2020年12月21日月曜日

彫刻と天皇制

天皇制とアートについて考える機会があったので、少しここに書いてみようと思います。

戦前の美術史を語る場合、その対象は絵画を中心としたものになります。
例えば所謂ファシズム美術では、戦争画が中心にあり、プロレタリア美術もまた、マヴォのような複合美術も一部にはあるせよ同様です。
「彫刻」をして美術史の中心に語られる事はありません。
そのため、戦前の「天皇制」と美術という題で話がされる場合も、その対象は絵画になります。
ですが、「彫刻」は絵画とは異なる歴史を背負っている…というよりも、作家数も少なく、関わる人間の数も限定される「彫刻」の方がより純化した日本の美術史の姿を見せているのではないか、私はそう考えています。

私は、萩原守衛を代表とする日本近代彫刻史の強い恣意性に疑問を感じています。
「天皇制」を軸に「彫刻」を語ることは、『純化した日本の美術史の姿』を示す材料になるはずです。

では、歴史のおさらいです。
明治維新によって西欧諸国と対等となるための、日本は憲法と資本主義を導入します。
伊藤博文らは憲法と資本主義の根にキリスト教があると学びます。
近代化には前近代的なキリスト教をベースとした思想社会が必要です。日本はキリスト教に代わり、前近代的な「天皇」への信仰をベースとした思想社会によって近代化を行います。

『「天皇」への信仰をベースとした思想社会』がどんなものであったのか、それをわかりやすく示すエピソードが高村光雲の「矮鶏」と「楠木正成像」にあります。
「矮鶏」は光雲が37歳のころの作。この作品が明治天皇(聖上)の目に留まり、宮内省お買い上げとなります。光雲のこの作は伝統的な木彫と西洋的な観察を組み合わせた当世のコンテンポラリーアートでした。
洋装に切り替えた明治天皇は、コンテンポラリーアートをも購入するのです。
次に「楠木正成像」ですが、こちらも天皇へ献納されており、展覧の様子を高村光太郎が記しています。光雲の名誉への興奮が伝わる文書で、高太郎もまたその心を継ぎ、後の戦争詩が生まれます。

明治以前に『「天皇」への信仰をベースとした思想社会』がどれだけ広まっていたのか、朱子学の影響が武士階級以外にどれほど影響を与えていたのか、議論あるところと思いますが、光雲の時代においては、『「天皇」への信仰をベースとした思想社会』がある程度には広まっていたとわかります。
『「天皇」への信仰をベースとした思想社会』によって生まれたのは法だけではありません。このように当時の人々の言葉や生活様式を変革し、人の心まで変えました。
なにより光雲は彫刻家です。彼の意識、美意識をも生み出したと言え、その美意識は息子の光太郎も継いでいます。
そう、私たちの美意識は、『「天皇」への信仰をベース』としています。もちろん、光雲が仏像彫刻を学んだように江戸時代から地続きの美意識ももちろんあるでしょう。しかし、これを抑えておく必要があります。

次にその美意識に絡めとられた時代についてです。
『「天皇」への信仰をベースとした思想社会』を生んだ伊藤博文らにとって、この信仰はネタ、つまり虚構だという意識はあったでしょう。それが昭和初期の天皇機関説事件のころにはベタに信仰する人々が影響力を持つようになります。
「八紘一宇」または天皇を中心とした世界統一を本気で考える人があり、それを支える人がいました。その中で彫刻はファシズム美術、戦争彫刻へと進んでいきます。

戦争画は戦時のプロパガンダとして用いられ、国内に運ばれ多くの動員を呼ぶ展覧会が開かれます。持ち運びが容易ではない彫刻は写真パネルの展示がなされるくらいしかありません。そこで彫刻家が行ったのは、一つは現地へ行って彫刻を作ることでした。
造営彫塑人会や軍需生産美術推進隊などの作家の合同制作によるモニュメントが造られます。この一つの作品を合同で作るという個人主義的を超克しようとする思想は、プロレタリア美術へと受け継がれ、戦後へ影響を与えます。

もう一つ、彫刻家が行った仕事は、市井の中で彫刻を生かす事でした。
関東大震災後の廃墟が立ち並ぶ中でバラック装飾社の若者たちはバラックにペイントし、アートの社会化を目指します。
それに参加した日名子実三らは彫刻団体「構造社」を立ち上げ「彫刻の実際化」を標榜し、メダルや雑貨等へ彫刻技術を用いり、作品として仕上げようと試みます。
そこでは、大量生産の肯定があり、後のポップアートにみられるモチーフの反復などが見られます。

これら彫刻家の仕事は、当時の空気の中で行われた戦争プロパガンダです。
しかし、現在につながる豊かな美の歴史でもあります。
戦争画が、その一時期の歴史の迷いのように語られることがありますが、彫刻を含め全体を見れば、やはり私たちの歴史とのつながりを理解することができます。
ただ漫画やアニメ、デザインなどに比べればこの地続きの美術の歴史の検証はなされていないのではと思います。

欧米のコンテンポラリーアートが結局キリスト教から抜け出せない、または抜け出す必要を感じていないローカルなものであるように、日本の美術もまた天皇制から抜け出せない、または抜け出す必要を感じていないローカルなものです。
しかも、私たちの美意識が天皇制によって生まれたのにも関わらず、まるでそこから自立できたかのように振舞っている現代の日本の美術。その結果が今なのだと思います。
もしかしたら、光雲の作品が宮内省に買われたように、日本の
コンテンポラリーアートが買われる状況が生まれてやっと、私たちの歴史が地続きになり、そこからの自立の道もできるのかもしれません。

というわけで、陛下には村上隆の彫刻を買ってもらいたいのです。

2020年12月16日水曜日

林教授在職二十五年記念祝賀会 絵葉書







東京帝国大学医学部薬物学教室の教授であった林春雄の銅像や肖像画を写した絵葉書です。

彼の在職二十五周年を記念し制作された肖像郡で、作家は建畠大夢、藤島武二と和田三造。
この顔ぶれから、東京美術学校への依頼だったと思います。
現在、この銅像は東京大学に保存されているようです。
サイトでは、作者不詳となっていましたが、建畠大夢の作だったんですね。

面白いのは、絵葉書に祝賀会の予定表とこの作品依頼の収支が付随していることです。

収入:10076円
支出:10076円

内訳
 目録    :3000円
 油絵肖像  :3000円
 銅像    :2000円
 記念品   :500円
 絵端(葉)書:250円
 印刷費   :250円
 郵便    :250円
 広告費   :400円
 宴会補助費 :300円
 雑費    :176円

(肖像画が2種あるのですが、この内訳はどうなっているのでしょう?)

建畠大夢の銅像製作費は2000円。
当時の大卒初任給が75円程、平均年収が700円程でしたので、かなり高額な物であったことがわかります。
鋳造費を引いて、いくら作家に入ったのでしょう。
半分くらいかな?
絵葉書三枚もフルカラーなこともあって結構な金額。
さすが帝国大学医学部!!

2020年11月13日金曜日

鬼滅の刃と桃太郎メダル


 以前も紹介しました日名子実三による「国民精神作興体育大会参加章」メダルです。
なぜ、今回再びこの桃太郎のメダルを紹介するかと言えば、「鬼滅の刃」人気に便乗するため!


劇場版「無限列車編」は観に行きました?
私も行きました。
そして、感動とともに深く考えさせられました。

「鬼滅の刃」の物語は強い。ストーリだけでなく劇中の台詞も強い。
その強さは微塵も揺るがない炭治郎らの「正しさ」によります。

私の様なおっさんは、ガンダムでもジブリでも、エヴァでも、そんなアニメを観て育ち「正しさ」を疑うこと、それがサブカルチャーの在り方だと刷り込まれてきました。
私のブログもまた、日本美術の「正しさ」への懐疑が根底にあります。

そこで「鬼滅の刃」ですよ。
もちろん鬼にも事情はあり、それを描いてはいますが、だからと言って炭治郎が「正しさ」を疑い、揺れることはありません。
そういう「正しさ」を求める人が大勢いる。
きっとこれが、コロナ以降の世界のカルチャーなのかもしれないと思うわけです。

閉塞感から「正しさ」を求める時代…
かつてそんな時代がありました。
その時代に描かれた鬼を倒す物語。
それが昭和の戦時下での桃太郎です。


プロパガンダとしての桃太郎は、この時代の「正しさ」の象徴であり、戦争の「正しさ」を体現するキャラクターでした。
上記の桃太郎が描かれた「国民精神作興体育大会参加章」は昭和13年に行われた大会です。
この年は国家総動員法が施行されます。
国民が自身の「正しさ」に酔った時代のその心に桃太郎が重なり表し、体育大会の参加者に手渡されたわけです。

桃太郎の物語は敗戦とともに「昔話」となります。
そして、サブカルチャーは戦時の文化を継承しつつ、複雑化していきます。
令和の時代に生まれ落ちた鬼退治の物語「鬼滅の刃」はどこへ向かうのか気にかかるところです。

2020年9月14日月曜日

式場隆三郎:脳室反射鏡

現在、新潟市美術館では『式場隆三郎:脳室反射鏡』と題し、式場隆三郎を紹介し、掘り下げる展覧会が行われています。
http://www.ncam.jp/exhibition/5602/
十年来の式場ファンの私としては、本当に感無量!
また、式場隆三郎という人物の持つ問題が、今日性を持つという私の思いを再確認できました。

式場問題の今日性とは、例えば大塚英志氏が『「ていねいな暮らし」の戦時下起源と「女文字」の男たち』で書かれてことにも通じます。
大塚英志氏は、昨今の「新しい生活」が大衆化していく様が、戦時下で「ていねいな暮らし」というプロパガンダが大衆化していく様子と同様で、その気持ち悪さを語られています。
私たちのまわりの、それほど気にもとめないこと、小さな生活を彩るもの、それらが実際は国策的で暴力を伴う大きなプロパガンダで出来ているのだという事です。

では、式場隆三郎はどういったプロパガンダに加担していたのか。
私はそれが『アート』の大衆化であったと考えています。
私たちがアートと言われ考えるもの、アーティストの姿として描くもの。
その背後に式場隆三郎があるのではと考えています。

ゴッホのようにただ一つの美をもとめ、苦悩し死んでいく姿。
山下清のように「野に咲く花の様に」「生きてゆけ」る姿。
これらに私たちは感動し、アートに纏わる物に動員されます。
しかし、私たちは作品そのものに動員されたわけではなく、作品が背負う物語に動員されています。
その物語を私たちの耳元でずっと囁き続けるのが、式場隆三郎です。

確かに白樺や民芸運動にも、新しい「美」を啓蒙する思いはあったでしょう。
それを民衆に向かって、ケバケバしく、大衆紙的な切り口で浸透させていったのが式場です。
もちろん彼一人の力ではありませんが、そこに向かう情熱の異常性から、どうしても式場隆三郎が悪目立ちするのですよね。

悪目立ちと言えば、柳宗悦の民芸運動では、ハイカルチャーとして「民芸」があり、「民衆」に対して差別まではいかないものの、区別があり、それに敏感で、「民衆」に自身が入り込むことはありません。
しかし、式場はロウな「民衆」にたいして「民芸」を説いてしまう。
そこに生まれるのは、「美」を知る者と知らない者といった「民衆」の分断です。
「民衆」の分断とは、同じ民衆の中で、私(達)とそれ以外とで分けてしまうことです。
それは、例えば芸能人を「薬を使うような人間は駄目な奴だ」と蔑んで楽しむ大衆紙的な姿であり、例えば美術館へ行く層とそうでない層とを分断させ、焦燥させて、さらに互いに憎み合わせる姿です。
そう、あの「表現の不自由展」の裏にも式場隆三郎がいます。

猛毒である彼の呪縛は「それほど気にもとめないこと、小さな生活を彩るもの」だけに静かに広く浸透していることに気がつきにくいかもしれません。
ですが、耳元で囁く式場の声が聞こえる人が増えれば、もう少しアートの景色も鮮やかになるのではないかと思います。

2020年8月26日水曜日

昭和16年 セメント美術工作研究会発行「セメント美術」





国家総動員法の翌年、昭和14年に「物価統制実施要綱」が制定。彫刻家に必要な物品に対しても統制がなされます。
そこで、銅像に必要な銅やその他の金属に代わり、セメントを使用した彫刻作品が推奨され、この研究の為にセメント美術工作研究会が発足となります。

冊子「セメント美術」は、昭和16年4月15~17日の間に東京帝国鉄道協会で開催された「日本ポルトランドセメント業技術会第26回例会」に於いて、セメント美術工作研究会理事の森田亀之助、矢崎好幸の研究講演を基礎に、セメント美術についてまとめられた内容だと言うことです。
右上の像が何だったか思い出せない!



 
森田亀之助は、東京美術学校の教授職の後、昭和21年に創設された金沢美術工芸専門学校の校長を勤めます。また美術史家として「美術新報」を含め多くの雑誌に寄稿、執筆を行っています。
矢崎好幸は、東京美術学校のセメント美術教室主任教官だった人物のようです。
当時の新しく、時局に沿った素材「セメント」の第一人者がこの方々なのですね。

この冊子には、
『ことに最近に於ける工藝界も、事変という大きな動揺によって、かつての貴族・個性・稀有・高貴・異常・自由という特殊の世界から、国民・実用・多量・廉価・通常・規格といった国家目的線変換し、著しくもモニュメンタルのものとなって、その合理化・機能化・経済化が強調されつつある』
と書かれています。
敗戦間近の日本の有様を見ると忘れがちなのですが、あの戦争は合理的で機能的で科学的な生活を求めた結果なんですよね。
はてさて、昨今の「新しい生活様式」はどちらなのでしょうね?

2020年8月23日日曜日

第二回プロレタリア美術大展覧会 絵葉書

本日は絵画の絵葉書です。
 第二回プロレタリア美術大展覧会出品
岡本唐貴作「無題」
吉原義彦作「ひきあげろ!」
の絵葉書です。

第二回プロレタリア美術大展覧会は1929(昭和4)年に行われました。
その時、販売された絵葉書だと思われます。
岡本唐貴の「無題」は「争議会団の工場襲撃」として晩年に再制作されているようですね。
当時は作品名を付けられなかったのでしょう。けれど見る人が見ればわかるといった作品だったのでしょうね。

300号というサイズ、構成的な色彩と絵画として見れば岡本唐貴の作品の方が優れているのかもしれませんが、絵画の持つ熱量は暑苦しい肉の壁が迫ってくる吉原義彦の「ひきあげろ!」に感じます。

正面に子供を配置したわけは何でしょう?
プロレタリアートのプロパガンダを信じる、殉教者のような純粋な笑顔のこの子が正直怖いです...
プロパガンダの洗礼を受けた子供たち、ヒトラー・ユーゲント、毛沢東の紅衛兵、そして日本の軍国少年少女にオウムチルドレン、皆同じように純粋な笑顔だったのでしょう。
この純粋な信仰者の狂気を、当時のこの作家も持っていたのかもしれません。

吉原義彦は後に従軍画家として活動します。
それは、この時代に作家として生活し食っていくためでもあったかもしれませんが、純粋な信仰者の狂気が「プロレタリアート」から「日本」に移行しただけなのではないかと考えてしまいます。

2020年8月3日月曜日

高村光雲宛の絵葉書の送り主が桜岡三四郎と判明!

先日UPした高村光雲宛の絵葉書ですが、送り主は桜岡三四郎だと教えていただきました!
桜岡三四郎は明治3年生まれの鋳金家です。
東京美術学校の鋳金科の主任、後に教授となります。
東日本大震災により崩壊してしまった仙台、青葉城跡に建つ昭忠碑の上部に取り付けられた金鵄像は沼田一雅が設計し、桜岡三四郎、津田信夫らが鋳金した代表作です。

その桜岡三四郎は、明治36(1903)年にアメリカに留学しています。
この絵葉書の消印の日付と同じですね。
桜岡三四郎は、高村光雲に無事アメリカに着いたことを伝えたかったのでしょう。

桜岡三四郎がアメリカの行く5年前の明治31(1898)年には、岡倉天心が東京美術学校を辞職することとなる美術学校騒動が起きています。
当時、美術学校助教授だった桜岡三四郎は、天心に味方して一緒に辞職。
対して高村光雲は美術学校に残ることとなります。
袂を分けたように見える二人ですが、しかし、この絵葉書を見てもわだかまりは感じませんね。
その後の桜岡三四郎が美術院と東京美術学校の両方に籍を持ち、架け橋となって働いたことを見ても、桜岡三四郎が光雲らに対して思うところは無かったのだろうと想像します。