

絵葉書の作品は、1921(大正10)年に行われた第3回帝展の出品作ですので、来日してから5年後の作品ですね。
この彫刻家は大理石を用いた仕事を行なっていたようです。
また、政界財界に知人があり、早稲田の大隈重信胸像などの銅像をいくつか制作したようです。

この論文にもかかれてますが、彼が当時の日本の彫刻家たちとどう関わりをもったのか不明です。
来日したイタリアの彫刻家と言えば、1882年(明治15年)まで工部美術学校で彫刻指導したラグーザが有名ですが、彼のように日本の彫刻史に名前の出ることのない「ペシー氏」は、どう日本の彫刻史に影響を与えたのでしょう?
もしかしたら、当時の日本の彫刻家にとって、彼の作はすでに古典だったのかもしれません。

 彼が帰国後、パリに滞在していたとして、第二次世界大戦時、そのパリに攻め込んだドイツと同盟を結んでいた日本に対し、どういった感情を抱いていたか気になります。

2014年5月4日日曜日

Intermission 横山潤之助作 「煙草を燻らす人」絵葉書


第九回二科展美術展覧会出品、横山潤之助作「煙草を燻らす人」の絵葉書です。
この横山潤之助とは、いったいどんな人か。
実は、僕の地元とも縁ある作家なんです。

簡単な略歴を紹介します。
○1903(明治36)年 東京都文京区にて、横山徳次郎 康子の二男として生まれる。
父、横山徳次郎は岐阜県羽島郡の庄屋の長男で、岐阜県立中学校の初代校長を勤めたこともある人物でした。

○1920(大正9)年 川端画学校へ入学し藤島武二の指導を受ける。
この頃、兄が亡くなり、父徳次郎より医師になるよう期待されるが、反発。東京美術学校の受験も失敗する。

○1922(大正11)年、第9回二科展に「煙草を燻らす人(50号)」、「静物」「海水浴」などを出品し、樗牛賞を受賞する。また、同展に「埋葬」を出品した古賀春江と親交を持つ。
また、中川紀元、神原秦に誘われ、「アクション造形美術展」に参加することとなる。
この時、横山潤之助、19才。

○前衛美術作家としてスタートした横山だったが、1927(昭和3)年、突然画風を変え、第九回帝展に出品をする。翌年から海外を外遊し、1930(昭和5)年帰国。「有名な画家になるよりはすぐれた諸庶民になる―」と制作からはなれる決意をする。

○1945(昭和20)年、自宅が空襲にあい、アトリエと3000点の作品とが焼失。
縁を頼り岐阜市日野の精神病院精神神経科で無給奉仕の生活を始める。

○1955(昭和30)年、岐阜県各務原市に転居、50代になり、横山は再び絵筆を持ち始める。
その作品は、岐阜の自然を描いたものだった。

○1971(昭和46)年 死去。68才であった。
その年、「横山潤之助作品集刊行委員会」がつくられ、翌年発行される。

ざっと略歴を見ただけでも、なかなかの難物だったのだろうと想像されます。
加藤稔著「幻の画家横山潤之助」によれば、神経衰弱状態になっていたこともあり、精神病状態であったのではと推測されています。
岐阜での生活では、東京での過去を見せることなく、社交性も薄れ、死亡した折には近隣者が誰も葬儀に参加しなかったと言います。

それにしても、この 「煙草を燻らす人」が19才の頃の作品だとは驚きです。

2014年4月28日月曜日

荻島安二 作 小西六(コニカ)本店 賞メダル

以前から紹介しています荻島安二のメダルです。
前回も写真関連のメダルを紹介しましたが、今回もカメラを手にした洒落たモダンな女性像です。
こうした女性を当時モガなんて言ったそうです。

メダルの裏側には「東京 小西六本店 賞」とあるのですが、この「小西六」とは後のコニカミノルタ。
Wikiによると
『1921年(大正10年)に「小西屋六兵衛店」は改組し、合資会社小西六本店に移行、その後1937年(昭和12年)に設立された株式会社小西六本店が、株式会社小西六と改称した上で、合資会社小西六本店を吸収合併。』
とのことなので、1921年から1937年までの間に、このメダルは用いられたと言えるでしょう。

構造社の作家は、写真関連のメダルを多く制作してますが、その中で都会の空気を作品として作れたのは荻島安二だけだったように思えます。

2014年4月13日日曜日

Intermission 西田秀雄著 「日本美術と児童画」


この本は、昭和19年12月という、戦争末期に発売されたものです。

前半は、著者自身の児童画教育法を述べています。
そこからは、自由で豊かな児童画を目指す、著者の子供たちへの優しい視点を感じます。
『芭蕉の「子に飽くと申す人には花もなし」の句は児童画を真に楽しい気持ちで見ることのできる人こそ、芸術を愛し得る人であると解してよいであろう』とまで述べています。

後半は、日本美術と児童画との関わりについて述べています。
そして、その当時の美術作品として、あの藤田嗣治の「アッツ島玉砕」について、書かれています。

その一部を抜粋
『この絵を見てどんな気持ちがするか。」と言ったところ、「この兵隊さんの仇討をしてやるぞ。」「日本の兵隊さんがこう言う風にして死んでいく。くやしいくやしい、早く大きくなってこの兵隊さんの代わりに戦争しに行くんだ。」子供の心のどん底からほとばし出る悲痛な言葉に、昭和の子供の真の姿を強く感じた。』

作者は授業として藤田の「アッツ島玉砕」を鑑賞させたようです。
その結果、子供たちはケレン味のない教科書通りの素直な対応をしています。
この子達が、後の針生一郎(彼は当時この絵を見て違う印象を持ったようですが)や吉本隆明になるのだろうな。

2014年4月6日日曜日

Intermission 明石順三訳 J・F・ルサフォード著 「神の救ひ」





ちょっと変わった本を偶然手に入れたので紹介します。
J・F・ルサフォード著、明石順三訳 「神の救ひ」です。
1927年頃の出版のようなので、 昭和2年でしょうか。

その初めに、こう書かれています。
『天地全宇宙の創造主に在す 全能の神エホバの聖言として此の書を捧げる「汝等は我が證し人なり」』

明石順三は、明治22年7月1日生まれ。
明治41年に渡米し、大正10年頃、ワッチタワー(エホバの証人)に入会します。
帰国後は、日本支部として灯台社を創立、伝道を行います。

つまりこの本は、初期の「エホバの証人」について書かれた本というわけです。

そんな伝道の中で明石順三は、兵役拒否、戦争及び天皇への批判を行い、その結果、昭和14年治安維持法違反で入獄します。
戦後になり釈放され、昭和40年11月14日死去。76歳でした。

明治以降、日本におけるキリスト教系の宗教観は、非戦の考えを強く持っているようです。
その結果、大東亜戦争時には大きな弾圧を受けます。
彫刻家、 萩原守衛もまた、キリスト教を深い関心を持ち、盟友高村光太郎とは異なり、非戦論を説きます。
彼の美術観にキリスト教がどれだけ深く関わっているのかを知るためにも、当時の日本のキリスト教のあり方に関心を持っています。