元寇記念碑設立の為の儀損金の領収書です。
元寇記念碑は、現在でも福岡市に建っています亀山上皇の銅像を指します。
上皇の絵葉書を持っているかと探してみましたが見当たらず。
しょうがないので、Wkiの画像
この像は、福岡県警務部長だった湯地丈雄氏等によって明治37(1904)年に建立されます。
実は亀山上皇のある東公園近くに、竹内久一作の日蓮上人像も建っています。
企画は亀山上皇像の方が先でしたが、建立は日蓮上人像の方が僅差で少し早いのですよね。
その理由に日蓮上人像のバックに、東京美術学校と(プライドの高い)岡倉天心がいたからではないでしょうか?
そして、もう一つ理由があるのですが、それは後に書きます。
銅像の原型は山崎朝雲。
その原型木造も現存します。
以前、山崎朝雲による「敵国降伏」の書を紹介しました。
「敵国降伏」は亀山上皇の言であり、福岡市の銅像の台座にも刻まれています。
その繋がりで、この書があったのかもしれません。
さて、上記の領収書ですが、明治29年と書かれています。
15銭を儀損金として支払ったようです。
現在に換算すると3000円くらいのようです。まぁ、義理で出せる金額ってとこでしょうか。
この儀損金、最終的にはいくら集まったのでしょうね。
とはいえ、この集金の一部は使われなかったと思われます。
それが先に書きました、亀山上皇像の建立が遅れた理由の一つで、実はこの集まった儀損金は横流しされたようなのです。
下の記事を参考にさせて頂きました。
明治25(1892)年、時の松方内閣は解散を行い、第2回衆議院議員選挙が行われます。
その時、内務省と地方の知事によって選挙干渉が大々的に行われ、警察の動員によって死者を出す結果となります。
安場保和知事であった福岡県でも2名の死者が出て、その結果、安場知事は辞任することになります。
この時、元弘記念碑のために集められた金が、選挙干渉の為の資金として使用されたと言います。
そして、上皇像設立企画は頓挫、日蓮上人像のバーターとして上皇像の建立が再企画されるまで時間がかかったというわけです。
藩閥政治下にとって、野党は、元寇と同じだったってわけでしょうか。
この銅像の最初期の図案は、元寇に対峙する騎馬像だったと言います。
すべての儀損金が無事であれば、現在以上に大きな銅像が建っていたかもしれません。
それと、この領収書には手紙が同封されていたのですが...まったく読めません...
もし、先に書きました流用の件について何か書かれているとすれば面白いのですが...
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