2020年11月13日金曜日

鬼滅の刃と桃太郎メダル


 以前も紹介しました日名子実三による「国民精神作興体育大会参加章」メダルです。
なぜ、今回再びこの桃太郎のメダルを紹介するかと言えば、「鬼滅の刃」人気に便乗するため!


劇場版「無限列車編」は観に行きました?
私も行きました。
そして、感動とともに深く考えさせられました。

「鬼滅の刃」の物語は強い。ストーリだけでなく劇中の台詞も強い。
その強さは微塵も揺るがない炭治郎らの「正しさ」によります。

私の様なおっさんは、ガンダムでもジブリでも、エヴァでも、そんなアニメを観て育ち「正しさ」を疑うこと、それがサブカルチャーの在り方だと刷り込まれてきました。
私のブログもまた、日本美術の「正しさ」への懐疑が根底にあります。

そこで「鬼滅の刃」ですよ。
もちろん鬼にも事情はあり、それを描いてはいますが、だからと言って炭治郎が「正しさ」を疑い、揺れることはありません。
そういう「正しさ」を求める人が大勢いる。
きっとこれが、コロナ以降の世界のカルチャーなのかもしれないと思うわけです。

閉塞感から「正しさ」を求める時代…
かつてそんな時代がありました。
その時代に描かれた鬼を倒す物語。
それが昭和の戦時下での桃太郎です。


プロパガンダとしての桃太郎は、この時代の「正しさ」の象徴であり、戦争の「正しさ」を体現するキャラクターでした。
上記の桃太郎が描かれた「国民精神作興体育大会参加章」は昭和13年に行われた大会です。
この年は国家総動員法が施行されます。
国民が自身の「正しさ」に酔った時代のその心に桃太郎が重なり表し、体育大会の参加者に手渡されたわけです。

桃太郎の物語は敗戦とともに「昔話」となります。
そして、サブカルチャーは戦時の文化を継承しつつ、複雑化していきます。
令和の時代に生まれ落ちた鬼退治の物語「鬼滅の刃」はどこへ向かうのか気にかかるところです。

2020年9月14日月曜日

式場隆三郎:脳室反射鏡

現在、新潟市美術館では『式場隆三郎:脳室反射鏡』と題し、式場隆三郎を紹介し、掘り下げる展覧会が行われています。
http://www.ncam.jp/exhibition/5602/
十年来の式場ファンの私としては、本当に感無量!
また、式場隆三郎という人物の持つ問題が、今日性を持つという私の思いを再確認できました。

式場問題の今日性とは、例えば大塚英志氏が『「ていねいな暮らし」の戦時下起源と「女文字」の男たち』で書かれてことにも通じます。
大塚英志氏は、昨今の「新しい生活」が大衆化していく様が、戦時下で「ていねいな暮らし」というプロパガンダが大衆化していく様子と同様で、その気持ち悪さを語られています。
私たちのまわりの、それほど気にもとめないこと、小さな生活を彩るもの、それらが実際は国策的で暴力を伴う大きなプロパガンダで出来ているのだという事です。

では、式場隆三郎はどういったプロパガンダに加担していたのか。
私はそれが『アート』の大衆化であったと考えています。
私たちがアートと言われ考えるもの、アーティストの姿として描くもの。
その背後に式場隆三郎があるのではと考えています。

ゴッホのようにただ一つの美をもとめ、苦悩し死んでいく姿。
山下清のように「野に咲く花の様に」「生きてゆけ」る姿。
これらに私たちは感動し、アートに纏わる物に動員されます。
しかし、私たちは作品そのものに動員されたわけではなく、作品が背負う物語に動員されています。
その物語を私たちの耳元でずっと囁き続けるのが、式場隆三郎です。

確かに白樺や民芸運動にも、新しい「美」を啓蒙する思いはあったでしょう。
それを民衆に向かって、ケバケバしく、大衆紙的な切り口で浸透させていったのが式場です。
もちろん彼一人の力ではありませんが、そこに向かう情熱の異常性から、どうしても式場隆三郎が悪目立ちするのですよね。

悪目立ちと言えば、柳宗悦の民芸運動では、ハイカルチャーとして「民芸」があり、「民衆」に対して差別まではいかないものの、区別があり、それに敏感で、「民衆」に自身が入り込むことはありません。
しかし、式場はロウな「民衆」にたいして「民芸」を説いてしまう。
そこに生まれるのは、「美」を知る者と知らない者といった「民衆」の分断です。
「民衆」の分断とは、同じ民衆の中で、私(達)とそれ以外とで分けてしまうことです。
それは、例えば芸能人を「薬を使うような人間は駄目な奴だ」と蔑んで楽しむ大衆紙的な姿であり、例えば美術館へ行く層とそうでない層とを分断させ、焦燥させて、さらに互いに憎み合わせる姿です。
そう、あの「表現の不自由展」の裏にも式場隆三郎がいます。

猛毒である彼の呪縛は「それほど気にもとめないこと、小さな生活を彩るもの」だけに静かに広く浸透していることに気がつきにくいかもしれません。
ですが、耳元で囁く式場の声が聞こえる人が増えれば、もう少しアートの景色も鮮やかになるのではないかと思います。

2020年8月26日水曜日

昭和16年 セメント美術工作研究会発行「セメント美術」





国家総動員法の翌年、昭和14年に「物価統制実施要綱」が制定。彫刻家に必要な物品に対しても統制がなされます。
そこで、銅像に必要な銅やその他の金属に代わり、セメントを使用した彫刻作品が推奨され、この研究の為にセメント美術工作研究会が発足となります。

冊子「セメント美術」は、昭和16年4月15~17日の間に東京帝国鉄道協会で開催された「日本ポルトランドセメント業技術会第26回例会」に於いて、セメント美術工作研究会理事の森田亀之助、矢崎好幸の研究講演を基礎に、セメント美術についてまとめられた内容だと言うことです。
右上の像が何だったか思い出せない!



 
森田亀之助は、東京美術学校の教授職の後、昭和21年に創設された金沢美術工芸専門学校の校長を勤めます。また美術史家として「美術新報」を含め多くの雑誌に寄稿、執筆を行っています。
矢崎好幸は、東京美術学校のセメント美術教室主任教官だった人物のようです。
当時の新しく、時局に沿った素材「セメント」の第一人者がこの方々なのですね。

この冊子には、
『ことに最近に於ける工藝界も、事変という大きな動揺によって、かつての貴族・個性・稀有・高貴・異常・自由という特殊の世界から、国民・実用・多量・廉価・通常・規格といった国家目的線変換し、著しくもモニュメンタルのものとなって、その合理化・機能化・経済化が強調されつつある』
と書かれています。
敗戦間近の日本の有様を見ると忘れがちなのですが、あの戦争は合理的で機能的で科学的な生活を求めた結果なんですよね。
はてさて、昨今の「新しい生活様式」はどちらなのでしょうね?

2020年8月23日日曜日

第二回プロレタリア美術大展覧会 絵葉書

本日は絵画の絵葉書です。
 第二回プロレタリア美術大展覧会出品
岡本唐貴作「無題」
吉原義彦作「ひきあげろ!」
の絵葉書です。

第二回プロレタリア美術大展覧会は1929(昭和4)年に行われました。
その時、販売された絵葉書だと思われます。
岡本唐貴の「無題」は「争議会団の工場襲撃」として晩年に再制作されているようですね。
当時は作品名を付けられなかったのでしょう。けれど見る人が見ればわかるといった作品だったのでしょうね。

300号というサイズ、構成的な色彩と絵画として見れば岡本唐貴の作品の方が優れているのかもしれませんが、絵画の持つ熱量は暑苦しい肉の壁が迫ってくる吉原義彦の「ひきあげろ!」に感じます。

正面に子供を配置したわけは何でしょう?
プロレタリアートのプロパガンダを信じる、殉教者のような純粋な笑顔のこの子が正直怖いです...
プロパガンダの洗礼を受けた子供たち、ヒトラー・ユーゲント、毛沢東の紅衛兵、そして日本の軍国少年少女にオウムチルドレン、皆同じように純粋な笑顔だったのでしょう。
この純粋な信仰者の狂気を、当時のこの作家も持っていたのかもしれません。

吉原義彦は後に従軍画家として活動します。
それは、この時代に作家として生活し食っていくためでもあったかもしれませんが、純粋な信仰者の狂気が「プロレタリアート」から「日本」に移行しただけなのではないかと考えてしまいます。

2020年8月3日月曜日

高村光雲宛の絵葉書の送り主が桜岡三四郎と判明!

先日UPした高村光雲宛の絵葉書ですが、送り主は桜岡三四郎だと教えていただきました!
桜岡三四郎は明治3年生まれの鋳金家です。
東京美術学校の鋳金科の主任、後に教授となります。
東日本大震災により崩壊してしまった仙台、青葉城跡に建つ昭忠碑の上部に取り付けられた金鵄像は沼田一雅が設計し、桜岡三四郎、津田信夫らが鋳金した代表作です。

その桜岡三四郎は、明治36(1903)年にアメリカに留学しています。
この絵葉書の消印の日付と同じですね。
桜岡三四郎は、高村光雲に無事アメリカに着いたことを伝えたかったのでしょう。

桜岡三四郎がアメリカの行く5年前の明治31(1898)年には、岡倉天心が東京美術学校を辞職することとなる美術学校騒動が起きています。
当時、美術学校助教授だった桜岡三四郎は、天心に味方して一緒に辞職。
対して高村光雲は美術学校に残ることとなります。
袂を分けたように見える二人ですが、しかし、この絵葉書を見てもわだかまりは感じませんね。
その後の桜岡三四郎が美術院と東京美術学校の両方に籍を持ち、架け橋となって働いたことを見ても、桜岡三四郎が光雲らに対して思うところは無かったのだろうと想像します。

2020年7月24日金曜日

1903年 米国から高村光雲あての絵葉書




1903(明治36)年の3月29日にニューヨークから高村光雲宛てに送られた絵葉書です。
達筆すぎてよく読めませんが、送り主はシアトル、セントポール(ミネソタ)、シカゴへと渡ったようです。

シカゴでは1893(明治26)年に行われたシカゴ万博跡地があり、日本の鳳凰殿がそこに残って建っていました。
葉書の主も立ち寄ったようですね。
鳳凰殿には高村光雲による欄間が用いられており、その報告だったのでしょう。

葉書には「銅像の沢山なる」云々とありますが、本当に読めない!
何より送り主の「松岡(?)」なる人物は誰でしょう?
高村光太郎がアメリカに渡る3年前に光雲に葉書を送るような人物...

松岡美術館の創始者、松岡清次郎かとも思いましたが、彼じゃ若いよね。
まさか、松岡洋右じゃないだろう。彼の渡米は1893(明治26)年。
あぁぁわからない!

2020年7月4日土曜日

仏教と彫刻

今回のお題は「仏教と彫刻」です。

明治以前、この国の「彫刻」的なモノのとして仏像がありました。
維新後に西洋のsculptureが輸入された結果、例えば高村光雲は自身の作品から漂う仏臭さから逃れようと試みます。
しかし、その後のsculptureを教育として受けてきた若い世代は、新たにsculptureとして仏教的なモチーフの作品を生み出していきます。
昭和初期の帝展などではそういった作品を多々見る事ができます。





一方、明治初めには廃仏毀釈があり、寺院では仏像が人々の手で破壊されます。
それを憂えたフェノロサや岡倉天心らが仏像に新たなsculptureとしての価値を見出します。
それは美術館に仏像を並べることを可能にし、現在でも私たちは仏像を信仰から切り離し、「仏像」≒「仏教」としてこれらを見ています。

彫刻家達の仏教的なモチーフの作品もまた「仏像(彫刻家達の作品)」≒「仏教」です。
作家それぞれに信心があるのかもしれませんが、それらの作品は「ART」としての価値観、または信仰で覆われたものだからです。

近代が「仏像」≒「仏教」を生んだ...とそういった話で終わればよいのでしょが、実はこの話はちょっとめんどくさい。
つまり、元来仏教にとって、「仏像」≒「仏教」であるからです。
小乗仏教、つまりお釈迦様の時代に仏教はありません。
大乗仏教、日本まで流れ着いて変形した大乗仏教にとって仏像とは、文化の象徴であり、極楽を観想したり、信仰心を集中させる道具でしかありません。
大乗仏教の空観にとって「仏に逢うては仏を殺せ」であり、仏様自体あっても無くても良い存在。
いわんや仏像など必要あろうか。
その為、廃仏毀釈では、仏像が仏教徒にとってあっても無くても良いからこそ進んで破壊したとも言われます。

しかし、さらにさらに面倒なのは、仏教にとって仏像がそういった存在だからこそ「仏像」≒「仏教」を受け入れているわけで、よって、「彫刻家達の仏教的なモチーフ」や「美術館に並べられた仏像」をも仏教として囲いこんでしまいます。
京都へ行って仏像を見て回る観光をも、興福寺の阿修羅像を好きだという仏女らも、仏教は「ありがたいことです」と囲い込んでしまいます。

ではいったい、「彫刻家達の仏教的なモチーフ」とはなんなのか?
「美術館に並べられた仏像」はなんなのか?
これらの問題を解決することなく来たことで、北村西望の長崎の平和祈念像のような...まるで仏教のような...グロテスクな作品が生まれるわけです。

しかし、仏教の良いところは「お釈迦様がこう言った」と言えばどんなものでもお経になり、そのお経それぞれに宗派を生み出せること。
つまり「彫刻家達の仏教的なモチーフ」や「美術館に並べられた仏像」は新たな宗派として考える事だってできるのではないか?
北村西望のように仏教的なモチーフをつくる彫刻家や、美術館に仏像を並べたがる学芸員ら、そして阿修羅像を好きだという仏女はその檀家なのです。
仏教の近代化は、こうした新たな宗派をつくり、現在も尚、無自覚に信徒を増やしているわけです。