2017年8月11日金曜日

畑正吉のスポーツ彫刻

畑正吉のスポーツ彫刻について色々考えています。
以前紹介しました石膏像「ハードル」や秩父宮記念スポーツ博物館に所蔵されている第11回ベルリンオリンピック芸術作品出品作品「スタート」等...そんな畑のスポーツ彫刻について。
https://prewar-sculptors.blogspot.jp/2016/08/blog-post_22.html
http://www.jpnsport.go.jp/muse/annai/tabid/69/Default.aspx

特に「スタート」に見られるような、誰ソレとわからない抽象化されたような人物像を用いて描いているのは何故だろうと思います。
畑の作品には、こういった抽象化された人物像がスポーツ彫刻の他に無いわけではのだけれど、スポーツを表すのにどうしてこれを選んだのだろう?

思うに、そういった技法を用いて畑正吉はスポーツの「動き」そのものだけを取り出して彫刻にしたかったのではないでしょうか?
選手のそれぞれの顔や表情、肉体や汗、人格、躍動感や勝敗の結果までをすべて捨て、「動き」の一瞬のみを描きたかったのではないでしょうか。
平櫛田中が「活人箭」で動の中の静を描くために弓の姿を消したように、「動き」以外の要素を消し去ろうとしたのだと考えます。
その結果、「ハードル」や「スタート」は半抽象のような姿になったと思うのです。

「動き」を描こうとした作品と言えば、20世紀初頭にイタリアを中心として起こったフィリッポ・トンマーゾ・マリネッティらの「未来派」があります。ボッチョーニによる彫刻作品「空間の連続における唯一の形態」では、連続する「動き」を一つの形態で現します。
写真や映画の技術革新によって人の動きを視覚化できるようになり、こういった芸術運動が生まれらわけですが、きっと畑正吉もそれを知っていたろうとは思います。
畑の作品もまた、写真や映画の一場面を切り取ったものだと考えられるからです。

畑の「スタート」を展示したベルリンオリンピックでは、走り幅跳びの走者の姿をいくつかに分けて、その上で一つの彫刻にした連続写真のような作品があったようです。しかし、畑はそういった「未来派」的なやり方でなく、ただただ一瞬を描きます。

その結果がうまくいっているかと言われれば、私は必ずしもそう言えません。
走者の歯を食いしばる顔の無い、また筋肉が弾けるような躍動感の無い畑のスポーツ彫刻では、彼ら選手の一瞬の煌きを描いているとは感じられないからです。
「ハードル」がまさにそうなのですが、走者の顔がなんだか涼しそうにさえ見えます。
もしかしたら、制作当時の鑑賞者には、畑の描きたかったものの理解はされなかったかもしれません。

ただし、先に書いた様に、まるで機械のような「動き」そのものだけを抜き出したいという理念、そんな「未来派」に近い理念は、面白いものだと思います。そこから先、さらなる抽象化によって人の姿までもなくなるような抽象作品にするには、畑の生まれた時代は少し早すぎたかもしれません。

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