以前、佐藤忠良によるメダルで紹介しました下中弥三郎。
https://prewar-sculptors.blogspot.com/2018/06/blog-post.html
今回紹介するのは、戦前に彼によって創刊された「世界美術月報」の広報誌になります。
冊子とはいっても、当時の著名な美術評論家による記事から美術用語の説明までと、濃厚なつくりになってます。
彫刻関連では、第7号に小原生による「ロダンのデッサン」。
第22号には田邊孝次による「アトリエに於けるブルデル、ベルナール、マイヨールとデスピオの印象」。
第33号に神原泰の「ブランクシイと日本」等の文章が載っています。
その中で面白かったのが、第三十四号(昭和5年)の冊子に記載された小原銀之助による「彫塑のできるまで」です。
小原銀之助とは、戦後に時計の研究を始め、小・中学校や国立科学博物館をはじめ、アメリカ、中国など4ヶ国に計400個を製作、小原式日時計といわれ国際的に評価された人物です。
彼が戦前、この世界美術月報の編集に関わっており、そのういったことでこの文章を載せることになったのでしょう。
その内容ですが、当時の若い無名彫刻家の日常が書かれています。
『×月×日 ×展が三ヶ月後に迫って来た今年は先生のアトリエ(門下生用)で皆と一緒にやる事とした。午後は4人が使っているので午後にした。Kは8尺の男の裸を作っている。女はモデル達が嫌がるので朝の6時から皆の来るまでやっている。』
女性のモデルと男性との時間が重ならないように、彫刻家側が気を使って製作しているのですね。
モデルの話は他にもあって、
『×月×日 日曜の午前だ。宮崎(東京に唯一のモデル屋)に行く。傾いた古屋の暗い部屋に例の如く大勢の女がぎっしりすし詰めになって座っている。雀のお宿の様にお喋りがやかましい。髪の長い洋画の連中が怖い顔をして黙々と盡し乍ら物色している。』『おやじが「ホイお照さん。××さんのアトリエ。午後だよ」等わめき乍ら紙切れを渡している』『開かれているからそれほどには思はないもののまるで女人市だ』
大正あたりのモデル不足から考えれば、時代が変わった感ありますね。
女人市みたいではあるものの、しっかりとしたビジネスになっているようです。
モデル代は一週間で7円50銭。昭和初期の1円は現在の4000円ほどと言われているので、一週間で3万円と言うところでしょうか。
7週間ほどで粘土付けが完了、石こう屋に持ち込んで石膏像にします。
このあたりの工程を丁寧に説明しています。
そして、できた石膏像に着色
『先ず全体漆を塗りその上に銅紛をかける。アンモニア水でそれを腐食する。即ち青銅色の彫像が出来上がった。』
そして、最後に彫刻家の嘆きで〆てます。
『×月×日 出来上がった色に不満はあるが日もないので搬入する。―いつになったら此の石膏像が鋳物屋の手に渡ってブロンズになる事やら。恐らく永久にブロンズにはなるまい。等身大で安くて千円だから。ーそれ所か落選の憂き目を見るかも知れないぞ』
しんどい!