2019年5月4日土曜日

畑正吉作 新聞人 守屋善兵衛 レリーフ

これからは、私が託された畑正吉作レリーフの紹介を増やしていきたいと思っています。
多分、あまり表に出ない作品であり、様々な研究等で興味持って頂ければ嬉しいですね。

このようなレリーフは、対象とする人物への賞賛や、その像を用いた顕彰等の目的があって畑正吉に依頼された作品だと思われます。
一部はメダルに使用されたのが分かっていますが、殆どの目的が不明です。
この「守屋善兵衛」のレリーフもどのような目的で制作されたものでしょう。
レリーフの裏側には、「守屋善兵衛」と「大正2(?)年作」の文字が書かれています。
大正2年だとすれば、畑正吉が東京美術学校教授に就任した年です。
ただ、その横の文字が気にかかります。何を書いてあるか分かりません。

さて、「守屋善兵衛」ですが、彼の名を冠したコレクションが目黒区の守屋図書館に寄贈されています。
その多くが彼が設立、または関わった新聞で、「台湾日日新報」や「満州日日新聞」です。
守屋善兵衛は、1898(明治31)年に台湾新報と台湾日報を合同して台湾日日新報を経営し、その後、満州日日新聞、満州の教育貯蓄銀行、東京動産火災保険などの重役を務めた人です。所謂新聞人ですが、外地の新聞に関わった人物なんですね。
この図書館には銅像も建っています。

この守屋善兵衛と畑正吉がどのように繋がるのか、興味がわきます。
例えば、畑の台湾関連の仕事にはこういうものもあります。
台湾勧業共進会メダル

また、台湾の彫刻家、黄土水が東京美術学校に入学したのが大正4年ですから、日本と台湾が身近になっていった時期に、畑正吉は東京美術学校教授であったということなのかもしれません。

2 件のコメント:

  1. このコメントは投稿者によって削除されました。

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  2. 「何を書いてあるか分かりません」とした謎の文字ですが、どうも「寿」らしい。
    そう考えると、守屋善兵衛の長寿祝いだったとも考えれれます。
    守屋善兵衛は慶応2年生まれ、昭和5年没。64歳で亡くなっています。
    とすれば還暦祝いか?とすれば大正15年か昭和元年のがそれにあたります。
    そう考えてみると「大正2年」としたものも怪しい。これでは守屋善兵衛が45歳の時の姿になってしまう。そうは見えません...
    再検証が必要の様です。

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