2018年9月24日月曜日

「功烈不朽」歩兵第三連隊戦跡記念碑 須藤徳久設計




須藤徳久設計による歩兵第三連隊戦跡記念碑です。
紀元2591年とありますので、1931(昭和6)年に配布されたものだとわかります。
1931年は満州事変が起こった年ですね。

この年、第三連隊がどういう動きをし、どうして記念碑の作製に至ったのか、よく分かりませんでした。
そして、この記念碑が忠霊塔を模しているわけもです。
この忠霊塔は実際に建てられたのでしょうか?
また、なにより不明なのは、この忠霊塔の設計者である「須藤徳久」という人物です。
この人は、いったいどういった人物なのでしょう?
ネットでは、いくら検索しても見つける事ができませんでした。
市井の建築士なのでしょぅか?
しかし、そういう人物が第三連隊戦跡の設計をするのも疑問です。

このような忠霊塔は、全国津々浦々建てられ、現存するものもあります。
だからこそなのでしょうか。未だに全貌が把握できていないように思えます。
丹下健三のような有名どころではない、当時の無名な建築士の仕事も、当時の状況を知る上で大切なデータではないかと思います。

2018年9月2日日曜日

猫を飼いました。

我家に猫が来ました。名前は風(ふう)です。
ウチのこの子がカワイイ、カワイイと書きたいところですが、このブログはメダルについて語ってるのでメダルと絡めて書いて見たい。
けれど、メダルのモチーフに猫が使われているものはまったく見たことないので語れない!(ライオンならありますが。)
戦争彫刻については尚更で、靖国神社に鳩や馬の像はあっても、猫はありません。

猫は犬と同様に深く人の生活に関わる生き物ですが、メダルや戦争など人の社会的な面にはあまり馴染まない生き物なのでしょうね。
または、人の方が馴染んで欲しくないと考えているのでしょうか?
不思議です。

とは言え、彫刻家が猫を造らなかったわけではありません。
朝倉文夫や木内克、河村目呂二等は大の猫好きです。
下の絵葉書は、朝倉文夫作、第五回文部省美術展覧会出品「餌食む猫」
河村目呂二作、第四回構造社美術展覧会出品「接吻」です。


朝倉文夫は、猫の肉感を、河村目呂二は人との関係性を主題としているようです。
猫を飼って思うのですが、猫の馬や犬の構造的な角のある立体感とは異なる、流動的な肉感は魅了されます。
そして、その柔らかさは、目呂二が女性を通して表しているような穏やかで癒しを感じさせる関係性を生み出すようです。

猫は、星新一の小説にあるように、我家で王様かお妃の様に振舞い、尚且つ実的な利益をまったく与えない生き物でありながらも、その「関係性」をもって人に必要とされているのですね。
不思議な生き物です。

2018年8月16日木曜日

公共のアート

福島でヤノベケンジさんの作品が設置され問題になっているようですね。https://www.bbc.com/japanese/45192561
公共の場所に置かれる像は、美術館に守られること無く広く民意に晒されます。
その時、美術家はどんな態度で設置にあたるべきでしょうか?
こういった民意に真摯に向き合うことこそが、現代のアートのあり方だという人もいるでしょう。
けどね、私はそんな真摯な態度を嫌悪する人だっていると思います。
真摯に話す息が顔にかかることを気持ち悪いと思う人だっていると思うのです。
かといって冗談でしたと言われても癪に障る。
そういう作家の意図にどこまでもどこまでも絶対的に添えない人はあるはずです。
美術家が公共の場に作品を建てるとは、彼の正義を謳っているわけで、それは他の正義からしたら悪です。
『皆にわかってもらいたい。」は独善的な暴力です。
民主主義での解決は暫定的に正しさを確定したに過ぎません。
結局は政治的な力の「正しさ」でしかないでしょう。
そういったアートが公共の場に建っても美しいと言えるのでしょうか?

私はね、今の時代、ある正義や美意識に基づいた像を公共の場に設置するのは無理なのではないかと考えています。
コンビニのエロ本やネットのエロ動画がゾーニングされなければならないように、公共空間に於いて見たいもののみが見れるといった技術的なゾーニングがなされない限り、無理なのではと思います。

こういった無味乾燥な社会を望むか、善意によって誰かが犠牲になっても(そしてそれがが見えていても)「あたたかい社会」を望むか、その岐路にあるのではと考えています。

2018年8月13日月曜日

戦前の徽章業

このブログの対象は、戦前のメダルにおける彫刻家の仕事です。
けれど、当時のメダル作製の多くは民間の徽章業者によってなされていました。
そこでは、彫刻家の変わりに図案屋と彫刻師によって原型が作製されました。
美術界とは異なる彫刻の世界があったわけですね。

民間徽章業者の始めは、明治18年に設立された鈴木梅吉の日本帝国徽章商会と言われています。
千代田区には、「徽章業発祥の地」として彼の記念碑が建っています。
http://www.kanko-chiyoda.jp/tabid/752/Default.aspx

その頃の彫刻師は、江戸時代からの彫金師の流れを汲んでいました。
山田盛三郎(著)「徽章と徽章業の歴史」では、日本帝国徽章商会の彫刻師「小山秀民」よりの系譜が書かれています。

彼らは、彫刻家と交わりがないわけではなく、構造社に出品している者もいました。
しかし、多くは職人として「芸術」とは距離を置きつつ、彫刻家たちと競い合い制作していたようです。

彼らにとって、彫刻家とはどういう存在だったのでしょうね?
官展に入選するような作家は、ある程度敬意を表されていたでしょうし、きっと「先生」なんて呼ばれていたでしょう。
彼ら彫刻師は、そんな「先生」を立てつつ、裏では「あんな奴らは、先生、先生とおだてられちゃいるが、まったくメダルのことはわかっちゃいねぇ」なんて言ってたのかもしれません。
彫刻家の作った原型に駄目だしをして、勝手に手直しすることもあったのかも。

前述しました「徽章と徽章業の歴史」では、戦前からの徽章の歴史を詳しく述べており、彫刻師についても同様なのですが、業界とちょっと離れたところにあったろう彫刻家たちについてはあまり触れていません。
畑正吉が紹介されますが、実際どうやって彫刻家と関わっていたのかは、書かれていません。
まだまだメダルの歴史は霧の中ですね。

下の画像は、昭和に入り徽章業者の増える中で、差別化を図ろうと行われたカタログ販売の冊子です。

それぞれのカタログの図柄を見ると、業者間に差別化できるものがあったようには思えません。
際立った個性は無いといいますか、徽章に突飛な図柄を必要としなかったのでしょう。
どちらかと言えば、安定した納品とか、製品の精度とかを問題にしていたように思います。

2018年7月18日水曜日

ロダンと親鸞とナショナリズム

「煩悶青年のテロと彫刻家」にて、当時テロを起こした煩悶青年の思想と彫刻家たちとの間に似たものが流れていたのではないかと書きました。
http://prewar-sculptors.blogspot.com/2018/06/blog-post_30.html

そんな煩悶青年だった人物、「原理日本」を創刊し、左派や識者に対し強烈な批判を行った国家主義者で詩人の三井甲之は、1913年に「人生と表現」誌で発表した「歎異抄」においてこのように述べています。
宗教とは人生の全展開に随順して拡大無辺の内的生活に没入することである。(中略)阿弥陀経などは此の心境を説明したものであるが、それはむしろ直接的芸術的創作を以て代ふべきもので、阿弥陀経に代ふべきものはロダンの芸術の如きである

三井甲之は、自身の煩悶を乗り越える為に、正岡子規の俳句と親鸞の思想に傾倒します。
正岡子規のあるがままを写す「写生」という概念は、ヨーロッパの自然主義からの影響もありますが、何より松尾芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」のような我や個性を超越した境地、観察者の視点さえ無くなった自然のあるがままを詩文で表すことを目指したものです。

この「あるがまま」を肯定する思想として、三井甲之は親鸞の「自然法爾」を理解します。
「自然法爾」とは、自己のはからいを打捨てて、阿弥陀如来の誓いにすべてを生ききることを言います。

また、彼にとってロダンの芸術とは、まさに自然主義であり、人間身体をあるがままを描いたものだと考えます。
自己の我や個性を超えて、自己のはからいを打捨てて、ただ「芸術」にすべてを生ききる、それが彼の芸術観であり、阿弥陀経によって述べられた心境と同じものだと言います。
そうして、彼はロダンと親鸞の思想とを結び付けます。

彼のようなロダニズムは、特殊なものではありません。
例えば朝倉文夫は、自身の出世作「墓守」についてこう述べます。
『従来の制作は自分の主題のものばかりだったから非常に苦しんだ。ところが自然を見ると自分が考えているより自然の方がどうもよく見える。(中略)「墓守」を作ったとき、私は純客観の立場にいた。(中略)純客観は正岡子規が論じていたが、私はこれでなくてはいけないことに気がついた。そしてその後私は主観と決別して客観に徹する態度に一変した。』
ここでも正岡子規が登場しますが、朝倉文夫は正岡子規に弟子入りしようとするほど傾倒していました。
ですから、自身の彫刻観に正岡子規の「写生」を取入れたのですね。
三井甲之のロダニズムも朝倉文夫の彫刻観も同様に、純客観を重視し、自己のはからいを討捨て、あるがままの自然に美を見出したわけです。

親鸞とロダンを結びつけた三井甲之は、その後親鸞の思想によって国家主義を肯定していきます。
彼の親鸞信仰にある「あるがまま」を受け入れる思想は、この世界を肯定することであり、『祖国日本』つまり天皇の統治する故国日本を肯定することへと繋がっていきます。
そして、左派や識者は、この阿弥陀の誓いによって救われるべき世界を知識や思想による社会改革、つまり自己のはからい、自力によって変えようとする者たちであり、何よりも否定すべきだと考え、思想攻撃をしたわけです。

それはつまり、自然をあるがままに映し出すロダンの美しい彫刻を、人智によって歪ませる輩があり、それを強く非難したわけですね。
その姿は、抽象彫刻を非難する後年の朝倉文夫や石井鶴三に重なります。

朝倉文夫は、戦時下の著書「美の成果」や「民族の美」では強烈なナショナリズムを展開しますが、戦時下の彫刻作品にはそれほど戦時を感じさせる作品は少ないようです。
それは、彼が戦時下の作品を生み出せなかったのではなく、もしかしたら彼の裸婦のような「あるがまま」を描いた作品そのものが、三井甲之と同じ強烈なナショナリズムを内包したものなのかもしれません。

2018年7月15日日曜日

田中修二 (著)「近代日本彫刻史」を読む

前回に続いて田中修二 (著)「近代日本彫刻史」を読む。
http://amzn.asia/cZ2Nqv4

小平市平櫛田中彫刻美術館にて昨年行われました「メダルの魅力」展で、私の書いた文章を配布させていただきました。
その内容をこのブログでも載せたのですが、「あれっ?これだけ?日本近代彫刻史ってこれだけなの?....」と現在ある日本近代彫刻史への違和感を書きました。

田中修二さんの「近代日本彫刻史」も、同じような問題意識をもたれて書かれているように思います。
日本近代彫刻は明治維新後の西洋の受容と模倣から始まり、萩原守衛、高村光太郎らによるロダニズムによって更新され、戦時での低飛行を抜けて、戦後になりコンテンポラリーと出会う...といった日本の歴史観に対してです。

歴史や歴史観と言うものは、恣意的なものです。
その時代時代によって、必要とされる「歴史」が切り取られ語られることで生まれます。
ですから絶対的な、またはたった一つの真実の歴史というものは無いのですね。
同じ出来事でも、それを受取った人が二人いれば二つの真実が生まれます。
リアルに平行世界が多数存在し、それを観察者が切り張りして「歴史」が成り立ちます。

ですから、歴史や歴史観は、民主主義と同様に常に不足している状態であり、不断の努力によって更新し続ける必要があるのですね。
これは美術史や美術史観も同様です。
ただ、美術史は「美」という個人にとって絶対的な価値観に拠るものだからこそ、こういった更新が難しいのでしょうね。

田中修二さんの「近代日本彫刻史」では、明治以前から続く日本の豊かな立体造形史を「彫刻」として語ることで、近代彫刻史観では見えづらくなている人形やマネキン、建築と建築装飾、工芸等にある「彫刻」を浮び上げます。
それによって、私たちが生きている「今」ある「彫刻」の豊かさを語ることができるようになるのだと思います。
(ただし、メダルの扱いはまだまだ小さいのですけどね...)

例えば、昨今のニュースで話題のオウム真理教で、第7サティアンにあったサリンプラントを偽装するために作られた発泡スチロール製のシヴァ神像であっても、私たちの彫刻史観の上に出来上がったものなんですよね。
そういうものも直視しつつ歴史を更新し続ける必要があると感じます。

それと、この「近代日本彫刻史」では、彫刻家の仕事として「ゴジラ」等の特撮造形が語られているのですが、そこだけ凄く熱がこもっている様に感じました!(読んでいて目頭が熱くなった...)

2018年7月10日火曜日

黄檗宗と近代彫刻

田中修二 (著)「近代日本彫刻史」を読む。
http://amzn.asia/cZ2Nqv4

日本近代彫刻史を全て語り尽くそうと試みた物凄い情報量の本。
田中修二さんの編集された「近代日本彫刻集成」3部作の別冊のようなもので、これらを歴史と言う縦軸で束ねています。
できることならば電子化され、Wikipediaのように各テキストから画像や細部の情報が表示されるような仕様が欲しい!

まだ読み出したばかりですが、感想をちょこちょここのブログに書いていこうと思っています。

まずは、近代に入る前の前近代、つまり江戸の彫刻文化については、黄檗宗が紹介されていて嬉しい。
江戸期に中国から渡った黄檗宗は、この所の江戸期の仏教の再評価によって注目されています。
近代美術史観によって否定されてきた江戸期の彫刻文化も、その豊かな地域性と多様性を見れば同様に再評価が必要だと思います。
そして、その中でも黄檗宗は、「わび・さび」でもなく、「粋」でもなく、「風流」とも違う美意識を日本にもたらした様で、とても興味深い。
2011年には黄檗宗大本山萬福寺開創350年記念と言うことで展覧会が行われたようです。
http://post.artgene.net/detail.php?EID=8308
見たかったな。

本地垂迹と言いますか、神さんも仏さんも一緒くたの江戸期の「日本教」における彫刻文化はまだまだ掘り下げられることが多そうです。
近代を生み出す土壌であったというより、近代と同価値の美意識の系譜の一つとして。
これからの研究に期待したいと思います。

2018年6月30日土曜日

煩悶青年のテロと彫刻家

このところ政治学者、中島岳志さんの著書をいくつか読ませて頂いています。
彼の言う、明治後期に自身の存在に悩む煩悶青年たちが、日蓮や親鸞の思想を通して、国体論に身を投じ、超国家というユートピアを目指す為、二・二六事件等のテロを起こすに至った...と言う歴史観には、深く考えさせられました。

このモデルは、当時の若い彫刻家たち、特に日名子実三を代表するような、戦時に於いて超国家主義に傾倒した作家たちの説明にも使用できるのではと思ったからです。
彼等もまた、その時代を生きる煩悶青年たちではなかったのか。
そして、テロを起こした井上日召らが日蓮の思想(宗派の信仰ではない)を信仰したように、彫刻家たちは「芸術」を信仰し、その美で彩られたユートピアを現前化しなければと考えたのではないでしょうか?

そこで、大正5年から二・二六事件が起きた昭和11年までの期間でその対比を行ってみました。


社会 親鸞主義関連 日蓮主義関連 彫刻史
1916
(大正5年)



齋藤素巌、帰国
1918 第一次世界大戦後の不況、米騒動 三井甲之が長詩「祖国礼拝」を発表
日名子実三が東京美術学校を卒業
1919
蓑田胸喜が三井甲之のグループに合流 北一輝「国家改造案原理大綱」を発表
北一輝、大川周明らが「猶存社」を結成
第一回帝展
1920

石原莞爾、宮沢賢治が「国柱会」に入会
1921 朝日平吾による安田善次郎暗殺事件 原敬暗殺事件
朝倉文夫、北村西望らが東京美術学校の教授に就任
1923 関東大震災


1924 第1回明治神宮競技大会開催。1943年(昭和18年)の14回大会まで行われる。


1925 普通選挙法、治安維持法制定 三井、蓑田らが「原理日本」を創刊、帝大教授批判を展開

1926
(大正15年/
昭和元年)


宮沢賢治「農民芸術概論綱要」を起稿 日名子実三ら「構造社」を組織
1930
この頃から暁烏敏が皇道と真宗信仰の一体化を説く

1931 満州事変
石原莞爾ら関東軍司令部による満州事変
1932

血盟団事件
1933
滝川事件

1935
天皇機関説事件
国体明微運動

松田改組
日名子実三や畑正吉らによって「第三部会」組織
1936 二・二六事件
北一輝らと若手将校による二・二六事件 改組第一回帝展

第一次世界大戦後の大不況の時代に日名子は東京美術学校を卒業し、関東大震災後の国粋的な風潮が強まる中で「構造社」が組織されます。
テロリストや一部の軍人たちが日本による宗教的な世界統一を夢見、満州事変や血盟団事件、二・二六事件が起こされ、そんな思想に足並みを揃えるかのように、美術界を大政翼賛会化させた松田改組が行われます。
その中で、日名子や畑正吉らは「第三部会」を立ち上げます。

上の年表の比較では、彫刻家達の心の動きまでは分かりません。
けれど、彼らが、というよりも当時の多くの若者たちが、テロリストと同じような煩悶を持っていたのではないでしょうか。

私がこの時代の彫刻家に惹かれるのは、ここに原因があるのかもしれません。
もっと、深く考えてみたいと思います。

ちなみに、わたくし最近、井上日召に顔が似てる気がしています。
どうですかね?

2018年6月13日水曜日

皇太子殿下海外御巡遊記念章 の絵葉書

皇太子殿下(後の昭和天皇)が1921(大正10)年に行った欧州への御巡遊を記念して造られたメダルの販促絵葉書です。
販売元は尚美堂寳飾店で、明治33年創業より現在まで続く老舗の宝飾店ですね。

まずは、絵葉書に書かれた内容を記述します。

造幣局製 皇太子殿下海外御巡遊記念章
本章意匠は東京美術学校作製 御肖像は宮内省下賜 艦姿は海軍省より交付されたる写真により謹刻さる
第壱種記念牌 直径二寸サック付
 九百五十位銀製 金八円七拾銭
 青銅製 金壱円弐拾銭
  右箱代及送料 三箇以内同一 {内地 金参拾五銭 植民地 金六拾弐銭}
第弐種記念章 直径八分サック付
 九百位金製 金拾九円五拾銭
  右箱代及送料 四箇以内同一 {内地 金参拾五銭 植民地 金六拾弐銭}
 九百五十位銀製 金八拾銭
  右箱代及送料 十箇以内同一 {内地 金弐拾八銭 植民地 金五拾五銭}
  右箱代及送料 三十箇以内同一 {内地 金参拾五銭 植民地 金六拾弐銭}
申込 直接御来店予約御申込の方は毎日自午前八時至午後六時迄(日曜休業)願上候
郵便申込は尚美堂記念章係宛 各品名を明記し其代價に送費を加へ為替又は振替を以て前金にて御申込相成度候
発送 本品は九月一日以降造幣局より御廻付次第御申込順により書留にて御送付可申上候
申込取扱元 大阪市東区淀屋橋南詰 尚美堂寳飾店 振替口座大阪四二六番


この絵葉書ですが、表の消印より大正10年の8月頃に送られたことがわかります。
丁度、発送一ヶ月前になるのでしょう。

また、上記の文章から、造幣局製のメダルが一般の店に卸されて販売されていた事がわかります。
そして、大き目のメダルを「記念牌」、小さいメダルを「記念章」と分けていたこと、内地と共に植民地まで通販網があったこともわかります。

「本章意匠は東京美術学校作製」とありますが、これは誰の作でしょうか?
大正初期より東京美術学校で教えていたのは水谷鉄也や畑正吉です。
その後、大正10年の5月に教授陣が一新し、朝倉文夫や北村西望が起用されます。
朝倉文夫らにしては発売ギリギリ過ぎることから、造幣局の技術顧問であった畑正吉の作なのかもしれません。
たしかに畑正吉らしさのある像ではありますが、もしかしたら西郷像のように学生を含めて合同制作したとも考えられます。
後に天皇となる人物の像ですからね、作家個人の制作物にするのは重すぎたのかもしれませんね。

2018年6月11日月曜日

佐藤忠良作「下中弥三郎」メダル

1968年の平凡社「世界大百科事典販売コンクール」のメダルです。

下中弥三郎をモチーフに描かれたこのメダルの作者は、「CHU」のサインから、佐藤忠良だと思われます。
しかし何故、佐藤忠良が下中弥三郎を描くことになったのでしょう?

佐藤忠良と言えば端正な女性像で有名ですが、おっさんの像もないわけではありません。
王貞治の像やメダルなんかもありますね。
http://www.asahi.com/culture/gallery_e/view_photo_feat.html?culture_topics-pg/TKY201101120322.jpg

とは言え、相手は下中弥三郎です。
彼は、平凡社の創業者であり、教員組合(日本教員組合啓明会)の創始者、また労働運動や農民運動の指導者...そして愛国者にして国家社会主義者だったと言われます。
戦後は世界連邦運動に関わるなど、右と左を思いっきり振りぬく姿は、そこらのネットウヨ・サヨとは違う巨大なスケールを持った人物です。

下中弥三郎の本質は「平凡社」の名前からは遠く、皇国日本による世界の統一と平和を求めた夢想家だったと言えます。
ジョン・レノンのように世界中の人々の幸福を語る彼は、世界中の人々が異なる正しさの中で生きている事が想像できず、自身の正しさを理解しない人々を拒絶しました。
しかし、ヒトラーやポル・ポトのように独裁者にもなれなかった彼は、ユートピアの夢の中でしか生きれなかった人だったのでしょう。

そんな下中弥三郎と佐藤忠良はどこで繋がったのでしょう?
戦後、シベリア帰りの佐藤忠良は、本郷新と共に多分に政治的な彫刻家でした。
一時期は共産党員でもあり、平和活動などを行っていた佐藤忠良は、世界連邦運動に邁進していた下中弥三郎をリスペクトする機会があったのかもしれません。

2018年5月23日水曜日

イワン・メシュトロウィッチの木彫

 大正13年の「意匠美術写真類聚. 第2期 第5輯  メストロウィッチの彫刻集」より
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/976839
メシュトロウィッチの作品は、戦前の構造社ら彫塑作家に大きな影響を与えました。
では彼の木彫はどうだったでしょう?


 この作品集にある木彫は、木材を縦に切り、木の形状そのままに像を彫っています。
像の背景には鑿跡が残り、平面全体を強く印象付けています。
私の知識の範囲だけで言えば、戦前の日本に於いてこのような表現主義的な木彫のレリーフは無かったのではないかと思います。

 戦前の表現主義的な木彫作家と言えば橋本平八ですが、彼の木の姿を生かして制作された作品にも、このようなレリーフは無かったのでは。
ただ、橋本平八は鉈彫を意図して制作しており、鑿跡を残した作品はあります。

 橋本平八は、師匠の佐藤朝山や弟の北園克衛の影響で海外の作品にも明るく、もしかしたら彼の鉈彫や木の姿を生かす思想は、円空や東北の仏像だけでなく、イワン・メシュトロウィッチの木彫の影響があったのかもしれませんね。



2018年5月12日土曜日

Intermission 藤田嗣治 本の仕事

現在、目黒区美術館で『没後50年 藤田嗣治 本のしごと』展が6月10日まで行われています。
さすがに希少本とはいきませんが、私のコレクションより、藤田が挿絵を描いた本の紹介です。
まずは、1929年の「Michel GEORGES-MICHEL著 Les Montparnos. Roman illustré par les Montparnos.」
モンパルナスに集まった画家たちの絵が掲載された本書ですが、表紙は藤田の自画像です。

パリの寵児となった藤田の、この正面を見据える自画像から、それを自覚的に演出する彼の気概を感じますね...

もう一冊は「YOUKI DESNOS LES CONFIDENCE DE YOUKI」。
こちらは戦後1957年の本、「お雪」ことリュシー・バドゥの回想録です。
こちらも表紙は元夫の藤田のもの。
中にも藤田の自画像があります。

この挿絵にあるように日本語で「勉強」と「働け」を掲げ、正座して絵を描き、そしてモンパルナスのカフェで女性に抱かれる...この矛盾したあり方を体現しているのが明治生まれの男、藤田嗣治であり、彼の魅力なんですよね。

2018年5月5日土曜日

Intermission 戦時下の絵画

防空頭巾を被った男子の図
日本画の様ですが、時代、作家ともに不明です。
もしかしたら戦後のものかもしれません。

作者の銘が入っていないので写しなのかも。それとも習作かな?
習作だとしたら、同じような構図の作品があるかもと色々探してみたのですが、見当たらず...

ただ、こうやって子供が防空頭巾を被っていることがモチーフになるのは、終戦間近だったのではないかと思います。
鞄に挟まれた紅白の旗が手旗信号の物だとしたら、それを授業で習い始めるのは、これもまた終戦間際のようです。
そこから、昭和19年頃を描いた、またはその当時に描かれた作品ではないかと思います。

ただ、その当時の子供がこんなにふくよかで良いのかな?
けれど、だからこそ安心してこの絵を観れるのですけどね。

2018年4月29日日曜日

自由学園美術展覧会 絵葉書



自由学園は、大正10年にクリスチャンだった女性思想家の羽仁もと子と羽仁吉一の夫婦によってキリスト教精神(プロテスタント)に基づいた理想教育を実践しようと東京府北豊島郡高田町(現・豊島区)に設立。
現在も、幼稚園から大学まである一貫校として運営されています。「自由学園美術工芸展」として美術の展覧会も行われているようです。

この絵葉書は、戦前に自由学園が行っていた「自由学園美術展覧会」の彫塑作品や絵画です。

実は、自由学園の発足当初からこの学校の美術教育に関わってきたのが、自由画教育の提唱者であった山本鼎です。
そして、彫刻については、木彫を吉田白嶺が、彫塑を山本鼎に推挙された石井鶴三が、大正15年から昭和15年まで教えてきます。
山本鼎との関係も深く、児童自由画協会の会員でもあった石井鶴三は、山本鼎の教育論の彫刻での実践者として適任だったのでしょう。

そう言われると、これらの作品になんとなく石井鶴三臭がするかなぁ~と。

また、石井の発案で、こういった絵葉書が発売されるようになったそうです。彼のおかげで、こうして当時の作品を見ることができるわけですね。感謝。

2018年4月22日日曜日

BankART school「 いかに戦争は描かれたか」を読む。

この本は2015年にBankARTスクールで行われた「戦争と美術」と題した講義をまとめたもので、講師は大谷省吾林洋子河田明久木下直之

戦争画についての研究は、戦争画が話題となった1970年代と比べ本当に隔世の感があるなぁと感じました。
戦争体験者が生きていた頃より、今の方が情報が増えているというのは、まぁ、何と言いますか、人間って難しいですね。

藤田嗣治について、多くの情報が出てくるようにありましたが、例えば戦時下の朝倉文夫の戦争協力について語られたものはほとんど見たことがないですね。
高村光太郎については、吉本隆明の本がありますが、アレは詩ですしね。
この本でも忠霊塔などのモニュメントについての講義はありましたが、彫刻についてはほぼノータッチで悲しい。

河田明久さんが、支那事変(日中戦争)時と大東亜戦争(太平洋戦争)時の作品の違いを語られていましたが、彫刻はどうだろうと思い、支那事変時の聖戦美術展と大東亜戦争時の大東亜戦争美術展の彫刻を見比べてみました。

以下が昭和14年7/6~7/23に行われた聖戦美術第一回展の出品作家と作品。

相曾秀之助 傷つける伝書鳩
赤堀信平(招待) 生鮮下の観兵式を拝するして
池田鵬旭 默壽
一色五郎(会員) 従軍記者
伊藤國男 重要任務
伊藤國男 敵陣蹂躪
江川治 征空基地
遠藤松吉 蹄鐵工
大内青圃(招待) 初陣
大庭一晃 水と兵士
岡本金一郎(招待) 腰留め撃ち
小川孝義【大系】 少年快速部隊長
加藤正巳 芽生え行く新東亜
木林内次(出征) 戦盲
木林内次(出征) 傷兵M君像
古賀忠雄 狙撃
古賀忠雄 爆音のあと
坂口秋之助 銃後の婦人
坂口義雄(出兵) 陸軍看護婦
酒見恒(招待) 行軍-群像の一部-
鹿内芳洲 相場の門出
鈴木達 伝令犬
中川爲延 尚武
永原廣 荒鷲
中村直人(会員) 工兵
羽下修三(招待) 蒙原睥睨
橋本朝秀(招待) 伝書鳩
長谷川榮作(会員) 病舎ノ一隅
羽田千年 平和への労苦
濱田三郎(招待) 出征譜
春永孝一 稜線
日名子実三(会員) 慰問袋
宮島久七 皇軍來
宮元光康 濁流
村岡久作(出征) 手榴弾
梁川剛一(招待) 瑞昌の人柱-細井軍曹-
吉田三郎(会員) 軍犬兵
吉田三郎(会員) 治安恢復
吉田三郎(会員) 偵察

聖戦美術展での絵画の特徴は、支那事変の大儀の無さに故に、そのイメージが固定されず、例えば絵画では、支那兵(中国兵)が描かれないとか、背を向けた日本兵が俯瞰で立っている大陸の風景画だとかが多い。
では彫刻はどうだと言えば、兵隊が立っていると言う様な作品にそれほどの違いは見られないのだだけど、ただ聖戦美術時にはモニュメントが無いと言えます。
そして、大東亜戦争美術では、ただ立っている兵隊でもモニュメンタルな象徴としてあることに比べ、聖戦美術では、よりモチーフの個人性が際立っているように思えます。
だから大東亜戦争美術では個人を描く胸像がほとんどありません。
言うなれば聖戦美術はより銅像的であり、大東亜戦争美術はよりモニュメント的だと言う事ですね。

その中でも、中村直人だけは、日本人を美化して描けていて、それによって彼が戦争彫刻のトップランナーに成り得たのだとわかります。

この日本人をある意味記号化して描くというスタイルは、戦後の佐藤忠良らに引き継がれるわけで、この時代はそれを用意したと言えますね。

2018年3月30日金曜日

FUMIO YOSHIMURA Nancy Hoffman Gallery 個展DM

「FUMIO YOSHIMURA」は戦後アメリカで活躍した日本人の彫刻家です。
彼が1973年にNancy Hoffman Galleryで個展を開いた時のDMがこちら。

手紙自体は、作家ではない人による記のようなのでぼかしています。(なんだかお怒りの手紙...)

さて、「FUMIO YOSHIMURA」ですが、
Wikiによれば
《東京芸術大学で絵を学び、1949年に卒業。
1960年代初頭にマンハッタンへ(1963年だと思われる。後述するケイト・ミレットの日本からの帰国に合わせて)フェミニスト作家のケイト・ミレットと結婚( 1985年に離婚)
タイプライター、ミシン、自転車、またはホットドッグのような日常的なものの彫刻を木彫で精密に製作するスタイルで、超現実主義と関連しているが、彼は作品を物体の「ghost」と表現している。
1981年よりダートマス大学で准教授として教鞭を執る。
2002年7月23日 死去》

日常品を細密木彫によって表現するスタイルは、現代でも見られるものですが、当時はポップアートや、シュールレアリスム、スーパーリアリズム等で語られたのでしょう。
彼が木彫を「ghost」と呼ぶのは、能や能面との関連を思わせますね。
それにしても、失礼ながら、こういったアメリカで活躍された日本人彫刻家がいたことをまったく知りませんでした。

それと、「FUMIO YOSHIMURA」についてネットで調べていますと、「吉村二三夫」と「吉村二三生」と両方表示されますが、ごちらが正しいのでしょう。

「吉村二三夫」では、中川直人オーラル・ヒストリーでケイト・ミレットとの出会いの仲介者として紹介されています。
「吉村二三生」では、1953年に成立した青年美術家連合に「フォール」から流れで参加したとあります。

どうも「吉村二三生」が正しそうです。
というのも、「シュルレアリスム宣言」を訳した評論家の巖谷國士にとって吉村二三生は母方の叔父にあたるそうで、彼の「かえで」という文章で叔父への思い出を語っています。
かえで

海外に渡って活躍した日本人彫刻家の先駆者と言えば、川村吾蔵を思い出されますが、どちらも日本での展覧会を行うことなく、母国で忘れられた作家というのが共通しています。(吉村二三生の名前さえあやふや...)
こういう作家は、まだまだいるのでしょう。
日本美術史の教科書で語られる作家だけが、日本の作家ではないですよね。

また、日常品の精密木彫といえば、1970年代の鈴木実の作品を思い出されますが、彼とは交流あったのかな?

それと、このバイクの種類がわからなかったのだけど、なんでしょう?
YAMAHAかな?
詳しい写真はこちら

2018年3月17日土曜日

長谷川義起 作「東京帝大総長賞」トロフィー

長谷川義起と言えば、スポーツをモチーフとした彫刻、特にベルリンオリンピックで等外佳作となった相撲をモチーフとした作品が思い浮かびます。
高岡古城公園で見ることの出来る「国技」等が代表作ですね。

その長谷川義起による、ゴルフをプレーする姿を描いたトロフィーがこちらです。


このトロフィーは、昭和10年、ゴルフのコンペで用いられたもののようです。
病理学の教授で東京帝国大学第12代総長となった長與又郎の寄贈した物だとわかります。
彼は東京帝国大学野球部長も務め、スポーツへの造詣も深かったようですね。

現在、東京大学には長與又郎の銅像がありますが、作者が不明です。
http://umdb.um.u-tokyo.ac.jp/DPastExh/Publish_db/1998Portrait/03/03200.html#077

そのトロフィーの裏側のプレートには歴代の優勝者でしょうか、多くの名前が載っています。
・本位田祥男(経済学)
・岸田日出刀(建築学)
・大河戸宗治(土木)
・田中於菟弥(インド文学)
・矢追秀武(医学)etc...

そうそうたる顔ぶれですが、惜しむには、この像が長谷川義起の相撲の像に比べ、どこか硬い印象を与えることです。
パターだからしょうがないのかもしれませんが、彼のダイナミズムが見えなくて残念。

まぁ、でも野々村一男の裸でゴルフに比べたら...




2018年3月14日水曜日

Intermission 靉嘔 ~70年代の本

特にコレクションしているわけではありませんが、手元にある本を紹介します。
アーティスト「靉嘔」が1970年代初頭に出版(?)した本だと思われます。

現在、埼玉県立近代美術館で「版画の景色 現代版画センターの軌跡」が開催中で、「靉嘔」の作品も展示されているようですね。



さて、この本ですが、版元が無いことから自費出版だと思われます。
内容としては、当時の靉嘔の雑文から、手紙、雑誌に記載した文が載せれられています。

久保貞次郎との手紙のやり取りや、イサム・ノグチとの日々、福井の人との関係、オルデンバーグやウォーホルとのイベント等、大変興味深い。
ここに書かれていることの多くは、彼のアーカイブ「靉嘔オーラル・ヒストリー 2011年11月6日」と同じです。(当たり前ですが)
ただ、作品の画像は殆ど載せていません。この当時は、作風を限定されることを嫌がっていたのかもしれませんね。

私としては、彼の作品をどう見たら良いのか分かりかねていたのですが、この本の一文でなんとなくわかるような気がしました。
「アメリカのポロックなどのアクションペインターは自然主義なんですよ。しかし土壌が違うから個人の合理性が根本にあるわけですね。・・・合理的な土壌がなければ、ぼくはいやだという気がする。・・・日本の場合は違いますね。拒否するものというのではなしに.....。」
彼は、(当時の)日本の湿った自然主義を嫌って、アメリカのポップを求めたのでしょう。
とは言え、私から見れば靉嘔のポップも大概に湿っているように感じますが。
まさに「拒否するものというのではなしに.....」なんでしょうね。

この湿り気は、例えば斎藤真一のポップにもあり、横尾忠則のポップにも感じます。
それに村上隆もそうです。
逆に感じないのは、草間彌生に日比野克彦、奈良美智...

あぁ、「靉嘔」は日本的な作家で、その文脈上にあるのだと、そう思いました。

2018年3月7日水曜日

ロシアの絵葉書

「デッチスキー公園ノ銅像(浦潮)」絵葉書です。
「浦潮」とはウラジオストク。
この絵葉書はウラジオストクのデッチスキー公園に建つ銅像前で撮った写真から作られたものだと思われます。
ウラジオストクと日本との関係は古く、日露戦争後には日本人街が生まれます。
この絵葉書は、訪れる日本人に向けて売られたものでしょう。
あの与謝野晶子も、シベリア鉄道に乗ってウラジオストクまで来ています。


絵葉書にある銅像ですが、ネット上を色々と探しましたが、見つからず...

しかし、公園内に建つ同じような台座を見つけました。
ただ、上にある像の姿が異なります。

この像は、「セルゲイ・ラゾの記念碑」だそうです。
セルゲイ・ラゾはロシア革命の戦士だそうで、そうなると、この絵葉書の時代に現状の像と同じ人物の像が建っていたとは考えられません。
当時の像を破棄され、今の姿に変えられたのでしょうか。
台座に比べ、像が新しい(キッチュ)である理由も説明できます。
となれば、かつてこれは帝政ロシア、ロマノフ王朝の誰かだったのかもしれません。
だからこそ、それを写真に撮り、記念の絵葉書としたのでしょう。

済軒学人著「浦潮斯徳事情」によれば、ウラジオストクには、美術奨励会なるものもあったようで、この地で仕事をした日本の芸術家たちもいたことでしょう。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/932607

そういったこの地の成果も全て、あのシベリア出兵(の失敗)の結果、全て失ってしまったのでしょうね。

もう一枚は、ロマノフ朝第13代ロシア皇帝であるアレクサンドル3世の銅像の絵葉書です。
この銅像は現在も存在しています。
https://fr.dreamstime.com/photo-stock-statue-%C3%A9questre-%C3%A0-l-empereur-alexandre-iii-st-petersburg-image58721034
ただ、絵葉書にある台座からは外され、別の場所に置かれているようです。

どの国のどんな銅像に於いても、始めは恒久的な顕彰を目的としながらも、なかなかそうはいかないものですね。

2018年2月28日水曜日

日名子実三原型 満州帝国皇帝訪日記念章

1935(昭和10)年は、満州の年号で康徳2年。
その4月6日、愛新覚羅溥儀は、天皇の招待により日本の地に降り立ちます。
その訪日は、日本をあげての祝日だったと言います。
この「満州帝国皇帝訪日記念章」は、その訪日を記念し、関係者に渡されたものだそうです。

原型は日名子実三。
戦を示す鏃の形に美しい花の姿と、相反する組み合わせですね。
この花ですが、菊でしょうか?
もし菊であれば、鏃と合わせてどちらも当時の日本、特に皇室のイメージです。
しかし、満州皇帝の訪日の記念に日本のみのイメージで表すというのは、どうも不自然な気がします。
であれば、満州の花、迎春花(オウバイ)なのでしょうか?
葉は似てますが、花の形や枚数が違います。
正解はなんでしょう?

下の動画は、戦前の流行歌「満州娘」です。歌詞に迎春花が出てきます。

また、記念章の中央には、「一徳一心」とあります。
これは『目的や利益が同じ者同士が心を一つにして事にあたること。または、君主と臣下が協力して物事を行うこと。』を指す言葉だそうです。
「日満一徳一心」は当時の満州との関係を表す言葉として、よく用いられたもののようです。
どちらが君主で、どちらが臣下だったのでしょうね?

2018年2月23日金曜日

Intermission 鈴木大拙と式場隆三郎

以前から戦時の仏教思想に興味があって、いつかちゃんと勉強したいと思っているのだけど、どこからはじめたら良いか迷っています。
特に鈴木大拙については、ちゃんと学ばなくちゃと思いつつ....その周辺である山田奨治著「東京ブギウギと鈴木大拙」を読む。
この本は、どちらかと言えば、大拙の息子のアランを軸に語った本です。
ただ、大拙の姿を神格化せずに書いていて、ここから大拙の姿を学び始めれた事は、良かったと思います。

前から興味があって、このブログでも何度か取り上げた式場隆三郎は、アラン挟んで鈴木大拙との親戚になります。アランの三番目の妻が式場の娘なのですね。
そして、柳宗悦を挟んで、師弟でもあります。

こちらがその相関図

式場隆三郎自身が鈴木大拙について書いた文章もいくつかあるようです。

私は、鈴木大拙や式場隆三郎、柳宗悦にアランも含め、彼らが自身の戦争にどういった思いを抱いていたか、とても知りたいと思っています。
彼らがどう考え、どう影響しあったのか。
さらに、民芸や児童画、山下清まで、それらがどのような影響下にあったのか。
そして、現在の私たちにどのように影響を与えているのか?

この「東京ブギウギと鈴木大拙」では、欧米人とのハーフであり、実の子でもなかったアランが戦争にたいしどう感じていたのか、それまでは書かれていません。
しかし、この本のような周辺の研究が当時の歴史全体に光を当てるような気がします。

ちなみに私の浅はかな考えですが、不肖の息子アランを育てたのは、やっぱり僧侶でもない(体験を共にしない)鈴木大拙の禅思想だったような気がします。
そして、戦争との関係は、著者が言うように、禅よりも真宗との関係で見直したほうが良いのではと思いました。

2018年2月14日水曜日

建畠大夢による日独伊親善図画記念品

以前紹介しました、昭和13年に行われた森永製菓株式会社主催「日独伊親善図画」の記念品ですが、この原型を制作した彫刻家の名前がわかりました。
http://prewar-sculptors.blogspot.jp/2017/02/blog-post.html
その作家は、建畠大夢。
彼が森永製菓に依頼され、制作したのがこの可愛らしい仏画のようです。

この記念品と一緒に渡された建畠大夢のメッセージがあります。
此度森永製菓株式会社が日独伊親善図画を企画するに當りその記念碑原型制作を依頼され私は喜んで之に応じたのであります。
まことに子供の世界は争も、憎しみもない平和な世界であって、私達の最も憧憬している親善の極致でありましょう。
万国共通の言語-図画を通じて表現される新しい力に満ちた子供の世界をモチーフとして、その姿をとりあげ、私は原型制作に當って見ました。
愉しい子供の世界をいささかでも再現でき、各位の御期待の万分の一にも副う事が出来れば望外の幸せです。 建畠大夢

今の私たちからすれば、日独伊の国家に争いも憎しみも無い平和な世界を見ることはできません。
当時はそれを夢見ることができたのですね。
そして、それを作品として託すことができた。
この無邪気で優しい作品は、裏返って残酷にも思え、...なんとも複雑な気持ちになります。

2018年2月12日月曜日

幸福な王子-銅像の幸せとは考察-

アメリカのリー将軍像や各国の慰安婦像、国内の裸婦像や、バブル期に乱立したランドマーク等々の問題、平瀬礼太著「銅像受難の近代」という本がありますが、現代もまた銅像にとって受難の時代ですね。
明治150年を記念しても、当時芽吹いた問題は現在になっても解決していません。

銅像があるイズムを持つものである限り、それに反感を持つものは必ずあるわけで、所謂ポリコレの立場からすれば、公共に特定のイズムを表する銅像など存在できない物です。
しかし、それでも人は何かを主張したい、表現したいといった呪怨から逃れられないものであります。

そういった思いを維持しつつ、他者との共存、つまり銅像が幸せにあるにはいったいどうしたら良いのでしょう?

先に「特定のイズムを表する銅像」と書きましたが、例えば日本の最初期の銅像である楠正成像なんて、正にそうですね。皇居外延に建てられたこの像は、天皇への忠義の象徴です。
だからこそ、戦前は修学旅行先に楠正成像観覧が選ばれたのでしょう。

では、もう一つの最初期の銅像、上野の西郷像はどうでしょうか?
現在、NHKで「西郷どん」が始まりましたが、彼は言わば反政府軍の親玉ですよね。そんな像が上野にど~んと建っているわけです。

西郷の死後、1889(明治22)年の大日本帝国憲法発布に伴う大赦によって西郷に正三位を追贈たことより、薩摩藩出身者が中心となって銅像建設計画が始まり、1898(明治31)年に建てられます。
建立の目的は、西郷の名誉回復、彼の思想の普及、上野戦争の弔い等々、なによりも薩摩の権威向上がそれだったでしょう。
しかし、この銅像建立には、彼が反政府の立場であったことから、権威を示す表象が削られ、場所や服装など大幅な手直しがなされた結果、現在の形となります。
つまり、この銅像は特定のイズムだけでなく、初めからその反対のイズムを取り込む形で出来上がっているのですね。

その結果、西郷像の建立の目的の表出が薄れます。
目的が薄れたことで、西郷隆盛像を目がけて紙玉を投げつけるという土着信仰的な奇妙な風習が流行(鼻に当たると出世すると言われた。)、関東大震災の時には、尋ね人の貼り紙を貼る掲示板代わりにされます。

楠正成像では考えれないようなあり方、より庶民に近い西郷像となったのですね。
そういった曖昧な姿だからこそ、「上野戦争の弔い」を勝者側のみのイズムのみで語らない、今で言うダークツーリズムとしての象徴ともなります。

そんな愛される西郷像こそが、銅像の幸せの姿だと私は思うわけです。
これは、政治的な判断が熟慮された結果のイズムの複雑化、西郷隆盛のキャラクターのお陰と、いろんなファクターが重なった結果であり、他の銅像も同じようにできるかと言えば、難しいのかもしれません。
誰もが見ても愛される象徴を意図するなど不可能なのかもしれません。
もし、それを可能にする姿があるとすれば、それはそういった銅像にめがけて誰もが紙玉が投げることができるかどうか...それで見分けができるのでしょう。

京都大学内に設置された「折田先生像」なんかも紙玉を投げることができる銅像ですね。(撤去させられましたが...)

つまり、その像の姿やデザインの問題ではなく、私たちが紙玉を投げることが出来る態度になっていること、それが銅像建立の為の条件であると思うのです。

慰安婦像に誰もが紙玉を投げることが出来ないのなら、それは銅像の幸せとは言えないのだと思います。
とは言え、銅像ではありませんが、沖縄県読谷村の洞窟「チビチリガマ」が荒らされた事件は許されるのかと問われれ、やりすぎだと答えれば、そのラインを示すのは難しいのですが。
しかし、そういう態度が絶対に許されないようでは、銅像たちは幸福な王子となって楽園に召されることはないと思うのです。