2024年7月15日月曜日

復興記念合同彫塑展覧会 絵葉書






1923(大正13)年5月3日から18日まで上野で行われた「復興記念合同彫塑展覧会」の絵葉書です。

前年の9月1日に起きた関東大震災への慰撫を目的に行われた、彫刻の展覧会ですね。
その年に官展が行われなかったことで、彫刻家の大きな収入源も閉ざされたために行ったという面もあるでしょう。
生活が大変な時に芸術なんて後回しになるものですからね~

安藤照「芽」
陽咸二「日高川」
松平栄之助「婉」
長谷川栄作「懐胎」
朝倉文夫「容羞」
この中で、私が紹介したことのない作家は松平栄之助です。
彼は、松平家の分家の人間のようですね。

さて、これらを見て思うのは、いつもの官展の作と変わらない裸婦の像たちってことですね。復興をテーマにしているわけではない。
もちろん、現在のARTのように何かしらのテーマを設けて展覧会をする時代ではないんですよね。
それを行ってくるのは、もう少し後の戦時下での展覧会。いわゆる戦争画の時代。
逆に言えば、戦時下になってこそ「テーマを持った合同展覧会」が生まれるわけです。
言わば「復興記念合同彫塑展覧会 」は、その間を繋げた展覧会であり、社会が戦争の時代へと向かうことを示す展覧会であったと思います。

2024年7月7日日曜日

畑正吉 作「國民精神作興ニ関スル詔書」レリーフ




 『国民精神作興ニ関スル詔書(國民精󠄀神󠄀作興ニ關スル詔書)は、1923(大正12)年11月10日に大正天皇の名で摂政宮(皇太子裕仁、後の昭和天皇)が渙発した詔書』です・
https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317939.htm
これを記念し、造幣局から出された畑正吉によるレリーフです。
左下に「畑正吉謹作」とありますね。

作成日の記載はありませんが、同じく大正12年頃だと思われます。
揮毫は書家山口彦總(山口半峰)。彼は、1914(大正3)年に宮内省に入り貴重文書の浄書を行っていました。

このレリーフ、結構大きくて幅が50㎝程あります。
中心上に菊花紋章。詔書の周りに神々が描かれています。
岩の裂け目から漏れる光や鶏、踊る女神等々から、天岩戸の場面の様に思えます。
天照が現れる様子と国民に与えられた詔書とを重ねた表現になっているのですね。
それよりもこの作品を見て思うのは、旧約聖書のモーセの十戒のイメージです。
映画「十戒」は1923年製ですから、畑正吉が参考にしたはずないのですけどね。
神話のイメージというのは、古今東西変わらないものなのかもしれません。
ただ、大正12年は、畑正吉が欧州留学から帰って来た翌年。
右端の狭い範囲でありながら多様に見せる群衆の描き方の見事さなど、欧州で学んだ知識が生かされていることは確かでしょう。
単身の人物像の多い畑の作品ですが、こういった物語性のあるものは貴重ですね。

2024年6月23日日曜日

沼田雅一書簡 竹内久一宛




久しぶりに、がんばってヤフオクで落としました!
竹内久一宛の沼田雅一書簡です。
沼田雅一の父、沼田一珍の書簡に一緒に送られたもののようです。
一珍は元福井藩士。維新後大阪に移って商業を試みて失敗、京都に移り美術商池田清助に陶土を分けて貰って拮りものを作って生計をたてていたそう。

竹内久一は、沼田雅一の彫刻の師であり、正木直彦著『回顧七十年』では、一珍の下で働いていた雅一を、通りがかった竹内久一が見つけ、その才を認めて東京に連れてきたそうです。
ただ、京都に来た海野美盛が見つけたという説もあり、もしかしたらこの書簡でその謎が解けるかも……
https://gacma.geidai.ac.jp/archives/100yh_fas02_084.pdf

とは思ったのですが、この私にゃ古文書はよめません!
解読ソフト使ってみましたが、
「高趣難有相続付心百梅面之気段ニ而雨降絵御同事ニ困却之至ニ御座候益御請通被為在奉恐賀毎事病人御案労之段御懇篤不残不参奉待弥之本日唯今部役為替御手形判金三両之名正難有入掌仕候御懇配之御取扱忝奉存類仕五事追々上有之方ニ候……」と何がなにやら。
真ん中の「本日唯今郵便為替御手形即金三両」云々あたりかな、読めるのは。

郵便の日付からみると明治25年。略歴的には沼田雅一が上京した翌年なんですよ。
そのころに、大阪の実家から奈良の竹内久一に向けて手紙を出してるのですよね。
時系列的にどうなってるの?

2024年6月16日日曜日

昭和16年 東京芝浦電気 特許メダル



東京芝浦電気による陶製のメダルになります。
明治神宮のメダルが。和15年頃からメダルが陶製が出てきますので、このメダルも時節に合わせて作られたのでしょう。

特許への賞牌として作られたこのメダルの裏には「特許 第一四〇五一三号 辻重己 昭和十六年六月」とあります。
この特許について調べると、純度の低いアルミニウムの表面に酸化被膜を施し、反射鏡を作るもののようです。昭和13年に出願され15年に特許をとってます。

表には、神話の女神が描かれてます。
桃を手に取る姿から意富加牟豆美命(おおかむづみのみこと)ではないかと思います。
永遠の命、邪気を払うその力への想いをメダルに込めたのでしょう。
作者銘はありませんが、美しくデザインされた女神像です。
立った女神の垂直性と、水平に伸びる手、円形のメダルとそれに沿った桃の木。
彫刻というよりデザイン力の高い作品です。
いいですよね~

2024年6月2日日曜日

世界美術月報 広報誌

以前、佐藤忠良によるメダルで紹介しました下中弥三郎。
https://prewar-sculptors.blogspot.com/2018/06/blog-post.html
今回紹介するのは、戦前に彼によって創刊された「世界美術月報」の広報誌になります。
冊子とはいっても、当時の著名な美術評論家による記事から美術用語の説明までと、濃厚なつくりになってます。

彫刻関連では、第7号に小原生による「ロダンのデッサン」。
第22号には田邊孝次による「アトリエに於けるブルデル、ベルナール、マイヨールとデスピオの印象」。
第33号に神原泰の「ブランクシイと日本」等の文章が載っています。

その中で面白かったのが、第三十四号(昭和5年)の冊子に記載された小原銀之助による「彫塑のできるまで」です。

小原銀之助とは、戦後に時計の研究を始め、小・中学校や国立科学博物館をはじめ、アメリカ、中国など4ヶ国に計400個を製作、小原式日時計といわれ国際的に評価された人物です。
彼が戦前、この世界美術月報の編集に関わっており、そのういったことでこの文章を載せることになったのでしょう。

その内容ですが、当時の若い無名彫刻家の日常が書かれています。
『×月×日 ×展が三ヶ月後に迫って来た今年は先生のアトリエ(門下生用)で皆と一緒にやる事とした。午後は4人が使っているので午後にした。Kは8尺の男の裸を作っている。女はモデル達が嫌がるので朝の6時から皆の来るまでやっている。』
女性のモデルと男性との時間が重ならないように、彫刻家側が気を使って製作しているのですね。
モデルの話は他にもあって、
『×月×日 日曜の午前だ。宮崎(東京に唯一のモデル屋)に行く。傾いた古屋の暗い部屋に例の如く大勢の女がぎっしりすし詰めになって座っている。雀のお宿の様にお喋りがやかましい。髪の長い洋画の連中が怖い顔をして黙々と盡し乍ら物色している。』『おやじが「ホイお照さん。××さんのアトリエ。午後だよ」等わめき乍ら紙切れを渡している』『開かれているからそれほどには思はないもののまるで女人市だ』
大正あたりのモデル不足から考えれば、時代が変わった感ありますね。
女人市みたいではあるものの、しっかりとしたビジネスになっているようです。
モデル代は一週間で7円50銭。昭和初期の1円は現在の4000円ほどと言われているので、一週間で3万円と言うところでしょうか。

7週間ほどで粘土付けが完了、石こう屋に持ち込んで石膏像にします。
このあたりの工程を丁寧に説明しています。
そして、できた石膏像に着色
『先ず全体漆を塗りその上に銅紛をかける。アンモニア水でそれを腐食する。即ち青銅色の彫像が出来上がった。』
そして、最後に彫刻家の嘆きで〆てます。
『×月×日 出来上がった色に不満はあるが日もないので搬入する。―いつになったら此の石膏像が鋳物屋の手に渡ってブロンズになる事やら。恐らく永久にブロンズにはなるまい。等身大で安くて千円だから。ーそれ所か落選の憂き目を見るかも知れないぞ』
しんどい!

2024年4月29日月曜日

乃木将軍銅像と大日本国防婦人会



割烹着姿に白襷、1932年に結成された「大日本国防婦人会」の写真です。
大阪で生まれたこの会ですが、全国に展開します。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%98%B2%E5%A9%A6%E4%BA%BA%E4%BC%9A

真ん中に立つ像は、その姿から乃木希典の銅像と思われます。
当時存在した乃木将軍の銅像は、山口県の長谷川栄作による像、香川県の田中雄一による像、愛知県西尾の像、そして江の島の片瀬海岸の像。
この像の姿に似ているのは愛知県西尾の像なのですが、戦時中にコンクリートに変えられ、現在は西尾市の熊野神社に建っています。
https://ameblo.jp/pont-neuf0603/entry-12470632973.html
ただ、この姿の乃木将軍像というのは、二宮金次郎像と並んで量産され全国に建てられていますから、本当に西尾の像なのか。

どちらにせよ、乃木将軍の像の前に並ぶ大日本国防婦人会のご婦人たちというこの写真は、当時の世相を描いてますね。

2024年4月27日土曜日

牧雅雄 画「開運だるま」




彫刻家 牧雅雄によ目達磨図です。
彼の画はこれ二幅めになります。
1幅めを買ったのが2015年ですから、もう10年経つのですね~
https://prewar-sculptors.blogspot.com/2015/04/blog-post.html
彼の作品では、軍鶏の木彫を所持しています。
なのでこれで3点目、私が死ぬまでにあとどれだけ集めれるかな?

牧雅雄をコレクションしている理由は、彼が昭和10年に亡くなった作家だからです。
この昭和10年ですが、先の記事にも書いてあるように堀江尚志や藤川勇造、陽咸二、日本美術院では木村五郎、橋本平八が亡くなっています。
ものすごい損失、彼らが戦後まで残っていたら、いったいどんな美術史となったか。
そんな思いを持って、少しづつですが集めているわけです。

同期の木村五郎と橋本平八の作品は、一発で彼らの作品とわかる個性を持っています。
緑色の太陽に薫陶を受けた世代の作品たちなんですよね。
けど、牧雅雄の作品はそう言えるだけの個性を語れない。
ただそれは、まだ研究が進んでないからだとも言えます。
ぜひ、この作家の研究を進めていただきたいものです。